DVDがアルファベット順に並べられている棚のAの一番最初にあったAmerican Wrestler :Wizard (2016年度作品)、そして今話題のハリウッド俳優ウイル・スミスの映画the PURSUIT of HAPPYNESS (邦題 幸せの力、2006年度作品)の2つの映画を借りてきた。
ちなみに、ここフロリダにはゴールデンウィークはない!
私は昭和26年の生まれ。
日本流に言えばすでにシルバー世代の人間である。
あえてつまらんオヤジギャグを言わせてもらえば、
私にとっては、毎週が(ゴールデンウイークではなくて)シルバーウイークなのです!なあんちゃって〜。(笑😊)
アメリカ映画はほとんど全てハッピーエンドで終わリますね。
主人公が様々な苦難に遭遇する。
映画を観ているものはその都度主人公を頑張れ、と応援し、そして彼は力強く立ち上がり、最後に栄光を掴むのです。
シルベスタ・スタローンの『ロッキー』なんかはその典型ですね。
その苦難は人種差別であったり、性差別、あるいは生まれつきや事故による身体的なハンデイキャップ、家庭内虐待、夫婦や親子の不和、職場や学校での同僚や仲間からのイジメ、おおよそ誰にでもその人生の中で一つや二つ経験する類いの、世界中の人間に共通の苦難ですから、アメリカ映画の制作はこういった事をストーリーの骨格にして英語で制作しても、字幕さえ整い配給先さえあれば世界に配給し、収益をあげるビッグビジネス。
American Wrestler:The Wizard の方はわからないが、後者の方は製作費55億ドル、世界配給収益307億ドル。
映画1本でザッと250億ドルの利益を産むのです。
シリコンバレーでIT産業が盛んになるまでは、カリフォルニア州の産業といえばハリウッド映画、という時代もありましたっけ。
さて、“ロッキー”の様なボクサーを題材とした映画はいろいろ観たが、アマチュアレスリングを題材にしたものを観るのはこれが初めてだ。
主人公は80年代の革命の最中のイラン🇮🇷から脱出し、カリフォルニアの田舎町にイランから移住した叔父さんの家に住みその地域の高校に通い始めるのだが、持参したランチボックスの中身はイランという異文化の物、クラスメイトにそれをからかわれ、そしてその上アメリカの敵国人扱いされてクラス内での孤立、学校でのイジメはあるがフランス語を通じてのガールフレンドとの恋の芽生え。
そして部活として入部したレスリングで、かつてイランではレスラーだった叔父さんと高校レスリング部コーチの厳しい指導によって168ポンド級の高校チャンピオンになるというアリ・ジャハニーの実話を基にした映画。
イジメッ子との喧嘩両成敗で高校の校長がアリを呼び出し
「君は自分は特別だと思っているのか?
誰の家族でも他所からここに来た新参者は、以前から居た住民から受ける嫌がらせに耐えなければならなかった。そういうものなのだ。それが200年以上、ずーっと(ここでは)続いているんだから。その事への挑戦が理解できればキミが獲得しようと思って獲得できないものは何もない。(獲得出来るか出来ないかはキミ次第だ)』とアリに向かって説いた言葉の内にこそ、アメリカに来た移住者の根底にあってアメリカ社会を突き動かしている原動力、移住者の弛まぬ努力によるアメリカ社会の活性化の秘密が隠されている。
the PURSUIT of HAPPYNESS
この映画の舞台は1981年のサンフランシスコ。
ウイル・スミス扮する主人公クリス・ガードナーは路上で見かけた真っ赤なフェラーリの持ち主がストックブローカーという職業に就いている事を知り株取引仲買人になる決心をした。
事業に失敗し、妻に三下り半の離婚を言い渡され自分が引き取った幼い息子を育てながら、ストックブローカーになる夢を諦めず、一時は家賃も払えずホームレス生活をしながらも誠実さと努力で勝ち組になったクリス・ガードナーという実存する成功者の物語だ。
アメリカの独立宣言に記されている理念
”生命、自由、そして幸福の追求の権利“
に由来するこの映画のタイトルThe Pursuit of Happyness 「幸福の追求」を邦題”幸せのちから”にしてしまったのは何故なのだろう?
自分の映画の楽しみ方は、その舞台となる地が自分がかつて訪れた所や旅先であったりすると、その時の事がフラッシュバックされて若かった頃の自分史の思い出が脳裏に浮かんで、ドバドバと脳の中にドーパミンが溢れ出る。
この映画の背景に垣間見えるサンフランシスコの街並み。
金融街やチャイナタウン、坂道、ゴーデンゲートブリッジが懐かしい。
サンフランシスコは自分が初めて踏んだ北米の地である。空港に降り立つや否や聴こえてきた空港内の英語のアナウンスが全く分からず、不安感で一杯になったその時の事。
それから時を経て1990年代始めに業界誌が主催したヘルスエクスポがサンフランシスコであり、アメリカの雑誌社の依頼で浪越徹先生の講演のコーディネートをしたのだが、その当時の事が走馬燈の如く思い出されて懐かしい気持ちで一杯になった。