#最古の戸籍の一つ、「筑前国嶋郡川邊里戸籍」(断簡)

断簡の一部:「志摩の歴史と文化財」(糸島市立伊都国歴史博物館発行)から転載

 

正倉院文書「川邊里の戸籍レプリカ」(志摩歴史資料館展示)

 

志摩歴史資料館展示案内板(糸島市誕生以前の内容)※前原市を中核として糸島郡志摩・二丈町を併せて糸島市となり糸島郡志摩町に属した地名には志摩を、二丈町は二丈を冠します。例:志摩馬場、志摩松隈、志摩津和崎など。前原市であった地名には冠はありません。

(補足)

古墳時代に続く飛鳥時代に入ると大宝律令(701年)により国(くに)、郡(こおり)、里(り)の行政区分が定められます(国郡里制)。和銅3年(710年)、都を藤原京から平城京へ移すに及んで飛鳥時代はその終わりを告げ奈良時代が始まります。この頃、いつしか里は郷(ごう)に名称が変わっていました。奈良時代初期の和銅6年(713年)には「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ:好字令)という勅令が発せられて「怡土」と「志摩」の文字が充てられました。ちなみに、霊亀元年(715年)、正式に里を郷に改称し,その郷の下部単位として新しく1郷に2~3の里が設けられています。これが郷里(ごうり)制です。更に、天平12年(740年)に郷里制の里が廃止され国・郡・郷の行政区分となります。

筑前(国)嶋(郡)川辺(里)戸籍は、大宝律令が発せられた翌年(702年)の戸籍で好字令以前のもので、「志摩」という2字は充てられていなかったのです。

 

川邊里の比定地(志摩歴史資料館展示)


 

e「国立文化財機構所蔵 国宝・重要文化財」から転載(一部)

重要文化財(指定名称)筑前国嶋郡川辺里大宝二年戸籍断簡、紙背千部法華経校帳断簡

「戸籍は、戸を単位とした課役・兵士の徴発・班田収授などのために、6年に一度作成された。これは大宝2年(702)の筑前国嶋郡川辺里の戸籍の断簡で、現存する最古の戸籍のひとつである。もとは正倉院に伝来した。 記載方法は1行1名で、戸口の配列は血縁順、戸の終わりには与えられた区分田の総数を記し、文字のある部分と紙の継目の裏には「筑前国印」を捺している。文字は六朝風で、整然と書かれている。 筑前国嶋郡川辺里は玄海灘をのぞむ糸島半島、今の福岡県糸島郡志摩町馬場のあたりと考えられ、嶋郡の郡衙の所在地であった。 紙背は天平20年(748)の『千部法華経校帳』の断簡になっているが、これは戸籍の保存期間が過ぎて写経所で裏面が利用された時のものである。」

 

 

(補足)

大宝律令(701年)により人民の戸籍の登録が徹底され、全国に律令の周知徹底は翌年の大宝2年(702年)となります。当時の戸籍は、三通作成され、一つは地元(国)に保管、残り二つは中央に送られました。通常30年の保管期間を過ぎると破棄されますが、当時の紙は貴重品であり裏面は写経用紙などに再利用され、この「筑前国嶋郡川辺里戸籍」もその一つで廃棄後、奈良の東大寺写経所に送られ写経用紙として再利用されました。その結果、「紙背文書」として「正倉院」に収められ、奇跡的に「正倉院文書」として残ったのです。

 

川辺(里)の推定地:志摩馬場一帯(国土地理院地図)

 

冒頭の「志摩歴史資料館展示案内板」に記されている、馬場、松隈、津和崎、油比、泊は丘陵に位置します。古代には、上図の平地には古加布里湾と呼ばれている内海が深く入り込んでいました。馬場と松隈の狭隘な処まで浸透していますので、その様相から「川の辺」という意味が込められた地名であれば、志摩馬場一帯の比定に絞って良いのではないでしょうか。

 

可也山東麓から望む糸島平野北側丘陵部(津和崎・油比・泊・馬場・松隈一帯)

 

県道506号の沿う初川に架かる中新開橋からの北の眺望です。

初川右手に見えるのが津和崎丘陵です。初川は干拓後の人工の川で、ここも内海でした。

 

津和崎北側平地からの東の眺望(県道507号を進むと六所神社)広がる田畑は内海でした。

 

撮影位置から南を見ると道路左には津和崎丘陵が見えます。この広がる田畑も内海でした。

 

県道507号を通って六所神社(志摩馬場)に向かいます。正面の小高い山は石ヶ岳です。

右手が馬場、左手が松隈でそれぞれ丘陵地です。両丘陵でこの先は狭隘となります。

狭隘な丘陵まで内海が浸透していました。

 

道路南側には左(東)から油比・津和崎の丘陵が見えます。この広がる田畑も内海でした。

 

志摩馬場の交差点が見えてきました。

 

交差点の右手は志摩馬場、左手は志摩松隈です。六所神社の鳥居が遠くに見えますが、この鳥居は平地に位置していて神社までは少し距離があります。この鳥居まで内海でした。

 

南側の前原方面からの交差点で、その向こうには志摩松隈が見えています。

 

六所神社が見えてきました。神社を含めて道路両側は志摩馬場です。

 

[六所神社]

筑前國續風土記には「馬場」についての記載があり六所神社にも触れています。

「六所権現の社あり。六所といへるは、八幡大神、神功皇后、武内大臣、熊野三所なり。其御祠は村の上いと高き所林中にあり。所から物ふりて、邊鄙にては御宮作りも頗よし。九月廿八日祭禮。流鏑馬も行はる。いにしへは志登大明神をこそ、志摩郡の惣社と崇め祭りしか、近き比より此六所権現を、志摩郡の惣社と崇め侍へる故、祭禮の折節は、遠近よりまうてくる人多くして、はなはだにきはし。又此村中に古城の址あり。」

 

 

六所神社の大楠

 

六所神社鳥居からの眺望。鳥居の先には可也山が見えます。

 

六所神社から下ると糸島市志摩馬場が両側に広がります。

 

筑前國續風土記(貝原益軒著:1709年編纂)巻之二十三「志摩郡」には「和名抄に載る所、此群の郷の名七あり。韓良 久米(今も久米郷といふ) 登志(今も登志郷といふ) 明敷 雞氷 川邊 志麻」との記述があります。筑前國續風土記が著された時期には川邊の地名は既に無くなっていたのが分かります。

和名類聚抄(和名抄)とは平安中期に源順(みなもとのしたごう)が著した漢和辞書です。

 

 

最古の戸籍の一つ、「筑前国嶋郡川辺里戸籍」は、奇跡的な残存となり、貴重な資料を現代に届けてくれます。