『しっかり者のトモちゃん』
そのホステスさんは、皆んなにこう呼ばれていました。
アメリカ留学から帰国後、作曲家としてまだ売れていない頃に、私はある高級クラブで
ピアノの弾き語りのバイトをした時期があります。
『トモちゃん』は、我がままなホステスさんのまとめ役として、皆んなからの
信頼を集めていたのですが、彼女が新任早々の私に向かって
『弾かないで欲しい曲があるの』
『えっ?どんな曲でしょうか?』
『恋の綱渡りって言う曲なんだけど』
『すみません、勉強不足で知らないんですけど』
『でも、覚えておいてね。よろしくね』
彼女は、まるで『カサブランカ』のようなセリフを私に残しました。
でも何か気になった私は、その曲の譜面を探し、練習までしました。
いつか彼女に逆にリクエストされる日が来るような気がして、、、
(映画もそうだったから)
~しがみつけば 綱渡りは終わります~
何にもしがみつかない生き方をしているように見えるトモちゃんだけど、
皆んなの知らないところで、誰かに、何かに綱渡りをしているのだろうか?
何て、想像をしながら時は経ちました。
ようやくピアニストとしてのお仕事も慣れて来たある日の事、
トモちゃんが私の所へやって来て、
『先生、恋の綱渡り歌わせて』
と告げ、マイクを片手に歌い出しました。
かなり、お飲みになっている様子。
~恋の綱渡り 寒い風吹き~
~恋の綱渡り ふたり落ちて 死に絶えるかしら~
何かに誰かに想いを込めた切々としたその歌声は、美しかった。
『ありがとう。』
歌い終えた彼女は、凛としていて、どこか清々しげでした。
次の日から、彼女はお店に来なくなりました。突然に、、、
後日、風の噂で知りました。
ご自分で命の灯を消してしまったようです。
~綱渡り~
落ちるか落ちないか、の寸前で、最後には絶対に落ちないサーカスの綱渡り。
しかし、彼女は綱渡りに失敗して落ちてしまったのだろうか?
~ふたり落ちて 死に絶えるかしら~
今でも、あの歌声は私の耳に残っています。
美し過ぎる、そして辛過ぎる歌声です。
それからしばらくして、私もピアニストを辞めました。