木更津市長杯剣道大会は6月18日、木更津市内8校の中学の男子及び女子団体戦が行われた。
この大会は来月に行われる木更津、袖ヶ浦、富津、君津4市の宇井杯、木更津、袖ヶ浦市ブロックで行われる中学総体千葉県地区予選の前哨戦でもあり、木更津市内の小大会とはいえ、結構力のはいる大会である。
当初の予想は籤運にもよるが、最初のリ-グを抜けられたとして、木更津2中男子は福来田、岩根中と当った段階で負け、中郷中には苦戦するという予想であった。
波岡中男子は実質3名の働きにかかってしまうので、団体は不利、女子は畑沢中に苦戦で辛勝、中郷中女子とは五分の試合で勝敗は分からずという予想であった。
結果は2中男子優勝、波岡女子準優勝であった。
木二中男子の勝因は、「試合慣れ」の一言。
それと各自が上ずらず、自分の実力を十分出せたこと。
大事なところで誰かが負けると次がまさかの勝ちを拾うという、歯車がかみ合っていたところである。
女子については普段の稽古の賜物で、まったく実力通りの結果であり、強いて言えば幸運は全く無く、実力のみの内容といえる。
さて、私は他の指導者とともにこれらの子供たちに剣道を教えているが、今回の2中の結果についての指導者の正直な感想は「嬉しさも半分」の一言である。
波岡女子については「本当に良かったな、良くやった」という感想である。
このようなコメントを出すと物議を醸したり、何で喜ばないのと考える方が多いと思います。
しかし、ここが剣道で一番大事なところなので、今回あえてブログに書くことにした。
剣道の理念という、剣道を学び、指導する者であれば必ず知っておくべき理念がある。
「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である。」
範士九段小川忠太郎先生の「剣道」という本があり、最初にこの剣道の理念が説明されている。
剣道の「剣」とはなにか、「道」とはなにか。
長くなるので割愛するが、字の通り竹刀ではなく刀=剣という観念で使いなさいということ。
そうしたら打ち合いは当てっこでなく生死の問題であり、剣道修行の目標は「生死を明らめること」になる。
この心が人生の土台になり、刀を差さない現代に役に立つと書かれている。
人が生きてゆくために助けにならないことをやったのでは意味が無い。
また剣道を通して修行するということは段を取ることでも試合に勝つことでも無いとも書かれている。
全くその通りと思う。
ではなぜ試合を行い、段を受験するのか。
私の考えは、剣道を通して長い人間の道の修行を行うには、途中の道しるべが必要であるということ。
いきなりエベレストの頂上を目指すのでなく、初段を取ったら2段とか、試合を行うことにより、自分の今までの稽古の良し悪しを相手に見ていただき、自分の足らざるを教えていただくことと考えている。
試合に出て負けても良いとはどこにも無く、真剣にやるからには勝つべく最大の努力をするのは当然のことである。
人生はそうそう甘くなく、あらゆる苦難が待ち構えており、普通の人々はそれぞれの苦労や悩みを抱え、仕事で戦っている。
真剣で全力の稽古、「生死を明らかにする」ような稽古を行い、胆力を練り、本質を見失わない明晰な判断を行い、いざ人生の大一番というときに、慌ててしまったり、逃げ出してしまったり、投げ出してしまわないように、我々凡人は不断の努力を必要とする。
そのための手段が剣道であると考える。だかららなにも剣道だけが方法ではない。禅をやるもよし、他の武道やで人間を鍛えるもよしと思う。
話が長くなってしまったが、なぜ二中男子の優勝の喜びが半分かというと、勝負であるので勝った事には喜びがあるが、
剣道稽古の目的や姿勢がまだまだだということ。今の状態は真剣な稽古でなく練習である。
そこが出来てないのに優勝してしまったことが、この優勝がある意味子供たちに間違った方向を持たせやしないかという懸念を指導者が持っていることである。剣道全般の出来具合は岩根中や福来田中のほうが明らかに上であった。
前回の山田次朗吉杯も優勝したが、内容的には反省の余地のある勝利であった。
平成15年6月に今の高校3年生が木更津市長杯で、準決勝で木二中大将が面で先行、あわやと思った瞬間相手に面を取られ、勝負となった。
最後の勝負を賭けた相面で長岡に旗1本、相手の福来田中の大将に2本上がり、このときは優勝できず3位であった。
試合が終わったあと、うちの大将は体育館の隅で男泣きし、此方としても慰める言葉が出なかったことがある。
負けて涙が出るほど真剣に稽古を行っていたということ。責任感。ここが大事な事と思っている。
今回は優勝したものの、なにか漠然としていて前回のような湧き上がる感動が無い。
