#魏志倭人伝には邪馬台国に行く途上の国として伊都国が登場します。伊都国の記述には110文字程度が割かれており国々の中では最多の情報量を誇ります。

〇魏志倭人伝に記された伊都国(「三國志魏書東夷伝」より抜粋)

(糸島市立伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から転載)

 

ご存じの通り伊都国の重要なポイントは次の二つです。

①世々王有るも、皆女王国に統屬す。郡使の往来常に駐まる所なり。

②女王国自り以北には特に一大率を置き諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。

今回は①②を踏まえて伊都国の王都「三雲・井原(いわら)遺跡」を探訪します。

なお、古墳時代に入って伊都国王都跡に築造された端山古墳と築山古墳についても見ていきます。

 

〜糸島市ホームページ「三雲・井原遺跡」から転載〜

(遺跡の位置と現状)「三雲・井原遺跡は福岡県糸島市三雲及び井原に位置する弥生時代の拠点集落です。遺跡は東を川原川、西を瑞梅寺川に挟まれた低位段丘上に位置します。昭和40年代末から県営ほ場整備が行われ、発掘調査も実施されました。基本的に盛土により遺跡が保護され、現在も良好な状態で保存されています。」

(調査の成果と価値)「三雲・井原遺跡は南北1,500m、東西750mの範囲に広がる遺跡です。集落域と墓域を合わせて約60haを測るわが国を代表する弥生時代の拠点集落であり、中国の歴史書『魏志』倭人伝に記される「伊都国」の中心的拠点集落=王都に位置付けられます。」

〇全国の主な遺跡(糸島市立伊都歴史博物館常設展示図録「伊都国」から転載)

 

〇伊都国王都(三雲・井原遺跡)が位置する怡土平野

(糸島市立伊都歴史博物館常設展示図録「伊都国」から転載)

 

〇三雲・井原遺跡(東から)

(第6回伊都国フォーラム「伊都国王がみた世界」からー部を加工して転載)

 

伊都国王都の範囲を知って頂くため伊都国時代の後に築造された古墳等を目安にしますのでご了承下さい。

 

〇北に鎮座する三社神社から伊都国王都一帯を望む

(道路先の茂みは細石神社、その右に三雲南小路遺跡[死角]、道路左の茂みは奥が築山古墳、手前が端山古墳)

 

〇伊都国王都の地名と遺構

(糸島市立伊都国歴史博物館編集発行「伊都国の王都を探る」から転載)

 

平成28年(2017年)3月5日、三雲・井原遺跡番上地区(三雲330番地)の現地説明会が行なわれています。

番上地区は大量の中国の土器(楽浪系土器)や石製硯2点の出土により注目されました。『魏志倭人伝』には「(伊都国は)郡使の往来常に駐まる所なり」と記述がありこれを裏付ける「伊都国対外交流の中枢地域」(迎賓館・公使館)ではと脚光を浴びたのです。

 

○三雲・井原遺跡全体図

(三雲・井原遺跡番上地区〈三雲330番地〉現地説明会資料から転載)

 

〜三雲・井原遺跡番上地区(三雲330番地)現地説明会資料要約抜粋〜

〇番上地区→多量の中国製の土器(楽浪系土器)と国内2例目となる石製硯が2点出土

◆番上地区は弥生時代中期後半~古墳時代前期(約2,000~1,700年前)の伊都国対外交流の中枢地域

◆『魏志倭人伝』には「(伊都国は)郡使の往来常に駐まる所なり」と記述

◆中国(楽浪郡や帯方郡)からの使者が番上地区付近に滞在した

◆伊都国王の求めに応じ中国に対する外交文書を作成した可能性がある

※楽浪土器は対馬、壱岐、糸島という倭人伝ルートともいえる地域でみられるが、唐津では今のところ確認されていない。

(注)「楽浪土器が唐津では今のところ確認されていない。」ということは末盧国(唐津)に寄らずに壱岐から直接伊都国に来航していたとも考えられます。

 

〇楽浪土器(糸島市立伊都歴史博物館展示)

 

○三雲番上地区出土の楽浪土器(糸島市立伊都国歴史博物館展示)

 

