再び風をあつめて――『一枚のハガキ』とちゃんとつながっている『島々清しゃ』 | KEN筆.txt

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BGM:沖縄民謡『ちんさぐの花』

 

新藤風監督との出逢いは、2002年だったと記憶している。その年の2月に武藤敬司らが入団し新体制となった全日本プロレスの試合を、劇場上映するイベントを開催するのでそれ用にベストバウトを選出してほしいという依頼で週刊プロレス編集部を訪ねてきた。

 

2003年3月、シネマ下北沢にて数日間に渡りおこなわれた同イベントでは、上映前に所属選手が日替わりで出演しミニトークショーもおこなった。19日の回に足を運んだところ、その最中に冬木弘道さんが亡くなったという連絡が飛び込んできて、すぐに劇場を飛び出し横浜の病院へと向かったのを今も鮮明に憶えている。その時、スクリーンに映っていたのは冬木さんと川田利明選手の一騎打ち(2001年10月27日、日本武道館)だった。

 

初対面の時に、当然ながらDDT・新藤力也リングアナウンサー(当時)の妹であると自己紹介された。そうした関係から会場で見かけたり、DDTの選手・スタッフによる舞台にも出演したりするなど、直接的なかかわりこそないもののなんとなく近いところへいた気がする。

 

その後に映画監督として生み出した『転がれ!たま子』は見ないままだったが、少しでもDDTに関係する方とあれば成功を願わずにはいられない。世間的には新藤兼人監督の孫となるのだが、我々からすれば新藤アナの妹というのがその距離感だった。

 

そんな風監督の姿をDDTの会場で見かけなくなった頃、祖父が倒れた。入院生活が続く中、新藤監督は、孫に「心細いから、君、助けてくれないか」と告げたという。29歳で風監督は自身の創作活動をやめて一緒に暮らす道を選択する。

 

「現場でも生きるか死ぬかみたいな、命を燃やし尽くして映画を撮っている祖父を間近で見て、私も腹を括ろう、最後までこの人を支えようと思うようになりました」(『島々清しゃ』パンフレット掲載インタビューより)

 

2010年、新藤監督は遺作となる『一枚のハガキ』を99歳という年齢で完成させた。この偉業をマスコミがとりあげると車イスに座るその後ろには必ず風監督の姿があり、いつも微笑んでいた。

 

笑顔の向こうに、我々の知り得ぬ日常があるのは容易に想像できた。前作『石内尋常高等小學校  花は散れども』(2008年)は監督健康管理として、一枚のハガキでは監督補佐の位置から公私に渡って支え続けた。

 

「祖父の最後の1年半ぐらいは祖父の生理に合わせて、たとえばちょっとでも物音がすると起きるという、こま切れ睡眠のような生活がずっと続いていたので、当たり前な普通の生活ができなくなっていたんです」(同)

 

2012年5月に新藤監督が天寿を全うするまでの足かけ7年、時には衝突し、時には映画人としての素晴らしさを目の当たりにしながら、女性としてもっとも輝ける大切な期間のすべてを風監督は祖父に捧げた。その間、プライベートはなきに等しく、同世代の女性が経験する恋愛、結婚、出産といったものにも背を向け生きてきた。

 

DDTの中では兄を別とすると一番親しいと思われるナオミ・スーザン元ユニオンプロレス代表も、しばらく会っていなかったと言っていたから本当に24時間、祖父のもとから離れない7年だったのだろう。新藤兼人をもっとも近いところで、そして最後まで見届けた人間としていつか再びメガホンをとった時にその蓄積が生かされる――それが映画人・新藤風のやるべき使命だと、勝手に思っていた。

 

もちろんこれは、一方的な期待にすぎない。そのためにどれほどのものを彼女が捨てているかなど知ることもなかったのだから。じっさい、祖父の納骨が終わった時に36歳の誕生日を迎えたあとはポッカリと穴が開いた状態が続き、映画監督しての復帰を欲するようになるまで1年以上を費やした。

 

自身の作品で音楽を担当し、かねてから交流のあった磯田健一郎氏(今作品の脚本を手がける)から『島々清しゃ(しまじまかいしゃ)』の監督をやってみないかと勧められた時点で、風監督は映画を通じ11年の空白を埋めるためのリハビリであるという認識を持った。ゆるやかに時間が流れていく沖縄の離島が舞台。事件性や、過剰な演出など施さずともそこに人間がいるかぎりなんらかのドラマを描ける。

 

 

9歳の少女・うみ(伊東蒼)はわずかな音の狂いにも敏感に反応する特殊な音感を持っていた。それゆえに周囲との良好な関係を築くことができず思い悩む。そんな中、本土からコンサートをおこなうためにヴァイオリニストの北川祐子(安藤サクラ)がやってくる。音楽を通じ理解し合おうとする吹奏楽部の仲間たち、島の人々。そこにうみの祖父と母の存在が加わりコバルトブルーの波ぎわのごとく静かに、それでいて砂浜へ海水が染みていくように物語は進んでいく。

 

「おじい」と呼ばれる祖父役の金城実氏は現代沖縄民謡界の重鎮であり、早弾き三線(さんしん)の使い手として海外でも演奏し高い評価を受けている。当然、役者ではないのでセリフは棒読みに近いし、加えて現地の言葉で語るため1/3ほどは正確な意味を聞き取れない。でもそれは、わからなくていい。わからないことによって得られる“その場にいる感覚”の方が重要だからだ。

 

日射しの強い沖縄でロケを続けるうちに、風監督の顔が映画人のそれになっているのがパンフに掲載された写真からも見受けられる。海と、木々と空と、そして顔をくすぐる風…都会にはない生命のみなぎった空間が彼女に与えた力はどれほどのものだったか、スクリーン越しにも伝わってきた。

 

うみの母・さんご(山田真歩)は島を離れ那覇で住んでいる。男手ひとつで厳しく育てられたことから歌や踊りの才能のなさに負い目を感じ、家族で暮らせないと思い込んでいた。

 

だから踊りを習い、うみに母親として認めてもらえればまた一緒に住める――このあたりの家族間の葛藤と、それを乗り越えたところにある絆は、風監督自身が意図したものかどうかは別として新藤監督が生前に唱えていたことを思い起こさせた。

 

映画プロデューサーであり、近代映画協会社長である父・新藤次郎氏が編集した『スクリーンの向こうに 新藤兼人の遺したもの』(NHK出版)は新藤監督の遺稿をまとめた書だが、その中で何よりも強く訴えているのが家族というつながりの大切さだった。ヒロシマで生まれ育った監督の実体験に基づく「家族を失わせてしまうのが戦争。だからやってはならないのです」の言葉は、数々の作品と同等の思いで伝えたかったはずである。

 

 

それを踏まえた上でエンディングを見ると、風監督の中にはちゃんと新藤兼人がいるのだと思えた。7年間の中で味わってきた思い、刻んできた感覚はリハビリを経験し、ようやくリスタートを切ったここからより形とされていくに違いない。沖縄の時の速度が、現時点における風監督の歩幅なのだろう。

 

舞台も年代も背景もまったく違うのに、私の中では戦争によって引き裂かれた夫婦の物語である一枚のハガキと、祖父と孫の関係性を投影させたと思われる島々清しゃが地続きとなった。監督・新藤風が帰ってきたことを誰よりも喜んでいるのは…言うまでもない。

 

▲劇場にディスプレイされていた日刊ゲンダイ紙掲載新藤風監督インタビュー記事

 

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映画『島々清しゃ』公式サイト