#潤地頭給遺跡は、糸島半島の付け根に位置し、標高3.5〜5mの微高地上に、30軒を超える玉造工房が発見された弥生時代終末期の玉造り遺跡です。(第6回伊都国フォ一ラム「伊都国王がみた世界」配布資料より)

〇潤地頭給遺跡と周辺(前原市文化財調査報告書の一部を加工して転載)

 

○古代加布里湾のイメージ

(東風〈はるかぜ〉公民館・東風小学校の脇に立つ案内板:志登神社追記)

(前原市文化財調査報告書「潤地頭給遺跡」)「遺跡のすぐ脇には前記の河川(瑞梅寺、雷山、長野)の一つである雷山川が流れる。この河川は背振山系を構成する雷山に源を発するもので、遺跡の東側で北流し、やや下流の北東側に至って大きく流れを西に転じ、泉川と名称を変えて加布里湾へと注いでいる。これについても、昔は遺跡のすぐ傍で海へ注いでいたと推測される。したがって、弥生崎代~中世の間、この地に居住した人々は海岸と河川との接点である立地を大いに生かして、海洋と内陸との交通の要衝として栄えたものと考えられる。水に深い関わりをもつ 潤という地名からもこの一端を窺い知ることができよう。」 

 

〇古代糸島地方の地形略図と潤地頭給遺跡の位置

(前原市教育委員会作製を一部加工)

(前原市文化財調査報告書「潤地頭給遺跡」)「潤地頭給遺跡は現在、糸島平野のほぼ中央部に位置している。この平野は南側にそびえる背振山系に源をもつ瑞梅寺、雷山、長野の3河川の沖積作用によって徐々に形成されたもので、弥生時代においては東に位置する今津湾と西の加布里湾とが内陸部にある遺跡付近まで大きく湾入していたものと思われ る。したがって、かつて遺跡は現在の田園風景の中とは大きく異なり海岸近くに立地していたのであろう。」

 

○糸島地域の弥生時代主要遺跡位置図

(第6回伊都国フォ一ラム「伊都国王がみた世界」配布資料より)

 

〇古加布里湾内湾部の集落遺跡

(糸島市立伊都国歴史博物館特別展「伊都国を支えた邑々」展示)

 

〇玉作と山陰系土器

(糸島市立伊都国歴史博物館特別展「伊都国を支えた邑々」展示)

 

〇潤地頭給遺跡出土の玉作りの原石や工具など

(糸島市立伊都国歴史博物館特別展「伊都国を支えた邑々」展示)

 

●潤地頭給遺跡出土の碧玉原石と未製品

(糸島市立伊都国歴史博物館特別展「伊都国を支えた邑々」展示)

 

●潤地頭給遺跡出土の水晶原石と未製品

(糸島市立伊都国歴史博物館特別展「伊都国を支えた邑々」展示)

 

●潤地頭給遺跡出土のメノウ原石・鉄石英原石・蛇紋岩製勾玉と原石

(糸島市立伊都国歴史博物館特別展「伊都国を支えた邑々」展示)

 

●潤地頭給遺跡出土の玉作り工具

(糸島市立伊都国歴史博物館特別展「伊都国を支えた邑々」展示)

 

〇潤地頭給遺跡出土の山陰系土器

(糸島市立伊都国歴史博物館特別展「伊都国を支えた邑々」展示)

 

○潤地頭給遺跡から出土の準構造船(糸島市立伊都国歴史博物館展示)

 

○弥生時代の「準構造船」発見の意義(糸島市立伊都国歴史博物館展示)

 

〇国内最長級の素環頭大刀(上町向原箱式石棺墓の副葬品)

(糸島市立伊都国歴史博物館特別展「伊都国を支えた邑々」展示)

注.参照:前掲の「糸島内湾部の集落遺跡」

 

潤地頭給遺跡の立地を見てみます。

〇北西から見る潤地頭給遺跡(東風〈はるかぜ〉公民館・東風小学校)背景:高祖山

 

〇南東から見る潤地頭給遺跡(東風〈はるかぜ〉小学校)背景:可也山

 

〇志登支石墓群から潤地頭給遺跡(東風〈はるかぜ〉小学校)を望む

 

〇東風公民館・東風小学校(潤地頭給遣跡)の脇に立てられた案内板

 

次いで潤地頭給遺跡に隣接する志登支石墓群をご案内します。

〇南から見る志登支石墓群

 

〇雷山川に架かる坂本橋付近から見る潤地頭給遺跡(東風小学校)と志登支石墓群

 

〇志登支石墓群から可也山を望む(志登支石墓群の西側一帯が古代雷山川の河口)

 

〇古代雷山川の流路(志登支石墓群左・西側が雷山川の河口)

 

〇古代雷山川が流れ出る河口付近(志登支石墓群の左・西側)

 

〇潤地頭給遺跡周辺の遺構(「糸島市10年のあゆみ」からー部を加工して転載)

 

陸橋状低地に鎮座する志登神社(古代には西の海上から参拝)

〇志登支石墓群から見える志登神社→雷山川の土手向こう、案内板左手の杜

 

〇志登神社から見える潤地頭給遺跡と志登支石墓群(いずれも写真中央)

 

〇志登神社

 

〇岩神・イワカガミ(志登神社の南)

 

〇西側からの志登神社(左:土手向こう)と志登支石墓群(右)

 

〇西から見る志登支石墓群(北・左)と潤地頭給遺跡(南・右)

 

加布里湾内海に面する潤地頭給遺跡を主にご案内しましたが、この周辺部の陸橋状低地には志登支石墓群・志登神社のほかにも浦志遺跡、志登遺跡群や泊遺跡群がなどが存在しています。古代には大陸や列島各地の玄関口として興隆を極めていたのかも知れません。

 

参考:稲作開始時期(弥生時代早期)に朝鮮半島から伝わったとされる志登支石墓群は首長級の権威や権力の存在を知らしめ、日本国家の起源をこの陸橋状低地に求めることが出来ると言っても過言ではないでしょう。