#糸島地方はイト地域(怡土郡)とシマ地域(志摩郡)で構成されています。

イト地域(怡土郡)が魏志倭人伝に登場する伊都国であり、シマ地域(志摩郡)が斯馬國と考えられています。

今回はヤマトコトバ(語音)「イト」と「伊都」の関係を探ってみたいと思います。

 

まず最初に、糸島地方の地形環境からご案内します。

〇空からみた糸島低地帯(西側の加布里湾上空から今津湾方向を望む)

(写真注釈)「糸島半島西部の加布里湾から東部の今津湾にかけて標高5m以下の低地が帯状に連なる。糸島低地帯と呼び、かっては『糸島水道』という海峡であったと考えられてきた。この糸島低地帯を境に南側(写真では右側)が怡土郡、北側が志摩郡に分かれる。」(糸島市立伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から一部修正して引用)(注)正確には旧怡土郡・旧志摩郡です。

(糸島市立伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から転載)

 

〇南の背振山地中腹から加布里湾を望む(右手の可也山南側と東側が糸島低地帯)

 

○糸島低地帯から北西にそびえる可也山(シマ地域:志摩郡)を望む

 

〇古代糸島地方の地形略図(前原市教育委員会作製)

(糸島市立伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から引用)「糸島の地勢として、糸島地方は、大きく二つの地域に分けられる。玄界灘に突き出た半島部であるシマ地域と三方を山に囲まれ平野部を擁するイト地域である。両地域の間には幅1kmほどの帯状の低地があり、かっては糸島水道と呼ばれる海峡があったと考えられてきた。現在では、貝化石の分布や遺跡調査などにより、中央部の志登~泊間おいて、陸橋状につながっていたと考えられている。」

 

〇今津湾入口に位置する毘沙門山(シマ地域)から望む糸島低地帯

糸島低地帯を境に南側(写真では左側)が旧怡土郡、北側が旧志摩郡に分かれます。

 

〇イトとシマを繋ぐ陸橋状低地の遺構等(「糸島市の10年」を一部追加して転載)

 

○東風公民館・東風小学校(潤地頭給遺跡)の西側に立つ案内板

 古代の加布里湾のイメージ(志登神社追記)

(注)雷山川の河口が志登支石墓群西側付近になっているのにお気づきでしょうか。

 

志登神社は泊〜志登の陸橋状低地に鎮座しています。正殿は西を向いています。

明治初年時点では陸橋状低地に位置する志登村、泊村は志摩郡となっていて、志登村に鎮座する志登神社は、延喜式神名帳(927年)では「怡土郡一座[小]。志登神社」(志登神社は怡土郡に鎮座)となっています。古代には加布里湾が奥深く入り込み港の様相を呈していたと考えられている陸橋状低地は糸島地方の要衝でありイト地域(怡土郡:伊都国域)に含まれていたのかも知れません。

(志登神社ホームページから転記)「延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に十九式内社の一社でとして糸島で唯一記載せられた式内小社です。」

『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂(原文)(志登神社ホームページから転記)

「西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。」
「筑前国十九座[大十六座・小三座]。宗像郡四座[並大]。宗像神社三座[並名神大]、織幡神社一座[名神大]。那珂郡四座[並大]。八幡大菩薩筥崎宮一座[名神大]、住吉神社三座[並名神大]。糟屋郡三座[並大]。志加海神で社三座[並名神大]。怡土郡一座[小]。志登神社。御笠郡二座[並大。筑紫神社[名神大]、竈門神社[名神大]。上座群一座[小]。麻氐良布神社。下座郡三座[並三座]。美奈宜神社三座[並名神大]。夜須郡一座[小]。於保奈牟智神社。」

〇志登神社の景観・案内石板など

 

○西から志登神社(左:雷山川の向こう)と志登支石墓群(右端)を望む

志登神社の遥拝は古加布里湾内のこの付近から行われていたのかも知れません。

 

〇志登神社一の鳥居前から南のイト地域を望む

 

〇志登神社一の鳥居前から北のシマ地域を望む

 

〇志登神社から今津湾入口を望む(中央左から毘沙門山、浜崎山、今山)

 

〇高祖山北麓から今津湾入口を望む(左手前から今山、浜崎山、毘沙門山)

 

日本に文字がなくて言葉だけの世界に使われた語音は「ヤマトコトバ」と呼ばれています。

池田善朗氏は著書「筑前故地名ばなし」において、

【ヰ・ト→イト】「ヰは水のある処や湿地をさす。旧怡土郡は旧志摩郡と異なり、背振山地からの山腹が玄海灘へ向かっているので傾斜地が多い。平坦地は瑞梅寺川、雷山川とによって造られた湿地と、深江付近の湿地帯が目立つ。」