結局今の子供は本当の稽古をしてないから、勝てばよい、負けても涙も出ず。という部分が若干ある。子供は子供で一生懸命と思っているだろうが、前の子供にやらせたような、掛かり稽古で人間を鍛える稽古をさせると、自分が一番やりたくない部分なので手を抜いてしまう。
また今回の大会で審判長の講話があり、打突の好機のとらえ方が甘いという指摘があった。
つまりバカバカ打っているが、ここが勝負という剣道の醍醐味が出ていない。打突の好機を逃さない勝負は観客も審判も緊張し、感動する。今回は審判を行っていてもその点は審判長ご指摘の通りと思う。この点は木更津二中ばかりでなく、全ての中学に当てはまる。
最近色々な指導者と話をしていると、今の子供は飽きっぽい、忍耐力が無いとの事を聞く。
随って指導者も手を変え品を変えメニュ-を作る。
無理をさせると皆辞めてしまうのである。部員がいなければ団体や部は存在しない。結局指導者は存続を選ばざるを得なくなる。次に入ってくる、真剣に剣道を学ぼうとする子供の為に。
まとまりが無いのだが、これらは全て私の指導力の無さが原因であるが、保護者にも、他の指導者にも言いたいのは、剣道を学ばせたい、教えたいと思ったら、最低「剣道とは剣の理法の修練による人間形成の道である。」ということだけ理解していただきたい。
その場の試合に運よく勝てたとしても、幸運はそれほど続かず、真剣な稽古をしていない地金はどこかで出てしまう。どこに出ても恥ずかしくない日頃の真剣な稽古、規則正しい日常生活、規律ある態度を養うことが重要であることは、剣道を経験してない方でも当たり前のことと思うはず。
その部分が出来てないので、指導者の喜びも半分となってしまった。
せっかく優勝したが非常に残念である。
今後はこの部分を大きな課題として指導に当たることになる。一番の難題と思っている。
どんなに剣道が強くとも、どの大会で勝とうとも、勝ったということと、その子供や人物に対する評価は全く別物である。試合で勝とうが日常生活の評価や社会的評価が低いと全く話にならないということ。
今回は木更津市内の小大会であったので一寸したテクニックや練習で勝ったが、本気に稽古をしている学校と当たったら一たまりも無い。先日の道場連盟の大会の結果がそれを物語っている。構えた途端、気力で圧されて下がった所を一撃で負ける結果であった。
生徒には自分の剣道の目標を高く置いて、今以上のレベルを目指してもらいたい。本物に勝つ努力をすることにより、私達の持つ不安や問題点は解決されると思う。
我々指導者はそれを知っているため、今回のようなコメントとなってしまった。
個人的なことであるが、生徒に正しい剣道を学んで貰いたいのは、彼らが次世代の地域の剣道指導者になるということがあるからである。正しい剣道をそのために学んでもらいたいと願っている。
自分が死んだとき、子供達には、「うちの親父は剣道馬鹿であったが、人柄のいい親父だった。へたくそな剣道を一生懸命地域の子供に教えていたな。」と心に残ればよいと思う。そして私の子供が自分の子供を持ったときに、「親父はあんなことをしていたな。」と今度は自分が地域の為に貢献して欲しい。
社会貢献というレベルではないが、人である以上、できる範囲で他人の面倒を見てあげることが、日本人の良識であり、今日までの日本の繁栄を支えてきた人的原動力と思う。最近の個人主義、勝利主義の歪が取りざたされているが、実際日本の社会では、まだまだ日本人の良き社会性が日本の躍進の原動力であると思う。
自分が今まで剣道を習い、教えていただいた先生方には既に鬼籍に入られている先生もいる。
仕事の上で随分と岐路に立たされることがあったが、もともと気の弱い性質の私が今日までやってこれたのは、これらの先生に子供のときに大分良い指導を受けたためと感謝している。
最近、奈良で剣道二段の優秀な高校生が家族を放火で殺してしまった事件はご存知と思う。
詳細は知らないが、かなり親子間の関係が問題だったように思う。高校1年で剣道2段はそこそこのレベルの子供と思う。なぜ、そこまでのことをしたのか、心の闇はわれわれには計りかねる。
この子供がここに至るまでに、こんな剣道の効用が発揮されなかったのか、残念に思う。この子供の問題は特異なことでなく、一歩間違えば誰にでも起こりうると考える。
最後に剣道をせっかく学ぶのであるから、武士道としての剣道という面に是非眼を向けてゆきたい。
最近読んだ藤原正彦氏の「国家の品格」の一部を披露して、このまとまりの無い思いつきブログの締めくくりとしたい。
『日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき「国柄」を長らく忘れてきた。「論理」と「合理性」頼みの「改革」では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことである。』
剣道経験者でない方でも武士道精神の重要性を説いている。いわんや我々剣道を学ぶものは尚更と痛感した。
