歴史を目撃した絵はがき 韓国皇帝交代と伊藤博文 | ケネディスタンプクラブ日記

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切手を貼られた郵便物は、時に歴史の証人や目撃者になる事があります。

この絵はがきも、切手は貼られていませんが、間違いなく歴史の証人です。

 

少し解説をしますと、この絵はがきは日韓の国旗を背景に、大韓帝国の皇帝二人の写真が掲載されています。

旧皇帝が譲位して、新皇帝が即位する、その記念の絵はがきです。

この時代背景を説明しますと、日露戦争終結後の1905年に第二次日韓協約が締結されていまして、大韓帝国の外交権は日本に接収される事になったわけです。はっきり言えば大韓帝国は日本の保護下にあるよ、属国だよ、という事です。

その大韓帝国にロシアが甘い言葉で誘いをかけたら、思いのほか大韓帝国が乗り気になってしまって、国際会議が行われたオランダのハーグで「我々は日本の属国ではないぞ、外交権があるぞ」と騒動を起こします。

日露戦争の勝利後の条約を理解している各国は当然無視。誘いをかけたロシアも「もっと巧妙にやれよ」と思いながら無視。

 

ロシアからしたら、太平洋への足掛かりが欲しいわけです。

ちなみにウラジオストクという地名は、「ウラジ」(支配)と「ヴォストーク」(東)で「東方を支配」という意味です。

不凍港が欲しいロシアが大韓帝国にどんな甘いささやきを言ったか、何が目的だったか、想像は簡単です。

 

ハーグでの大韓帝国の振る舞いは、大量の死者を出してロシアに勝利した日本からすれば容認しがたい行いとなります。

 

ロシアの誘いに乗った皇帝に責任を取らせ譲位させ、その息子を即位させて新体制で朝鮮半島を含んだ極東情勢の再構築を行う必要が日本にはありました。

その任を負ったのが、初代日本国総理大臣であり、初代韓国統監になった伊藤博文でした。

 

この絵はがきには「歓迎記念 東京 明治 40.9.13 統監伊藤侯爵閣下」と書かれた記念印が捺されています。

1907年(明治40年)7月20日に新皇帝即位が終わり、9月13日に日本に一時帰国した際の記念印です。

 

この記念印が捺された2年後の10月26日、伊藤博文はハルビン駅で安重根に暗殺されてしまいます。