kenro-miniのブログ

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kenroが見た、行った、読んだもんをつらつら書き。美術展、映画、本、旅行など。

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督作品はこれまで、一人の視点からの風景であった。それが本作は群像劇。それも5人の10代の女性たち。いずれも貧しい中で妊娠し、支援センターで過ごす。養護施設で育ったジェシカは母親を知らない。なんとか探し出して、なぜ自分を捨てたのか聞き出そうとする。飲酒癖がひどく、暴力も振るう母親から逃れたアリアンヌは、子どもを裕福な養親に託そうとする。およそ1年の在寮期間を経て、卒業するナイマ。ジュリーはパートナーのディランとともにセンターを出て住居探しを始めるが、まだパン屋の見習いにすぎないディランらに部屋を貸してくれるのか。そして、ペルラは明るく穏やかな家庭を築きたいと赤ん坊の父親であるロバンを少年院出所に合わせて迎えに行くが。この中で、しっかりしたパートナーもいて、明日に希望があるのはジュリーだけだろう。でも、ジュリーもディランもかつては薬物中毒だったのだ。アリアンヌの母親はお酒も断ち、男も出ていったから3人で暮らそうと必死だ。だが、男はマリアンヌに性暴力を振るったらしく、こどもを自分のような目に合わせたくない。ロバンはどんどんペルラを避けはじめ、一方ジェシカの母モルガーヌは関わりを拒否する。誰もが愛されていない、愛され方が分からない。けれど愛したい。

しかし、センター職員らは、一人ひとりを絶対に否定しない。根気強く母親トレーニングを教え、自立と自律を促す。育てたいと思っている子も、里子に出すと決めている子も、悩んでいる子もそれぞれの選択に「隣る」姿勢を崩さない。置かれた境遇によって、差別や貧困が世代を超えて繰り返されてはならないと思うから。アリアンヌの母親はおそらくバタードウーマン。自身への暴力を娘にもしていたのだ。アリアンヌはその怖さが分かっているから、我が子を手放そうとしているのだろう。

家も借りられることが決まり、ジュリーは発作に見舞われ、倒れてしまう。久々にヤクに手を出してしまったのだ。驚き、駆けつけるデイランと、退院してから二人、ジュリーのかつての先生に結婚の証人になってくれと頼み行く。「なぜ、私に?」。ジュリーは、「先生が教えてくれた詩が心に残っているから」。アポリネールの詩に伴奏をつけて歌う先生は、「二人の門出にもっと明るい曲を」と、トルコ行進曲を奏でて映画は終わる。希望が持てる感動的なラストである。

しかし現実はもちろん厳しい。日本で初めて「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」を設置、運営する熊本慈恵病院の蓮田健院長は「赤ちゃんポストや虐待事案に関わってきた立場からすると、日本でも確かに起きている現実」「ただ社会の中で光が当たっていないだけ」と述べる。東京でも、居場所がなく、街頭で売春する少女たちの話を聞き、安らげる場所を提供する一般社団法人Colabo(代表 仁藤夢乃さん)が凄まじい攻撃を受けた。攻撃の背景には救い難い、拭がたいミソジニーがあるのは明らかで、女性の体と、女性の性は低位に置いておかねば気が済まない輩がなんと多いことか。

女性の自立と自律を阻止せんとする社会の空気は軽くない。映画の彼女らは貧しく、弱い。しかし、貧しさも弱さも劣っていることと関係ない。

(「そして彼女たちは」英題:Young Mothers 2025/ベルギー=フランス)