昭和二年五月一日発行の「知識の宝庫」から書いていこうと思います。

 

 

 軍人に賜ひし勅諭

 

我が国の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ所にぞある。

 

昔、神武天皇、みづから大伴・物部の兵どもを率い、中つ国のまつろはぬものどもを討ち平らげ給ひ、高御座につかせられて、天下しろしめし給ひしより、二千五百有余年を経ぬ。

 

此の間、世の様の移り換はるにしたがひて、兵制の改革も、また屡々なりき。

 

古は天皇みづから軍隊を率ひ給ふ御制にて、時ありては、皇后・皇太子の代はらせ給ふこともありつれど、大凡、兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき。

 

中つ世に至りて文武の制度、皆唐国風に倣はせ給ひ、六衛府を置き左右馬寮を建て、防人など設けられしかば、兵制は整ひたれども、打ち續ける昌平になれて、朝廷の政務も漸く文弱に流れければ、兵・農おのづから二つに分かれ、古の徴兵はいつとなく壮兵の姿にかはり遂に武士となり、兵馬の權は一向に其の武士どもの棟梁たる者にきし、世の乱れと共に、政治の大權もまた、其の手に落ち、凡そ七百年の間、武家の政治とはなりぬ。

 

 

 

 

世の様の移り換はりて斯くなれるは、人力もて挽回すべきにあらずといひながら、且つは我が国體にもどり、且つは我が祖宗の御制に背き奉り、浅間しき次第なりき。

 

降りて、弘化・嘉永の頃より、徳川の幕府、其の政衰へ、剰へ外国の事ども起りて、其の侮りをも受けぬべき勢に迫りければ、朕が皇祖仁徳天皇・皇考孝明天皇、いたく宸襟を悩し給ひしこそ、忝くもまたかしこけれ。

 

然るに、朕、幼くして天津日嗣(あまつひつぎ)を受けし初め、征夷大将軍、其の政権を返上し、大名、小名、其の藩籍を奉還し、年を経ずして、海内一統の世となり、古の制度に複しぬ。

 

是れ、文武の忠臣良弼ありて、朕を輔翼(ほよく)せる功績なり。

 

歴世祖宗(れきせいそそう)の、専ら蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへども、併しながら我が臣民の、其の心に順逆の理をわきまへ、大義の重きを知るが故にこそあれ。

 

されば、此の時に於いて兵制を再め、我が国の光を耀かさんと思ひ、此の十五年が程に、陸・海軍の制をば、今の様に建て定めぬ。

 

夫れ、兵馬の大権は朕が統ぶる所なれば、其の司々をこそ臣下には任すなれ、其の大綱は、朕、親ら之を攪り、肯て臣下に委ぬべきにあらず。

 

子々孫々に至るまで、篤く斯の旨を傳へ、天子は文武の大権を掌握するの義を存して、再び中世以降の如き失體なからんことを望むなり。

 

朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。

 

されば朕は汝等を股肱と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎてこそ、其の親みは殊に深かるべき。

 

朕が国家を保護して上天の恵に應じ、祖宗の恩に報いまゐらすることを得るも得ざるも、汝等軍人が、其の職を盡すと盡さざるとに由るぞかし。

 

我が国の稜威振はざることあらば、汝等は能く朕と共に其の憂いを共にせよ。

 

我が武維れ揚がりて其の栄を耀さば、朕、汝等と共に其の誉を偕にすべし。

 

汝等、皆其の職を守り、朕と一心になりて、力を国家の保護に盡さば、我が国の蒼生は永く太平のさいわいを受け、我が国の威烈は大いに世界の光華ともなりぬべし。

 

朕、斯くも深く汝等軍人に望むなれば、なほ訓へ諭すべき事こそあれ。

 

いでや之れを左に述べん。