#伊都国は中国の歴史書「魏志倭人伝」に初めて登場します。日本人・日本(倭人・倭国)が史上初めて登場する中国の歴史書は「漢書地理志」で、次いで登場するのは「後漢書東夷伝」です。そこで、「漢書地理志」と「後漢書東夷伝」に描かれる倭人・倭国の時代に伊都国王が誰だったかを遺構・遺物から推測してみました。
魏志倭人伝に伊都国には「世々王あり」との記述があることから、三雲南小路王墓、井原(いわら)鑓溝(やりみぞ)王墓、そして平原王墓を順次訪ねます。
〇糸島地方西部域の主要遺跡分布図
24→三雲南小路遺跡 25→井原鑓溝遺跡 22→平原遺跡
(糸島市文化戝調査報告書「三雲井原遺跡X」から転載)
〇『漢書』地理志(前1世紀)
(原文)「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫! 樂浪海倭人分爲百餘國、以歳時來獻見云。」
(釈文)「然して東夷は天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。それ、以(ゆゑ)有るかな! 楽浪海中に倭人有り、 分れて百余国を為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。」
〇『漢書』地理志に対応の推定「伊都国王」(三雲南小路王墓の被葬者 前1世紀)
〇三雲南小路王墓ー王の出現(糸島市立伊都国歴史博物館展示)
(『漢書』地理志・続き)
(現代語訳)「一方、東夷は性質が柔順であり、他の三方(西戎・南蛮・北狄)と異なる。そのため、孔子は、中国の中原では正しい道理が行われていないことを残念に思い、(筏で)海を渡って九夷に行きたいと望んだ。それは理にかなっている! 楽浪郡の先の海の中に倭人がいる。百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。」
〇三雲南小路遺跡の墳丘と区画(現地案内板)
〇西側から見る三雲南小路遺跡
〇東側から見る三雲南小路遺跡
〇埋葬施設(1号甕棺・2号甕棺)
〇埋葬施設の発掘状況(第6回伊都国フォーラム「伊都国王がみた世界」から転載)
(糸島市ホームページ:三雲南小路遺跡)「この遺跡は江戸時代に発見されました。発見当時の様子を記録した『柳園古器略考』(青柳種信著)には、甕棺の大きさは「深三尺餘、腹經二尺許」であり、高さが90センチメートル以上、胴の直径が60センチメートルほどもある巨大なもので、その巨大な甕棺が二つ、口を合わせて埋められていた(1号甕棺)と書かれています。
中からは銅鏡35面、銅鉾2本、勾玉1個、管玉1個、璧1枚が出土しています。これらの出土品は現在ほとんど残されていませんが、わずかに銅鏡1面と銅剣1本が博多の聖福寺に伝えられおり、国の重要文化財に指定されています。」
(糸島市ホームページ:三雲南小路遺跡・続き)「最初の発見から150年後の昭和50年(1975)、福岡県教育委員会によって発掘調査が行われ、新たに2号甕棺が発見されました。2号甕棺も高さ120センチメートル、胴の直径が90センチメートルの巨大な甕棺二つを口を合わせて埋めたものです。これも盗掘されていましたが、副葬品として銅鏡22面以上、碧玉製の勾玉1個、ガラス製の勾玉 個、ガラス製の管玉 個、ガラス製の垂飾1個などが出土しています。また、1号甕棺の破片や副葬品の銅鏡の破片多数、ガラス製の璧も出土しており、新たに金銅製の四葉座飾金具が出土しています。銅鏡はすべて中国製のものです。出土した甕棺からこの墓は弥生時代の中期後半(約2000年前)に造られたものと考えられています。」
〇王のあかし(糸島市立伊都国歴史博物館展示)
〇王のあかし:ガラス璧(右)と金銅四葉座飾金具(左)
(糸島市立伊都国歴史博物館展示)
〇後漢書東夷伝第一段
①(原文)「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
(釈文)「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬 を以てす。」
〇後漢書東夷伝に対応する推定「伊都国王」(井原鑓溝王墓の被葬者 1世紀)
〇東から見る井原鑓溝遺跡推定地(道路を境に右・北側は三雲、左・南側は井原)
〇三雲南小路遺跡から井原鑓溝遺跡推定地付近を望む(北から)
〇井原鑓溝遺跡推定地から三雲南小路遺跡を望む(南から)
道路右は細石神社、道路左民家の隣が三雲南小路遺跡
〇細石神社(東から)
〇三雲・井原遺跡中心部(東から)
(第6回伊都国フォーラム「伊都国王がみた世界」からー部を加工して転載)
「光武賜以印綬」:光武賜うに印綬を以てす。
この印が江戸時代に志賀島で発見された「漢委奴國王印」とされ「かんのわのなのこくおうのいん」と読むのが定説となっています。これを「かんのいとのこくおうのいん」と唱える研究者の方も多く居られます。伊都国王がもらったとすれば、当事者は井原鑓溝遺跡の被葬者になるのかも知れません。
参考までに、
①金印が細石神社に奉納されていたとの伝承があります。
②後漢書東夷伝(第一段)の時代(1世紀)に対応する奴国王の遺構・遺物は発見されておりません。
