2024年1月3日

明治大学体育会競争部OBの山岸達也氏(70)と

大手町のサンケイプラザ、第100回箱根駅伝

明治大学ライブビューイングゲストハウスにて




日本で除夜の鐘を聞き、新年を迎えたのは何十年振りだろうか?


世田谷区立の北沢中学生の時に迎えた”東京オリンピック”(1964年)”。

あの10月10日の開会式の日本選手団の入場行進から、閉会式で国立競技場の聖火が消えるまで

もう、ただただ興奮の2週間だった。

 

開会式はテレビの前にかじり付いて観ていたのだが、その日本選手団の入場行進の先頭に

オノちんと呼ばれ、やたらに生徒をブン殴るので恐れられていた我が北中の体育教師の小野先生が、

最前列で整然と行進してきてその勇姿がアップでTV📺に写し出されたのには、もう

「本当にあのオノちんか⁉️」

と翌日から学校中の生徒間で大騒ぎになった。


(未だにその真相は解らないが)、北中の卒業生で水泳部の教え子だった福島選手が

東京大会水泳代表選手として出場してたから、

オノちんは水泳協会でデカい顔してんだろう、と小野先生に

年中殴られていた悪ガキ連の間での推測であった。


昨年の全国高等学校野球選手権大会の時に、出場校野球部員の髪型が話題になったが、

自分の十代の昭和39年当時は

中学でも高校でも運動部に所属している男子生徒は、『負ければ坊主🧑‍🦲』という風潮の中で青春時代を送っていたのだ。

そんな中で、上級生からのビンタは当たり前。

まして体育教師から拳骨での制裁は、愛のムチとして学校側も父兄も黙認してた。


時代は変わったなあ、とつくづく感じる。


確かにIOCでもJOCでも、どれほどその競技でメダル有力選手を抱えているかによって役員のその政治的な発言力は違ってくる。

戦後東京オリンピック64までは、水泳協会は水泳ニッポンとして多大な力を持っていた。

しかしながら東京大会では水泳は惨敗し、お家芸と言われた柔道も無差別級のヘーシンクに敗れ、

日本国民を沸かせたのは、レスリングのメダリスト達、団体と個人で活躍した体操チームや東洋の魔女のバレーボールチームであり、

アベベの後を追って最終日の国立競技場に日の丸🇯🇵を上げたマラソンの円谷選手であった。


円谷選手は僕らのヒーローになった。

翌週から土曜日の放課後は、ヒーローの走った甲州街道の笹塚や代田橋付近にクラスの半数以上の男子生徒と他クラスの男子生徒が集合し飛田給のマラソン折り返し点まで走っては戻ってくるというマラソンごっこ🏃を飽きがくるまで遊んだ。


やがて中学を卒業し入学した都立千歳高校は、同じ北中からいったマラソンごっこの友人と陸上班(部活)に入部して、

長距離走に夢中になって3年間を過ごした。

毎日毎日ヘトヘトになるまで走って

、家に帰ってはゴロッと横になって寝るだけでの生活で学業成績は下がる一方。


千歳高校は進学高校であったが、

「インター杯駅伝の都予選では、都立普通科の中ではトップになる」というのが毎年の陸上部の年間目標。

高校駅伝はマラソンの距離、42,195Kmを7区間に分けて7名の選手で襷をつないで走る。


ビートルズが来日し、沢田研二のタイガースにクラスの女の子達がマッシュルームカットやロングヘアにキャーキャー騒ぐ中、

「俺たちは硬派だから」と、千歳高校陸上部は、変に校風が旧制府立中学時代の蛮カラなところがあり、” 私立高校には負けても都立の普通科の中では俺たちが1番だ ”、という

変な自己満足が達成されないと、コーチのOBを始めとして全員丸坊主🧑‍🦲になるという1年生にとっては理不尽ではあるが、3年生になると今度は”もうソレって当たり前”という不文律の掟が脈々と続いていた。


高校の3年間なんて今思えば心身の非常に不安定な、自分で自分自身をコントロール出来ない時期で、しかも我々の時代は大学紛争の余波が高校にも押し寄せてきていた。


そんな中で自分が3年の時に1年生で入部してきた山岸達也君が3年の時に1区10,000mを走った東京都予選は見事に全体16位、都立高校普通科のトップになり

ヘッドコーチであった私も

自分の高校時代には成し得られなかった目標達成が出来、溜飲を下げることができた。


それまでにも千歳高校から箱根駅伝ランナーになった先輩は岩崎さん(青学の元監督)など何名かいたが、山岸達也君は一浪後、明治大学に進学して2年時の第50回箱根駅伝の8区を走った。

高校でも弱小都立高校のエースランナーとして、大学でもキツい8区を走り両足のアキレス腱と腰を痛めて、その箱根駅伝を最後にランナーとしての生命は終わった。


都立千歳高校は石原都政の時代に閉校にされてしまったので、

山岸君は千歳高校の伝説のラストサムライ、箱根駅伝ランナーとなったのだが、その後社会人になって母校の明治大学体育会競争部 柴交会会長としてこの5年間は後進の指導にあたってきた。

その彼も今年は古希を迎え、すでに心臓にはペースメーカーが植え込められ、この箱根駅伝100回大会を最後の勇退の花道に決めたという。


今年3月の明大競争部100年記念パーテイに、自身の作曲した箱根駅伝明治大学応援歌をバンドを率いて披露するらしい。


そうそうそうそう、山岸!

ゴール目指して走り抜け‼️

まだまだお前はやれるぞ。



明治大学体育会競争部紫交会会長山岸達也氏

第50回箱根駅伝8区ランナー

第100回箱根駅伝を終えての2日間の応援、支援に感謝の挨拶。


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