1990年のリトアニア | ケネディスタンプクラブ日記

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今年12月に「三省堂国語辞典」第8版が発行されます。

前回から8年ぶりの改訂となりますが、それに伴って新しく入る単語が明らかになりました。「カオマンガイ」「バインミー」「マリトッツォ」が入ることには「腹落ち」するので「いいね」したくなりますが、「羽つき餃子」はともかく「ビャンビャン麺」が入るのは「素で」「斜め上」に思うわけです。

 

さて、入る単語があれば削られる単語もあります。使われなくなり、誰も意味を知らなくなってきた単語は日常語を優先する「三省堂国語辞典」から削られるのは仕方ありません。その削られる単語の中に「ペレストロイカ」があるというのが、少し感慨深くなるものがあります。

「ペレストロイカ」という単語を知っている人は、ソ連(ソビエト連邦)という国があった時代を知っているという事でもあります。

 

「ペレストロイカ」はソ連最後の書記長、最初にして最後の大統領だったミハイル・ゴルバチョフが「グラスノスチ(情報公開)」と共に提唱した言葉でした。意味としては「リストラクチャリング」、つまり再構築なわけです。冷戦で疲弊した現状を認めて再構築を図るというわけです。こういったスローガンを作って連呼するのは共産主義国家にはよくある事で、中国も文化大革命の時に「大躍進」という言葉をよく使いました。

ゴルバチョフ書記長は上からソ連を変えていき、無神論の共産党国家でありながら信仰の自由を打ち出し、1989年には8年続いたソ連軍のアフガニスタン駐留から撤退を完了、ベルリンの壁の崩壊も認めます。

 

この切手をご覧下さい。

自由の天使 独立後初の切手シート 4種セット リトアニア発行 | 切手,ヨーロッパ・ロシア | 趣味の中古切手や紙幣・硬貨の販売と買い取り|ケネディ・スタンプ・クラブ (kennedystamp.jp)

 

ソ連からリトアニアが独立して初めて発行した切手です。少なくとも4カ国語でそう書かれています。リトアニアの地図を背景にして、自由と再生を象徴する女神の像が描かれています。発行は1990年12月22日のようです。

 

ここまできて「?」と思った方、いると思います。リトアニアの独立はソ連のクーデター失敗後、1991年の9月でしたから。

 

1989年はアジアでは天安門事件の年ですが、中東ではソ連のアフガニスタン撤退の年であり、ヨーロッパではベルリンの壁が崩壊した年です。世界が音を立てて一気に変わっていった年でした。東西冷戦が終わり、人々は自由に行き来できる世界が来る、そう思ったわけです。

ですからリトアニアの議会が、翌1990年早々にソ連からの独立を宣言したのは理解できます。

 

しかし、「自由」「解放」「独立」を「反乱」と捉える人たちもいるのは事実です。

 

ソ連を構成する国の中で真っ先に独立を宣言したリトアニアに、1991年1月、ソ連は戦車を差し向けます。次いで特殊部隊が突入。大量のリトアニア人の血が流されました。

ベルリンの壁崩壊後、ソ連中枢にゴルバチョフに反発する勢力が増大し、ゴルバチョフが軍や党をコントロールできなくなっていったのです

そして同年8月、ゴルバチョフ軟禁、ソ連でクーデターが発生します。しかし昔と異なり軍事力で国民を従わせる事ができず失敗に終わります。

この後、ソ連最高評議会はソ連共産党の活動停止を決議。以降はこれまで力で押さえつけてきたソ連構成国が次々に独立していきました。

 

リトアニアが独立を宣言した1990年3月から、ソ連が独立を認めた1991年9月まで、1年半の月日がありました。

この切手はその間に発行された切手です。ですから正式には独立初の切手ではないと言えます。

しかしリトアニアが先頭切って独立を宣言し、多くの貴重な生命が失われてもなお自由を求め続けた事が、その後の世界を動かしていったのは紛れもない事実です。

「ペレストロイカ」という単語が日本語の辞書から削除されたとしても、ペレストロイカから発生した人々の動き、流されたリトアニア人の血を忘れないようにしたいものです。

 

リトアニアは、あの杉原千畝が赴任していた国なのですから。

ユダヤ人を救った5人の外交官 記念切手 イスラエル発行 | 切手,西アジア | 趣味の中古切手や紙幣・硬貨の販売と買い取り|ケネディ・スタンプ・クラブ (kennedystamp.jp)