#古代には、今津湾は大きく東に入り込んでいました。古今津湾と呼ばれています。

最初に今津湾入口をご案内しましょう。

○高祖山北麓から北の今津湾入口を望む (中央手前は今山、その向こうが浜崎山・毘沙門山、左端は柑子岳、毘沙門山の左遠くには玄海島、毘沙門山の右遠くには志賀島、今津湾の入口は今山と浜崎山の間)

 

○毘沙門山から南の今津湾入口を望む(手前は浜崎山、その向こうが今山、背景は高祖山をはじめ背振山系の山々、浜崎山と今山の間が今津湾入口)

 

○今津湾内から東の今津湾入口を望む

(左の浜崎山と右の今山の間〈今津橋〉が今津湾入口、今山の左遠くは叶岳と連なる長垂山、叶岳の北麓が見えている)

 

○今津橋から今山(上)・浜崎山(下)を望む

 

次いで古今津湾跡地のど真ん中から周囲の風景をご案内しましょう。

○古今津湾跡地から東の今津湾入口を望む(内海の広がりを想起して下さい)

(左は毘沙門山、その右は毘沙門山に連なる浜崎山、今津橋を挟んで今山)

 

○古今津湾跡地から西の泊丘陵と可也山を望む(泊丘陵まで内海が迫っていました)

 

○泊丘陵(ここまで内海でした)

 

○泊丘陵の御道具山古墳と泊大塚古墳

泊丘陵には、撥形の御道具山古墳(正面の藪の中、全長65m:3世紀末)と泊大塚古墳(右手に後円部、全長74.8m:古墳時代前期前半→泊大塚古墳現地説明会配布資料による)が築造されていました。

泊丘陵まで入り込んでいた古今津湾、その岸辺に築かれた御道具山古墳と泊大塚古墳、共に内外にその威容を誇っていたのでしょう。

 

○泊丘陵に位置する御道具山古墳(上)と泊大塚古墳(下)(現地案内板による)

上の写真は左(東側)からの眺望。御道具山古墳は側面を谷間に向けるようにして築かれています。

 

○古今津湾跡地から東南・高祖山を望む

 

○古今津湾跡地から南西の山々を望む(この方向には古加布里湾)

 

○古今津湾跡地から北の元岡丘陵と山々を望む

 

○上の写真拡大(遠くに天ヶ岳が見える)

 

○古今津湾と古加布里湾(前原市教育委員会作製を一部加工)

浜崎山は毘沙門山から連なる山(浜崎山と今山の間が今津湾入口)

古代、糸島地方は内陸部と半島部が泊〜志登間の陸橋状低地で繋がっていました。古加布里湾は干拓の記録が残っていますが古今津湾には記録がありません。

 

○毘沙門山から西を望む 

(中央を流れるのは瑞梅寺川、遠くには泊丘陵が見えています。古代には泊丘陵までが古今津湾でした。したがって、今見えている瑞梅寺川は人工の堀川です。)

 

○泊大塚古墳後円部から東を望む

 

古今津湾跡地からの風景をお届けしました。古今津湾には内外の船団が押し寄せて、いろんな文化の交流拠点となり、古代日本の礎構築に寄与したことは間違いないでしょう。弥生時代終末期・邪馬台国時代の遺構として平原王墓が存在します。それからおよそ半世紀、箸墓古墳相似形の御道具山古墳が築造されています。ヤマト王権との繋がりの強さがうかがわれます。

 

最後に「可也山に沈む太陽」をお届けして今回の投稿を終えます。