この大会は来月に行われる木更津、袖ヶ浦、富津、君津4市の宇井杯、木更津、袖ヶ浦市ブロックで行われる中学総体千葉県地区予選の前哨戦でもあり、木更津市内の小大会とはいえ、結構力のはいる大会である。
当初の予想は籤運にもよるが、最初のリ-グを抜けられたとして、木更津2中男子は福来田、岩根中と当った段階で負け、中郷中には苦戦するという予想であった。
波岡中男子は実質3名の働きにかかってしまうので、団体は不利、女子は畑沢中に苦戦で辛勝、中郷中女子とは五分の試合で勝敗は分からずという予想であった。
結果は2中男子優勝、波岡女子準優勝であった。
木二中男子の勝因は、「試合慣れ」の一言。
それと各自が上ずらず、自分の実力を十分出せたこと。
大事なところで誰かが負けると次がまさかの勝ちを拾うという、歯車がかみ合っていたところである。
女子については普段の稽古の賜物で、まったく実力通りの結果であり、強いて言えば幸運は全く無く、実力のみの内容といえる。
さて、私は他の指導者とともにこれらの子供たちに剣道を教えているが、今回の2中の結果についての指導者の正直な感想は「嬉しさも半分」の一言である。
波岡女子については「本当に良かったな、良くやった」という感想である。
このようなコメントを出すと物議を醸したり、何で喜ばないのと考える方が多いと思います。
しかし、ここが剣道で一番大事なところなので、今回あえてブログに書くことにした。
剣道の理念という、剣道を学び、指導する者であれば必ず知っておくべき理念がある。
「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である。」
範士九段小川忠太郎先生の「剣道」という本があり、最初にこの剣道の理念が説明されている。
剣道の「剣」とはなにか、「道」とはなにか。
長くなるので割愛するが、字の通り竹刀ではなく刀=剣という観念で使いなさいということ。
そうしたら打ち合いは当てっこでなく生死の問題であり、剣道修行の目標は「生死を明らめること」になる。
この心が人生の土台になり、刀を差さない現代に役に立つと書かれている。
人が生きてゆくために助けにならないことをやったのでは意味が無い。
また剣道を通して修行するということは段を取ることでも試合に勝つことでも無いとも書かれている。
全くその通りと思う。
ではなぜ試合を行い、段を受験するのか。
私の考えは、剣道を通して長い人間の道の修行を行うには、途中の道しるべが必要であるということ。
いきなりエベレストの頂上を目指すのでなく、初段を取ったら2段とか、試合を行うことにより、自分の今までの稽古の良し悪しを相手に見ていただき、自分の足らざるを教えていただくことと考えている。
試合に出て負けても良いとはどこにも無く、真剣にやるからには勝つべく最大の努力をするのは当然のことである。
人生はそうそう甘くなく、あらゆる苦難が待ち構えており、普通の人々はそれぞれの苦労や悩みを抱え、仕事で戦っている。
真剣で全力の稽古、「生死を明らかにする」ような稽古を行い、胆力を練り、本質を見失わない明晰な判断を行い、いざ人生の大一番というときに、慌ててしまったり、逃げ出してしまったり、投げ出してしまわないように、我々凡人は不断の努力を必要とする。
そのための手段が剣道であると考える。だかららなにも剣道だけが方法ではない。禅をやるもよし、他の武道やで人間を鍛えるもよしと思う。
話が長くなってしまったが、なぜ二中男子の優勝の喜びが半分かというと、勝負であるので勝った事には喜びがあるが、
剣道稽古の目的や姿勢がまだまだだということ。今の状態は真剣な稽古でなく練習である。
そこが出来てないのに優勝してしまったことが、この優勝がある意味子供たちに間違った方向を持たせやしないかという懸念を指導者が持っていることである。剣道全般の出来具合は岩根中や福来田中のほうが明らかに上であった。
前回の山田次朗吉杯も優勝したが、内容的には反省の余地のある勝利であった。
平成15年6月に今の高校3年生が木更津市長杯で、準決勝で木二中大将が面で先行、あわやと思った瞬間相手に面を取られ、勝負となった。
最後の勝負を賭けた相面で長岡に旗1本、相手の福来田中の大将に2本上がり、このときは優勝できず3位であった。
試合が終わったあと、うちの大将は体育館の隅で男泣きし、此方としても慰める言葉が出なかったことがある。
負けて涙が出るほど真剣に稽古を行っていたということ。責任感。ここが大事な事と思っている。
今回は優勝したものの、なにか漠然としていて前回のような湧き上がる感動が無い。
結局今の子供は本当の稽古をしてないから、勝てばよい、負けても涙も出ず。という部分が若干ある。子供は子供で一生懸命と思っているだろうが、前の子供にやらせたような、掛かり稽古で人間を鍛える稽古をさせると、自分が一番やりたくない部分なので手を抜いてしまう。