(三雲・井原遺跡番上地区(三雲330番地)の現地説明会資料・続き)「糸島地域は全国的にみて楽浪系土器が集中する地域にあたるが、これらは、

◎海村ともいえる沿岸部の遺跡(御床松原、深江伊牟田、今宿五郎江、潤地頭給)

◎やや内陸の拠点集落(一の町、三雲・井原)

に分類される。」

 

〇糸島の地形と弥生時代の主な集落と伊都国王都への往来

(糸島市立伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から転載)

「一大率を置き諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。」の一大率は古加布里湾の奥部、志登遺跡付近で検察していたのではと考えられています。

 

〇南から望む三雲330番地:道路の先右側

 

〇東から望む三雲330番地:右の端山古墳の前方北側 (左は築山古墳)

 

〇糸島市文化財マップ(糸島市教育委員会作製)

 

〇伊都国王都(王都跡)の遺構(糸島市文化財マップ:糸島市教育委員会作製)

 

〇古代糸島地方の地形略図(前原市教育委員会作製一部加工)

 

〇平原遺跡に向かう曾根丘陵の基部(東)から高祖山を背景に伊都国王都一帯を望む

道路先の茂みは細石神社、その手前が三雲南小路遺跡(樹々剪定南側下)、左手奥の茂みは築山古墳、道路の右手に井原鑓溝遺跡推定地

 

〇三雲南小路遺跡から曽根丘陵に向かう道

 

〇高祖山西麓大門集落から伊都国王都を望む

(茂み:左から細石神社、築山古墳、中央は端山古墳、右端は可也山)

 

〇南の古賀埼古墳から伊都国王都を望む

(左から、三雲南小路遺跡・細石神社、築山古墳、奥に端山古墳)

 

次に伊都国王都に位置する弥生時代の遺構をご案内しましょう。

〇三雲南小路遺跡(前1世紀〜前後)

主体部である2基の甕棺から中国製の銅鏡57面以上、ガラス璧、ヒスイ勾玉、銅剣など豪華な副葬品が出土

伊都国最初の王墓:弥生時代中期後半(約2,000年前)の伊都国王の墓

一辺30mを越える弥生時代の大型墳墓

 

〇現地案内板

 

〇井原鑓溝遺跡推定地から望む三雲南小路遺跡(道路左手の1軒に隣接する剪定された樹々の下)と細石神社(道路右手の高い茂み)

 

〇細石神社

 

〇井原鑓溝遺跡推定地(1世紀)

(ウイキペディアから)「青柳種信の著書『柳園古器略考』によれば天明年間(1781年ー 1788年)に、この遺跡からは21面の鏡が出土している。拓本からは全てが方挌規矩四神鏡(流雲文、草葉文、波文、忍冬様華文などの縁がある)であることが分かっている。後漢尺で六寸のものが多く、王莽の新時代から後漢の時代にかけての鏡である。これらの鏡に加え、巴形銅器3、鉄刀・鉄剣類が発見されているが、細形銅剣・銅矛などが出てない。」

 

〇現地案内板

 

〇三雲南小路遺跡から井原鑓溝遺跡推定地を望む

 

伊都国時代後の王都跡に築かれた前方後円墳

〇糸島地方の主な古墳(糸島市立伊都歴史博物館常設展示図録「伊都国」から転載)

 

〇端山古墳(4世紀初頭)前方部から望む

 

〇現地案内板

 

〇東から望む端山古墳(前方部は削平)

 

〇西から望む端山古墳(前方部は削平)

 

〇築山古墳(4世紀末)後円部の方から望む(削平のため原型を留めず)

 

〇現地案内板


 

〇西から望む築山古墳(左北が前方部、削平のため原型を留めず)

 

〇東から望む築山古墳(右北が前方部、削平のため原型を留めず)

 

〇北西から望む端山古墳(手前の茂み)と築山古墳(右手の茂み)

 

伊都国の王都跡にはヤマト王権誕生後、間もなく築造された前方後円墳が2基存在します。当面一大率が継続して業務に当たったのかも知れません。伊都国時代が終焉を迎え古墳時代に入っても王都跡に前方後円墳が築かれているのはヤマト王権との強い繋がりがあったからだとされています。古墳時代になると交易拠点は宗像地方にシフトしていきます。

 

 

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