#農耕集落の旧飯氏村の南端に築かれた前方後円墳・兜塚古墳と飯氏二塚古墳をご案内します。この二つの古墳は今宿古墳群に属します。

○飯氏集落東端丘陵(北東:202号バイパス)から望む兜塚古墳と飯氏二塚古墳

   兜塚古墳→中央切妻民家の左手の茂み 飯氏二塚古墳→中央より右、鉄塔の先

 

●兜塚古墳’(上の写真拡大)

 

●飯氏二塚古墳(上の写真拡大)

 

飯氏集落について、「伊都国歴史博物館常設展示図録『伊都国』」から次の絵を見てみると、伊都国王都に繋がりを持つ衛星都市(農耕集落)であることが分かります。飯氏遺跡の存在からすれば、飯氏集落は伊都国時代において大集落であり、古墳時代にあってもその地位は盤石だったのでしょう。

○糸島地方の弥生時代の主な集落と伊都国の集落構造モデル

(伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から転載)

 

森浩一氏が著した「倭人伝と考古学」には、「弥生時代の生産は水田を作って稲を栽培することであり、そのため低地に集落があるのが基本であるのに対して、それらの低地を見下ろす山腹や丘陵上にも住居址群が発掘されることがあり、これらを高地性集落または高地性遺跡と呼んでいる。遺跡の性格・機能からいえば、逃げ城であり、地形に即していえば山城である。」との記述がありますので参考にして下さい。

 

○今宿古墳群(山ノ鼻1号墳の墳丘に立てられた案内板)

 今宿古墳群は高祖山北麓の古今津湾南岸に築かれた墳墓群であり現存する7基の前     方後円墳が有名です。

(福岡市博物館アーカイブス:今宿古墳群)「今宿の前方後円墳の造営は、4世紀中ごろ、まず徳永地区の山ノ鼻1号墳(全長50m)に始まります。4世紀後半には同地区の若八幡宮古墳(全長48m)に続き、4世紀末から5世紀初めの鋤崎古墳(全長2m)、 

5世紀前半の丸隈山古墳(全長85m)、5世紀後半の兜塚古墳(全長54m)、6世紀初めの飯氏二塚古墳(全長48m)、前半の大塚古墳(全長64m)、中ごろの谷上(たにじょう)B-1号墳(全長約38m)へと変遷をたどることができます。」

 

兜塚古墳

○202号バイパスから望む

 

○兜塚古墳(東から:前方部側から望む)

 

○兜塚古墳(東から:前方部側から望む

 

○兜塚古墳(北から)

 

○明治時代に立てられた「溜池新築記念碑」

(兜塚古墳の北側の溜池は古墳築造当時にはなかったことが分かります。)

 

兜塚古墳から飯氏二塚古墳の間の古道沿いには「舟つなぎ石(夫婦石)」と呼ばれている石塔2体があります。兜塚古墳の東側の古道(舟つなぎ石〈夫婦石〉を経て飯氏二塚古墳へ向かいます。

○兜塚古墳東側の古道

 

○左手に見えてきた舟つなぎ石(夫婦石)

 

○舟つなぎ石(夫婦石)←北から

貝原益軒が著した「筑前國續風土記」(59歳のときから21年の歳月をかけて1702年80歳のときに完成)の飯氏村の記述は次の通りです。

「染井山の北にありて近し。飯氏と名付けし其故詳ならず。又飯氏村の境内に立石原と云所あり。道筋也。其所に石佛二體あり。村民是を夫婦石と云。此石あるによりて立石原と云也。此所に夜々狐火をともす。又青鷺も時に飛ひかける事あり。そのひかり燐火の如し。」とあります。これによると貝原益軒はこの古道を歩いたものと推測されます。

 

○今宿古墳群の兜塚古墳と飯氏二塚古墳(国土地理院地図一部加工)

 当該古墳は地図南東隅に位置。この二つの古墳の中間に舟つなぎ石が位置します。

 202号バイパス沿いに7基の前方後円墳が見えますがご覧頂けたでしょうか。

 7基の前方後円墳は古今津湾の沿岸、または小高いところに築造されています。

 

○兜塚古墳と飯氏二塚古墳の箇所拡大(国土地理院地図一部加工)

 

飯氏二塚古墳

○202号バイパスから望む

 

○兜塚古墳から飯氏二塚古墳に向かう古道

 

○樹々の隙間から見える飯氏二塚古墳

 

○飯氏二塚古墳の手前から眺望(伊都国王都付近)

 

○飯氏二塚古墳東側V字に曲がる古道

 加藤一純・高取周成共著「筑前國續風土記附録」(コトバンク)「筑前国の地誌。天   明四年福岡藩士加藤一純が藩命を受け、鷹取周成らの援助を得て編纂を開始。寛政五(1793)年に四〇巻を藩に献上したが、博多・福岡・土産考など四部が未完のまま一純が死亡。その後、鷹取周成が青柳種信の援助を得て不足の八巻を補い、同一一(1799)年に完成させた。」

 

「筑前國續風土記附録」夫婦石:「立石原と云通路の東側なる山上、菶荆の内に石佛二體(高サ五尺餘の石並ひ立てり。)あり。是を夫婦石といふ。今通路より見えす。本編に飛火ありし事見ゆ。今ハなし。狐火ハ時々見ゆるといふ。」

 

この記述から加藤一純は兜塚古墳の前(東側)の古道は通っておらずに北から南への古道を歩いたと推測できます。

 

○北から飯氏二塚古墳に向かう道

●国道202号バイパスから飯氏二塚古墳に向かう道

 

○飯氏二塚古墳(北〈前方部〉から)

 

西側から見ると飯氏二塚古墳が高祖山西北端に築かれているのがお分かり頂けると思います。

○飯氏二塚古墳(西南から)

 

○飯氏二塚古墳(西から)

 

○飯氏二塚古墳からの北の眺望(左から可也山、火山、右端の鉄塔に隠れる天ヶ岳)

 

今宿古墳群の7基の前方後円墳は古今津湾沿岸に築かれるか、見上げられる高台に築かれています。伊都国域に内外から訪れる人々に権威と権力を誇示したのでしょう。兜塚古墳と飯氏二塚古墳は他の古墳とは違って沿岸部ではなく高台に築かれています。今宿古墳群の立地は、ヤマト王権が仁徳稜(大仙古墳)を大阪湾近くに築いた意義と同じに違いありません。ヤマト王権に移行した後も飯氏集落内に二つの前方後円墳が築かれているのは凄いことだと思って、兜塚古墳の東側の古道から飯氏二塚古墳に抜ける古道をいつも通って古代に思いを巡らせています。