伊都国域から志賀島までは小さな舟でも行ける距離にあります。
〇昆汰門山から金印発見場所・志賀島(右は能古島)を望む
〇金印発見場所・志賀島から昆汰門山(左は能古島)を望む
〇福岡市博物館展示の「漢委奴國王印」
〇漢委奴國王印(福岡市博物館常設展示公式ガイドブック「FUKUIKA」から転載)
〇有力者の墓と副葬品〜金印の時代〜(福岡市博物館展示)
冨谷至氏は著した「漢倭奴国から日本国天皇へ」(平成30年3月31日)において次のような解説をされています。
「漢委奴国王」は漢書(東夷伝)の倭奴(わどこく)国(=倭国=日本)であり「漢倭奴国・王」と読むべきだとされています。漢の倭奴国(=倭国=日本)の王がもらったものだとされているのです。
冨谷至氏の検証事項は次の3点です。
疑問(1)「漢の配下の倭に属する奴」という、AのBのCという印文は不自然ではないか。
疑問(2)「奴」という国が後漢光武帝時代に日本列島に存在していたのか。
疑問(3)中国が賜与する称号で「国王」という称号があるのか。
検証内容は省略しますが卓見だと思いました。
〇後漢書東夷伝第二段
② (原文)「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
(釈文)安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う。
倭國王・帥升(等)は伊都国王だと唱える研究者の方も多く居られますので付記しておきます。
いよいよ伊都国の登場です。
〇「魏志倭人伝」(3世紀)
(原文)「倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。」
(釈文)「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国。漢の時朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所三十国。」
〇魏志倭人伝には伊都国が邪馬台国に行く途上の国として登場します。
(糸島市立伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」)「魏志倭人伝の中で、伊都国の記述には110文字程度が割かれており、国々の中では最多の情報量を誇ります。」
〇魏志倭人伝抜粋(糸島市立伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から転載)
赤線箇所(釈文)
「①東南陸行五百里にして伊都国に到る。官を爾支と曰い、副を泄謨觚・柄渠觚と曰う。千余戸有り。世々王有るも、皆女王国に(を)統屬す。郡使の往来常に駐まる所なり。」
「②女王国自り以北には特に一大率を置き諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於て剌史の如き有り。王を遣わして京都、帯方郡、諸韓国に詣り、及び郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書、賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。」
〇魏志倭人伝に対応する推定「伊都国王」(平原王墓の被葬者 3世紀)
〇平原王墓(西から)
平原王墓は出土品の特色から女王墓だと考えられています。
〇平原王墓ー発見から今日まで(糸島市立伊都国歴史博物館展示)
〇平原王墓の謎(糸島市立伊都国歴史博物館展示)
〇埋葬施設レプリカ(糸島市立伊都国歴史博物館展示)
頭を西側(手前)に、両足を東側(日向峠)に向けて安置されていました。
〇日向峠から上がる太陽が平原王墓に射し込む風景(毎年10月20日)
○割竹形木棺墓(藤本強氏著「考古学でつづる日本史」から転載)
平原王墓からの出土品(出土品は全て国宝)は圧巻です。
〇超大型内行花文鏡(46.5cm)5面を含む40面の銅鏡(現地案内板)
〇糸島市立伊都国歴史博物館で展示の超大型内行花文鏡(46.5cm)5面
〇素環頭大刀(糸島市立伊都国歴史博物館展示)
〇王のアクセサリー(糸島市立伊都国歴史博物館展示)
〇アクセサリー:右から、メノウ管玉・ガラス勾玉・耳璫・ガラス小玉
中国の歴史書に登場する倭人・倭国の時代に呼応する伊都国王を充ててみました。「伊都国を掘る」を著されたことで有名な柳田康雄氏の「伊都国が近畿に東遷して邪馬台国になった」(邪馬台国近畿説)を思い出します。伊都国が倭奴国(倭国)であったとすれば金印を伊都国の王がもらったのは真実なのかも知れません。
平原王墓の発掘調査に携わった郷土史家原田大六氏は平原王墓を天照大御神の、考古学者安本美典氏は天照大御神(=卑弥呼)の、宮崎公立大学の教授であった奥野正男氏は卑弥呼の墓とされ、吉野ケ里遺跡の発掘で知られる高島忠平氏は卑弥呼の墓である可能性もあるとの見方をされています。伊都国がヤマト王権誕生の礎となったことは確かでしょう。
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