弥生時代は大きく次のように区分されるのが一般的です。
〇前期:紀元前5世紀~紀元前2世紀
〇中期:紀元前2世紀~紀元1世紀
〇後期:紀元1世紀~紀元3世紀
「弥生時代のはじまりと支石墓」を前回紹介しましたので、今回は中期の遺跡についてご案内します。
前回と一部重複しますが、糸島市教育委員会作製の「伊都国散策マップ」と「糸島市文化財マップ」を引用させて頂きましたのでご覧下さい。
〇博多湾沿岸(糸島市・福岡市→糸島市教育委員会発行「文化財マップ」)
〇糸島地方(糸島市・福岡市西区)の遺跡(島市教育委員会発行「文化財マップ」
糸島市三雲及び井原の「三雲・井原遺跡」は東を川原川、西を瑞梅寺川に挟まれた低位段丘上に位置し、魏志倭人伝に記される「伊都国」の王都とされています。
〇三雲・井原遺跡(伊都国歴史博物館作製「伊都国の王都を探る」から転載)
伊都国は「世々王有り」と記されていて本遺跡には弥生時代中期後半の王墓とされる墳墓が二つあります。三雲南小路遺跡の王墓(甕棺)と井原鑓溝遺跡の王墓(木棺)です。
〇三雲南小路王墓ー王の出現(伊都国歴史博物館展示)
三雲南小路遺跡は弥生時代中期後半(紀元前後)の墳墓で1号甕棺と2号甕棺が同一の墳丘にあり、その副葬品から1号甕棺は伊都国王とされ2号甕棺は王妃とされています。
1号甕棺には銅剣等・勾玉・銅鏡(35面)などが、2号甕棺には勾玉・銅鏡(22面)などが副葬されていました。1号甕棺出土の金銅四葉座飾金具とガラス璧は王の証とされています。
〇1号甕棺副葬品の一部「王のあかし」 左:金銅四葉座飾金具・右:ガラス璧(伊都国歴史博物館展示)
〇2号甕棺副葬品の一部:勾玉と銅鏡(伊都国歴史博物館展示)
〇三雲南小路遺跡遠景(道路左・西側一軒おいて)・細石神社(道路右:東側)
〇三雲南小路遺跡の案内板
〇三雲南小路遺跡全景
〇1号甕棺発掘現場
〇井原鑓溝王墓(伊都国歴史博物館展示)
井原鑓溝遺跡の木棺墓は弥生時代中期後半(1世紀)とされ21面の銅鏡や巴形銅器などが埋葬されており伊都国王だとされています。
〇井原鑓溝遺跡推定地地現地案内板
案内板内容
〇推定地周辺の景色
三雲・井原遺跡には細石神社(創建不詳)があります。
〇細石神社
〇雑記
『後漢書』東夷伝には、次のように記されています。
〇「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。
後漢の光武帝からもらったとされる「漢委奴国王印」の印面金印が江戸時代に志賀島で発見され国宝として福岡市博物館に展示されています。
金印(福岡市博物館発行「FUKUOKAアジアに生きた都市と人びと」から引用)
金印印面
印面「漢委奴国王印」の読み方は「かんのなのこくおうのいん」が通説で教科書にもそのように載っています。これを「かんのいとのこくおうのいん」と読むべきだとの主張が根強くあります。志賀島は糸島半島の目先にあり細石神社に奉納されていたとの言い伝えも残っています。
今津湾突端部からの志賀島の眺望(中央遠方が志賀島、左は糸島半島、右は能古島)
大陸との交流拠点で強大な力を持つ伊都国王がもらった可能性は十分にあります。志賀島は糟屋郡に属し奴国は後の那珂郡になると仮定すれば奴国王がもらったとすることには疑問が残ります。「委奴国」を「わどこく」と読む説がある事も付記しておきます。
〇「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う。
この倭国王「帥升」或いは「帥升等」(職名か名前)が井原鑓溝遺跡の木棺墓の被葬者ではないかという有力な見方があることを付記して弥生時代中期を終わります。