#染井神社は静寂の樹々の中、階段参道を経て一段と高い処に鎮座しています。

(筑前國續風土記〈貝原益軒著〉より)「染井山:高麗寺村の内也。染井山霊鷲寺あり。其上に熊野権現の社あり。里民の傳にいはく、神功皇后三韓を伐給はむとて、此山に臨幸ましましして、井のほとりに来り給ひ、異國を討んに勝利を得へきならは、此鎧緋色に染るへし、若勝事を得ずんば本の色なるへしとて、白糸の鎧を井水にひたし玉ひけれは、たちまち緋色に染り、染井と名つけて今にあり。」 

(注)最後の記事 ③(AI Overview) 染井山霊鷲寺 参照

「旅人のブログ」から写真を借用

○染井の井戸

 

○染井神社が鎮座する処は染井の交差点から怡土城跡をくぐり抜けて登った高い場所

 

○怡土城跡の染井口(入口両側には染井神社の幟立てが見えています。)

 

○染井神社は静寂な樹々の先

 

○樹々を抜けると染井神社の階段参道

 

○階段参道(階段参道の先には鳥居が確認できます。)

 

○階段参道先の鳥居

 

○染井神社の鳥居

 

○染井神社鳥居の額束

 

○鳥居をくぐり抜けると階段参道

 

○最後の階段参道

 

○階段参道を上り切ると左手に染井神社拝殿

 

○染井神社拝殿

 

○染井神社拝殿・正殿

 

○正殿

 

○正殿後ろの記録

 

○染井神社からみえる眼下の鳥居

 

○染井神社最後の階段参道と急峻な崖

 

○染井神社境内の鎧掛けの松(鎧掛松)

 

①(ウイキペディア)

『筑前國續風土記』は、福岡藩が編纂した地誌。

『筑前國續風土記』は、福岡藩が元禄元年(1688年)に、福岡藩の儒学者・貝原益軒を著者とし、甥の貝原好古、高弟の竹田定直らが編纂した筑前国の地誌である。元禄16年(1703年)に編纂が完了し福岡藩4代藩主・黒田綱政に上程されたが、その後、改定が加えられ宝永6年(1709年)に完成する。編纂にあたっては、筑前国内の村々を周り、実地調査や実証に基づいて行われている。のちに江戸幕府が諸藩に地誌の編纂を奨励するが、『筑前国続風土記』の和文の遣い方や本文の記載方法が手本になったとされる。

『筑前国続風土記』は江戸期に様々な写本が流布しているが、竹田文庫(後述)の『筑前国続風土記』では、本編30巻に、拾遺(漏れ落ちている事柄・作品を拾い補うこと)として巻31が添えられている。この竹田文庫の『筑前国続風土記』では、竹田定直校正の他にも校正跡がみられ、竹田定直が制作に関わっていたことがうかがえ、定直最後の校正本と考えられる。清書は福岡藩士・末永為順(虚舟)による。

 

②(AI Overview)

染井神社の由来詳細

神功皇后の伝承: 神功皇后が三韓征伐へ向かう際、この地の井戸(現在の染井の井戸)に白糸の鎧を浸したところ、鮮やかな緋色(真紅色)に染まり、戦勝の吉兆とされたと伝わります。

地名の由来: 鎧を浸した井戸を「染井」と呼んだことが、地名や神社名の由来とされています。

 ・鎧掛松(よろいかけまつ): 染まった鎧を干したといわれる松は、のちに「鎧掛

 松」と呼ばれ、長らく境内に残っていましたが、現在は枯死し幹株が保存されてい

 ます。

 

③(AI Overview)

染井山霊鷲寺(そめいやんりょうじゅじ)は、

糸島市大門に存在した聖武天皇勅願の古寺。清賀上人が開山し、怡土七ヶ寺の一つとして42坊を擁した。薬師如来を本尊とし、漢方園があったとされるが、15世紀末の荒廃後は寺宝が円覚院に移された。現在はその跡地が伝えられている。

染井山霊鷲寺の概要

場所: 福岡県糸島市大門字谷川(旧怡土郡)

  • 歴史: 奈良時代に清賀上人が創建。最盛期は42の坊を有する大寺院だった。
  • 由緒: 聖武天皇の勅願とされ、怡土七ヶ寺(雷山千如寺など)の一つ。
  • 特徴: 薬師如来を本尊とし、薬の原料となる植物(シナモンなど)を栽培する「漢方園」があった。
  • 荒廃: 1499年(明応8年)に凶賊の乱入により記録を紛失し、その後徐々に衰退。閼伽井坊(あかいぼう)のみが残っていたがそれも廃絶した。
  • 関連: 現在は「染井神社」の境内にその名残が残り、寺宝は近隣の円覚院へ移された。

(「現在は染井神社の境内にその名残が残り」とありますが、残ったものを見つけることは出来ませんでした。)