昨日の記事、反響大きかったですね。
皆さんのコメントを読んでいると、他人を名称をつけて呼ぶ時に
色々考えておられるみたいですね。
呼ぶ方の気持ち、呼ばれる方の気持ち、なかなか興味深いものが
ありますね。
私に関して言えば、本当はどのような呼び方で呼んでいただいても
良いのですよ。
それこそ『先生』でも、『さん』でも『公平っち』でも何でも。
かたくなに『先生』と呼ばれるのが不快だ、などと傲慢な事を
言うつもりはありません。
ただ、『先生』と呼ばれるたびに
「そんなに偉くない自分」と「先生と呼ばれる自分」に
少しギャップを感じるだけですし、この事は自分の問題なので
皆さんに気を使っていただく事ではありません。
今まで通り、呼びたいように呼んでくださいね。
人は親から名前を、先祖から名字をいただいております。
その時点では自分で選ぶ事は出来ません。
自分にとって、好きな名前でも、嫌いな名前でも、
改名したり芸名を付けなければ、
その名前と一生付きあわなくてはなりません。
見た目の字の感覚、その意味、口に出した時の発音の感じ、
など、他人があなたの名前から受ける印象まで
引き受けて生きています。
私の『田中公平』は
まず、総字画が凄く少なく、田も 中も 公も 平も
漢字自体の中に穴があいたように空間がたくさんあります。
このため、何かほのぼのとして、開けっぴろげで陽気そうな反面
偉そうではなく、中身が薄くペラペラした印象を受けます。
一瞬で認知出来て読みやすい名前ですので、裏表なく、
すぐに正体がバレてしまうような感じもありますね。
たとえば同業者の
『鷺巣詩郎』さんなんか、見た目で一瞬で認知するのは難しく
字画も多くて自分で名前を書く時は大変そうですね。
(私なんか2~3秒で書けるところを、彼は5~6秒はかかる)
読みも難しく、一度で正確に読んでもらうのも困難。
でも、名前自体は素晴しくロマンチックで、
頭の良さそうなインテリを感じますし、
なにより奥行きが深そうなのが芸術家になるために生まれて来た
ような名前ですね。
次に発音ですが、私のは
「た」も「な」も「か」名字は全部「あ行」で、発音してみると
口が思いっきり開いて明るい印象だけど、どこか馬鹿っぽい。
だけど「こう」の「う行」で、口先を尖らせる新たな展開が来て
最後の「へい」でその尖らせた口先を、一気に後ろへ引く必要が
あるので、発音後に「言い切り感」があります。
単純そうな私の名前を呼ぶのに、こんな口のエクササイズが
ありますね。
つまり、「名は体を表す」と言う言葉通り、
その名前と一生付き合っていると、色々な経験から
自分と言うものが、その名前と一体化してしまうのでは
ないでしょうか?
しかし、これは世間と言うものが我々を特定しやすいように
貼ったレッテルでもあります。
本来、我々は自分でも、ましてや他人には何者かは分からない
神秘の存在のような気がするのですが、
「社会生活」と言う魔物に取り込まれ、うまくやって行くためには
名前と言う記号は必要不可欠なものでもあるのも
事実なのです。