また今回の大会で審判長の講話があり、打突の好機のとらえ方が甘いという指摘があった。
つまりバカバカ打っているが、ここが勝負という剣道の醍醐味が出ていない。打突の好機を逃さない勝負は観客も審判も緊張し、感動する。今回は審判を行っていてもその点は審判長ご指摘の通りと思う。この点は木更津二中ばかりでなく、全ての中学に当てはまる。
最近色々な指導者と話をしていると、今の子供は飽きっぽい、忍耐力が無いとの事を聞く。
随って指導者も手を変え品を変えメニュ-を作る。
無理をさせると皆辞めてしまうのである。部員がいなければ団体や部は存在しない。結局指導者は存続を選ばざるを得なくなる。次に入ってくる、真剣に剣道を学ぼうとする子供の為に。
まとまりが無いのだが、これらは全て私の指導力の無さが原因であるが、保護者にも、他の指導者にも言いたいのは、剣道を学ばせたい、教えたいと思ったら、最低「剣道とは剣の理法の修練による人間形成の道である。」ということだけ理解していただきたい。
その場の試合に運よく勝てたとしても、幸運はそれほど続かず、真剣な稽古をしていない地金はどこかで出てしまう。どこに出ても恥ずかしくない日頃の真剣な稽古、規則正しい日常生活、規律ある態度を養うことが重要であることは、剣道を経験してない方でも当たり前のことと思うはず。
その部分が出来てないので、指導者の喜びも半分となってしまった。
せっかく優勝したが非常に残念である。
今後はこの部分を大きな課題として指導に当たることになる。一番の難題と思っている。
どんなに剣道が強くとも、どの大会で勝とうとも、勝ったということと、その子供や人物に対する評価は全く別物である。試合で勝とうが日常生活の評価や社会的評価が低いと全く話にならないということ。
今回は木更津市内の小大会であったので一寸したテクニックや練習で勝ったが、本気に稽古をしている学校と当たったら一たまりも無い。先日の道場連盟の大会の結果がそれを物語っている。構えた途端、気力で圧されて下がった所を一撃で負ける結果であった。
生徒には自分の剣道の目標を高く置いて、今以上のレベルを目指してもらいたい。本物に勝つ努力をすることにより、私達の持つ不安や問題点は解決されると思う。
我々指導者はそれを知っているため、今回のようなコメントとなってしまった。
個人的なことであるが、生徒に正しい剣道を学んで貰いたいのは、彼らが次世代の地域の剣道指導者になるということがあるからである。正しい剣道をそのために学んでもらいたいと願っている。
自分が死んだとき、子供達には、「うちの親父は剣道馬鹿であったが、人柄のいい親父だった。へたくそな剣道を一生懸命地域の子供に教えていたな。」と心に残ればよいと思う。そして私の子供が自分の子供を持ったときに、「親父はあんなことをしていたな。」と今度は自分が地域の為に貢献して欲しい。
社会貢献というレベルではないが、人である以上、できる範囲で他人の面倒を見てあげることが、日本人の良識であり、今日までの日本の繁栄を支えてきた人的原動力と思う。最近の個人主義、勝利主義の歪が取りざたされているが、実際日本の社会では、まだまだ日本人の良き社会性が日本の躍進の原動力であると思う。
自分が今まで剣道を習い、教えていただいた先生方には既に鬼籍に入られている先生もいる。
仕事の上で随分と岐路に立たされることがあったが、もともと気の弱い性質の私が今日までやってこれたのは、これらの先生に子供のときに大分良い指導を受けたためと感謝している。
最近、奈良で剣道二段の優秀な高校生が家族を放火で殺してしまった事件はご存知と思う。
詳細は知らないが、かなり親子間の関係が問題だったように思う。高校1年で剣道2段はそこそこのレベルの子供と思う。なぜ、そこまでのことをしたのか、心の闇はわれわれには計りかねる。
この子供がここに至るまでに、こんな剣道の効用が発揮されなかったのか、残念に思う。この子供の問題は特異なことでなく、一歩間違えば誰にでも起こりうると考える。
最後に剣道をせっかく学ぶのであるから、武士道としての剣道という面に是非眼を向けてゆきたい。
最近読んだ藤原正彦氏の「国家の品格」の一部を披露して、このまとまりの無い思いつきブログの締めくくりとしたい。
『日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき「国柄」を長らく忘れてきた。「論理」と「合理性」頼みの「改革」では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことである。』
剣道経験者でない方でも武士道精神の重要性を説いている。いわんや我々剣道を学ぶものは尚更と痛感した。