聖と賤、善と悪。内包する両面に困難さを描く  「聖なる犯罪者」 | kenro-miniのブログ

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キリスト教文化圏においては、聖書の登場人物の名がつけられることが多いのはよく知られるところだ。ダニエルは旧約聖書に出てくる四大預言者の一人で、ライオンの洞穴に投げ込まれたりするが、7日間生きながらえて、見つけた者が神の力を知る(ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』)。四方田犬彦によれば、美術ではライオンに取り囲まれ半裸で両腕を高々と上げる姿で描かれることが多いという。偽の司祭ダニエルが信者らに自らの身分を明かし、去っていくクライマックス・シーンである。

少年院から仮退院したダニエルは、訪れた村の教会で「自分は司祭だ」と冗談を言ったため、本当にその役目を担うことになる。説教も自己流だが、これまでにないパフォーマンスで信者を引きつける。しかし、1年前の自動車事故で6人の若者と衝突した運転手の件を洗い出そうとして村人の反感を買う。若者らの遺族は運転手スワヴェクの飲酒が原因、一方的に加害者だと思っていたが、教会の手伝いの娘マルタは兄らが乗車前にひどく飲酒をしていた事実を知っていてダニエルに協力する。スワヴェクの妻エヴァの元には遺族らの罵り、脅迫の手紙がたくさん届いていることも知る。そして、スワヴェクは4年間も禁酒していて検視で陰性だったことも。ミサで集めたお金でスワヴェクの葬儀と墓への埋葬を告げるダニエルの元に現れたのは、ダニエルに信仰の大事さを教えた神父トマシュだった。ミサを止めさせようとするトマシュ(ダニエルが名乗っていた偽の司祭名でもある)から逃れて、教会に待つ信者らの前での行動が冒頭に述べた司祭服を脱ぎ捨て、出ていくダニエルの姿である。

これは聖と賤、あるいは善と悪の物語であろうか。信仰に使え、自己を律しきれるのが聖で、まだ若い子供らを失ったとはいえ、その真実に向き合おうとせず一方的にスワヴェクと妻エヴァを非難、攻撃する遺族たちが賤なのだろうか。あるいは、村人に信仰の大切さと教会へ足を向けさせたダニエルの行いは善ではあるが、そもそも殺人という前科を持つダニエルは悪であるのか。さらに、憎しみは赦しでしか納め得ないという信仰というより、人間が生きながらえる上で編み出した自己保存とその方法論を示した救済の道すじなのであろうか。

答えは簡単には出そうにない。しかし、本作は実際にあった偽司祭の件を元に脚本が書かれたそうで、最後にはエヴァが教会にも出かけることができ、村人もそれを許容する姿が事実なら、偽物がなした行いが、和解こそが癒しにもなるという真実を作り出したことになる。ただ、遺族らもエヴァもその件だけでわだかまりが完全に払拭されることはないだろう。ダニエルの行いに過去を蒸し返すなと横槍を入れる町長など、ことを荒げずに済まそうという力はいつの時代も強い。時間が必要なのだろう、和解と癒しには絶対。

改心するというのはいろいろな宗教で説かれる重要な要素だが、いわば実績をあげたダニエルは決して司祭にはなれないし、かといってトマシュ神父が彼にかけた言葉「なれなくとも他に信仰のやり方がある」もすぐには胸に落ちないだろう。それほど信仰とは実に内面的なものだと思えるのは筆者だけであろうか。本作の原題は「キリストの体」。仏教などと違い、肉体の復活そのものがキリスト教では最重要教義の一つ。スワヴェクの葬儀と埋葬を許さなかった村人らの理由もカトリックの強いポーランドならではの小さな村の姿であったのだ。そしてトマシュは、キリストの死と復活を疑った使徒として描かれることも多いのが意味深だ。素人にも分かりやすく、入り込めやすい優れたキリスト教映画であると思う。