【シマ】「シマはその語音の通りに島のような地形をいう。」

と解説されています。ヤマトコトバは自然の景観から生まれたことが分かります。

 

魏志倭人伝に登場する国々の比定は、描かれた国々の特色、遺構・遺物などから類推し、また、ヤマトコトバの名残りは重要な要因となるようです。

 

魏志倭人伝の冒頭文と登場する30か国を「邪馬台国への径」(元糸島市立伊都国歴史博物館館長榊原英夫氏著)から引用させて頂きました。

(冒頭の釈文)「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山㠀に依りて國邑を為す。舊百餘國。漢の時朝見する者が有り。今、使譯通ずる所三十國。」

(三十國要約)「女王國の以北にある、狗邪韓國、對海國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國と投馬國、邪馬台國の8か国(狗邪韓國を除く)の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬國、己百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、為吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國。支惟國、烏奴國、奴國の21か国。敵対する狗奴國の記録を併せて合計30か国。」

 

陳寿或いは魏の国が勝手に名付けた国名には、倭をはじめ邪馬台国を含めた30か国には卑字が目立ちます。

魏志倭人伝に描かれる伊都国の特色と遺構・遺物から、またイトという地域名が残っていることから伊都はイト地域のことだとほぼ断定されています。伊都は好字ですから、陳寿或いは魏の国はイト地域(イト集団)を高く評価していたのでしょう。「魏志倭人伝の中で、伊都国の記述には110文字程度が割かれており、国々の中では最多の情報量を誇ります。」(糸島市立伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から引用)

○空からみた怡土平野

(糸島市立伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から転載)

 

○志登神社からみるイト地域(伊都国域)の景観

伊都国域の周囲は高祖山→王丸山・井原山・雷山→羽金山・浮嶽の背振山塊です。

 

「太宰府天満宮に伝世された『翰苑』蕃夷部倭国段(国宝)には、『耶は伊都に届(いた)り、傍、斯馬に連なる』との記事があり、耶は邪馬台国を指すのが通説となっていて、斯馬國が伊都国に隣接していたとの根拠となっているようです。」(「邪馬台国への径」により要約)

〇国宝「翰苑」倭国の部分

国宝「翰苑 巻第卅」の倭国部分(太宰府天満宮蔵)(筑紫の至宝特別公開「国宝翰苑の世界」2021年11月6日〜12月19日)

斯馬國はシマ地域(シマ集団)とされ、志摩郡(或いは志摩地区)と考えられています。

 

怡土郡と志摩郡の誕生(古代史研修生)「古墳時代に続く飛鳥時代に入ると大宝元(701)年に大宝律令が発せられ、これにより国(くに)、郡(こおり)、里(り)の行政区分が定められます。和銅3(710)年、都を藤原京から平城京へ移すに及んで飛鳥時代はその終わりを告げ奈良時代が始まります。奈良時代初期の和銅6(713)年には「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ:好字令))という勅令が発せられて「怡土」と「志摩」の文字が充てられました。ちなみに、霊亀元(715)年には従来の里を郷と改め、その郷の下部単位として新しく1郷に2~3の里が設けられています。それからおよそ1300年後の明治29年(1896年)4月1日の郡制施行のため怡土郡と志摩郡の全域が糸島郡となりました。イトとシマに糸・島を充てたのです。」

 

〇福岡市西区の交差点「周船寺西」(旧怡土郡域)に立つ道路標識(東側から)

(注)現在、➡の先には怡土や志摩の地域名は存在しません

 

【参考】(ウイキペディア「大宝律令」から)「大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として『 続日本紀』、『令集解.』古記などの他文献に残存している。757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われている。」

 

参考までに、卑字の「倭」を好字の「日本」に改名したことは「旧唐書」日本國伝にみられます。

「旧唐書」日本國伝(945年成立):「日本國は倭國の別種なり。其の國は日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或いは曰う、倭國は自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或いは云う、日本は舊小國、倭國の地を併せたりと。」(釈文:「邪馬台国への径」から)

 

結言:イト地域(イト集団)に伊都という好字が充てられていることから、古代の糸島は大陸と太いパイプを持った北部九州を代表するような盟主的湾岸大都市を形成して興隆を極めていたのでしょう。隣国の「奴国」は奴という卑字が充てられています。伊都国より小国とみられていたようです。そうだとすれば、「漢委奴国王」の金印を奴国王がもらったという通説に疑問が残ります。