#上町向原(かみまちむかえばる)遺跡群は糸島市前原東の伊都文化会館あたりに位置しています。箱式石棺に副葬された「弥生時代における最大・最長の素環頭大刀」が出土したことで有名です。副葬されていた大刀の全長は正確には1189㎝です。

 

元伊都国歴史博物館館長の榊原英夫氏が著した「魏志倭人伝と邪馬台国」に上町向原遺跡について次の記述があります。

「上町向原遺跡出土の素環頭大刀に係るものです。この長さ120cmに及ぶ大刀は弥生時代におけるわが国最大・最長のもので、理化学的分析結果から1世紀から2世紀初頭に中国で製作されたものであることが分かりました。」

 

○糸島地方出土の大刀の比較(弥生時代〜古墳時代)

 

○上町向原遺跡から出土した素環頭大刀(展示中の実物を撮影)

(伊都国歴史博物館・「伊都国を支えた邑々」展から)

 

(榊原英夫氏著「魏志倭人伝と邪馬台国」・続き)「この素環頭大刀は永初元(107)年の貢献に際して後漢の安帝から倭国王帥升に下賜されたものと推測されます。」

 

後漢書東夷伝

「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」

(釈文)

①「建武中元二年(57)、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。倭国の最南端にある。光武帝は印綬を賜った。」
②「安帝永初元年(107)、倭国王の帥升等が百六十人の捕虜を献じ、参内し天子にお目にかかることを願い出た。」

 

(榊原英夫氏著「魏志倭人伝と邪馬台国」・続き)「三雲・井原遺跡内にある2世紀初頭の『井原鑓溝王墓』に係るものです。(中略)」「紀元前後の遺跡である『三雲南小路王墓』の南100mにあり前漢鏡を含む後漢鏡21面などを副葬していました。」

 

○三雲南小路遺跡から井原鑓溝遺跡推定地を望む

 

○井原鑓溝遺跡推定地

 

(榊原英夫氏が著した「魏志倭人伝と邪馬台国」・続き)「三雲南小路王墓に葬られた『伊都国王』を継承し。続いて初代の『倭国王』として倭地域の覇者となった『帥升』の墳墓である蓋然性は高いと考えています。」

 

○上町向原遺跡群が所在する伊都文化会館あたりの位置

 筑肥線筑前前原駅の近辺・北東になります。文字が小さいので拡大して下さい。

(糸島市教育委員会作製「糸島市の文化財マップ」から転載)

 

○伊都文化会館正門(南から)

 

○上町向原箱式石棺墓から一望できる古加布里湾奥部の沿岸集落遺跡 

(伊都国歴史博物館「伊都国を支えた邑々」展より)

 

「国内最長級の素環頭大刀が副葬された上町向原箱式石棺墓は古加布里湾奥部の沿岸集落を一望できる丘の上に築かれた。」とありますのでその検証のため、上町向原遺跡群(H)から一望できる浦志(L)・潤(A)・志登(K)各遺跡群を図上でプロットしてみました。

○古加布里湾岸の遺跡(糸島市文化戝調査報告書「三雲井原遺跡X」を加工転載)

 H→上町向原遺跡群 L→浦志遺跡群 A→潤遺跡群 K→志登遺跡群

 

○上町向原遺跡群(H)からの浦志(L)・潤(A)・志登(K)各遺跡群の方向

(今は建物で遮られていますが古代には遠くまで見えたのでしょう。)

 

○志登支石墓群(志登遺跡群)から上町向原遺跡群の方向

(正面の建物は東風〈はるかぜ〉小学校の体育館。学校敷地が潤地頭給遺跡です。)

 

以上、上町向原遺跡群の立地をご案内しましたが、次は上町向原遺跡から出土した弥生時代の遺物について現地案内板に沿ってご案内します。

○上町向原遺跡の現地案内板

 

○現地案内板

 

○素環頭大刀(大型箱式石棺)・細形銅剣出土の地点

 

伊都文化会館敷地の東側と北側は崖状になっています。

○東・伊都文化会館建物の方向

 

○北西・崖下の前原小学校の方向

 

箱式石棺墓の出土位置は、現在では前原小学校の二つのプールの合間になっており、ここも高台になっていたようです。このような場所の石棺墓に副葬されていた全長約120㎝の素環頭大刀は被葬者の力を見せつけるのには十分です。元伊都国歴史博物館館長の榊原英夫氏が著した「魏志倭人伝と邪馬台国」の中に上町向原遺跡について言及されていることについてご紹介しました。素環頭大刀は倭国王・帥升が下賜されたものだと推測されていますが卓見だと思います。