#今回は怡土城と大宰府との関連をご案内します。

観世音寺住職石田琳彰氏の著書「観世音寺の歴史と文化財」(2015年)には次のような記述があります。卓見だと思いました。

「現在の太宰府市に大宰府政庁がいつ設置されたのかはわかっていない。ただそれは664・5年ごろのことであろう。663年の白村江の敗戦にともなって国防拠点建設が必要になり、百済からの亡命官人などの知識を動員して、大野城、基肄城、水城などの朝鮮式山城とよばれる防衛網を設置しているからである。その中心に大宰府があり、その形態・構造が百済の都扶餘に酷似していることからも推測できる」

 

○石田琳彰氏の経歴(著書「観世音寺の歴史と文化財」から)

 

○怡土城と大宰府、大野城、基肄城、水城の位置

(第7回伊都国フォーラム配布資料「雷山神籠石と怡土城」から転載)

 

(ウイキペディア)怡土城の築城について『続日本紀』では次のように記載される。

①天平勝宝8年(756年)6月、大宰大弐の吉備真備が専当官に任官、築城開始

②天平宝字3年(759年)3月、吉備真備が大宰府防衛の不安4条を朝廷に奏上。       東国防人の復活、西国防人の怡土城築城従事を要望。

③天平宝字8年(764年)1月、吉備真備が造東大寺長官に任官(その後帰京)。

④天平神護元年(765年)3月、大宰大弐の佐伯今毛人が築怡土城専知官に任官(築城継続)。

⑤神護景雲2年(768年)2月、怡土城完成。

 

○怡土城(南から)

(伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から転載)

 

○怡土城が築かれた高祖山(泊三区展望台〈古加布里江湾内〉から望む)

 

○怡土城と県道49号(国土地理院地図一部加工)

 県道49号線は日向峠を越えて進むと大宰府に繋がります。

 

○県道49号線(伊都国王都南端の古賀埼古墳から北の三雲・井原遺跡を望む)

 

○怡土城の防衛施設

 

○怡土城大鳥居口(高祖神社の大鳥居跡であったことから名付けられています)

 

先日、水城と東門を訪問しましたのでご案内します。

○大野城西端から望む水城(全長1.2km、幅約80mの基底部、高さ13m)

(右〈北〉は博多側、外濠にはその痕跡〈湿地〉が見える)

 

○大野城西麓に建てられた資料館

 

○最上段の展望台からの風景と現地案内板

 

○大宰府政庁と古代山城分布図

(第7回伊都国フォーラム「雷山神籠石と怡土城」から転載)

 

○古代官道跡(東門ルート)

 

○古代官道跡(水城東門ルート)本文拡大

 

○古代官復元ライン・官道跡の発掘状況(水城東門ルート)拡大

 

○水城東門を抜ける官道(北から)

 

○南から見る官道

 

 

○水城東門跡

 

○東門跡礎石

 

水城の築城完成(664年)からおよそ100年後の神護景雲2年(768年)2月に怡土城が完成しています。白村江の戦いの後、表裏があって少なくとも100年に亘り緊張状態が続いていたのでしょう。また、その後も長きに亘り大野城、基肄城、水城、怡土城の存在は中国王朝などに睨みを利かしていたと考えられます。

水城の完成は664年、怡土城の完成は768年で前者からは1340年、後者からは1440年のときを刻みます。日本列島を外敵から守るため先人は偉業を成し遂げました。怡土城は大野城、基肄城、水城という山城と連携して盤石の態勢をとっていたのです。現代人に国を守ることの大切さを伝えているようです。因みに大野城、基肄城、水城は朝鮮式山城、怡土城は中国式山城と呼ばれています。