「格差社会」「競争社会」の申し子か? ある子供 | kenro-miniのブログ

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ケン・ローチが現実を見据えた救いのないアンチクライマックス作品を撮らなくなって久しい。息子を殺した少年が出所し、自分の工房で働くようなになり、二人それぞれの葛藤をなめるように描いた「息子のまなざし」のダルデンヌ兄弟。本作はフィクションであるにも関わらず、その透徹したリアリズムと、これからどうなるのかという観客にとっては一番気になる行く末をそれぞれが考えろとばかりに放り出して終わる冷たさが魅力この上ない。
悪人とまでは言えないが、盗みを働きその日暮らしの20歳のブリュノ。ブリュノとの間の子供を産み、母親としての自覚が徐々に芽生えてきたソニアもまだ18歳。家族をつくるには幼すぎる未熟な二人。ブリュノは金欲しさに生まれて間もない赤ん坊をソニアに黙って売りとばしてしまう。ブリュノの行為に卒倒したソニアを見て、やっと自己のしたことを悔い、赤ん坊を取り戻すが赤ん坊を斡旋し損ねたヤクザはブリュノをこてんぱんにし、一文なしのブリュノはソニアにも追い出され、また少年を使って盗みを働くのだが…。
書いてしまえばほんのこれだけのストーリー。緊迫感をわざと盛り上げようとするBGMもない。失業率が10%を超え、若者だけに至っては20%にもなるベルギー。放任され、「大人」になる教育を受けていないブリュノは20歳とは言え「子供」そのもの。後先を考えると言う長期的展望や計画性、将来などまったく考えられない。たしかに未成年が20を過ぎたからと言っていきなり分別のある大人になるわけではない。「大人」とはいろんな経験をふまえ徐々になっていくものだろう。いろんな未熟さを乗り越えながら。
日本でもニートの「問題」が喧伝されている。ブリュノは教育や職業訓練を受けてない点でまさにニートである。しかし日本と違うのはヨーロッパでは多くの場合子供は学業を終えると親から離れていき、自分で食べていかなければならないのに対し、日本のニートは親に食べさせてもらっていて安易に犯罪に走るようなことは少ないということだ。そういえば日本では最近増えてきたとは言え、若者のホームレスは少ないが、ヨーロッパでは若いホームレスもよく見かける。ブリュノはソニアのアパートに住んでいたが、もともと携帯電話とジャンパー以外に自分の持ち物など何もない。盗みをする時のスクーターも少年の兄のもの。失うものなど何もないことほど強いものはないと言われるが、ブリュノはそういった開き直りの価値観さえ学んでいない。
昔、友人の高校教員がこう話していたのを思い出す。「生徒らに20の自分の想像してみろ、と言ったらそんな先のことはわからないという答えが返ってきた。」と。あと2、3年で20歳になる彼ら、彼女らにとって想像の範疇はとても狭い。時間的だけではない、空間的にも、社会的にも。だから電車の中でジベタリアンができ、そばで困っている人がいても助けようとしないし、ましてや世界で今何が起こっているかなど。こういった若者像を「仲間以外は皆風景」と称したのは宮台真司だが、現代はたしかに個々人のできることで世界が変わるというのは想像しがたいのかもしれない。
「格差社会」と言われ(小泉首相は否定しているが)、「勝ち組」「負け組」が親の出自、収入で決まってしまい、本人の努力ではなんともならないと感じるとき、若者が「成長」を放棄するのは如何ともしがたいとも思える。そして、そういった現実を見ないようにしている為政者や大人も多い。ブリュノは根っからの悪人ではないことがわかり、ひょっとしたらこれから成長するかもと思わせるラストだが、本当のところはよくわからない。しかし直視を止めるところにまさに社会の「成長」はない。とダルデンヌ兄弟は描きたかったのか。
さわやかにもなれないし、とくに感動もない。しかしこの重さに付き合う覚悟を求められるようないい作品である。