ケンブリッジに留学した時の下宿は、大学の紹介の2軒目で決めた。1つ目の下宿は大学に近くてとても心地が良さそうだったのだが、オーナーが少し神経質そうで、「きれいに住んでくれると嬉しい、それから、誰かゲストが来るときにはシーツやまくらを洗濯して一日何ポンドで提供する」みたいなことを言っていて、なんだか大変そうだなと思って結局辞退した。

 この大学街に子どもの頃からずっと住んできた、というような風格のその英国人の家を辞してから、15分くらいもやもやする気持ちを抱えて街を歩き、それから公衆電話からかけて断った。当時はまだ携帯電話が普及していなかった。「ぜひ借りたらいい」というオーナーに対してごにょごにょと何か言い訳みたいなことを口にしたように思うが、何を言ったかあまり記憶に残っていない。

 その代わりに見つけたのは、小さいけれども庭がついていて、温室もある家だった。オーナーはケンブリッジ大学の工学部の教授で、いかにも小さなことは気にしない雰囲気の人だった。私にはぴったりだった。

 

 下宿は郊外にあって、最初は自転車で通っていたのだけれども、そのうち大学まで一時間くらいの道のりを歩くことにした。静かな住宅街の中を通ったり、線路を超える橋を渡ってジーザスグリーンと呼ばれる緑地に至る、心地よいルートだった。ちょうど『脳とクオリア』を書いていた時期だったこともあって、意識の本質についてずいぶんと考えた。

 帰り道にケバブの屋台があった。中東のどこかの国から来た兄ちゃんがやっていて、家に戻るその道すがら時々買って夕飯にした。今では日本でも見るようになったけれども、かたまり肉から大きなナイフで削ぎ落としていって、パンといっしょに渡してくれる。暗い道を歩き続けて、下宿が近づいてきたあたりのラウンダバウトにそのケバブ屋さんはあって、冬など、心がぽっと明るくなった。

 時にはマスターマリナーというパブに寄って、1パイントか2パイントビールを飲んでから、そのケバブの屋台に向かうこともあった。あるいは、スーパーで買っておいた長い缶のビールを飲みながら味わうこともあった。

 何度も買っているうちに、やがて兄ちゃんと話すようになった。長話というよりも二言三言で、世間話とか、サッカーのこととか、いろいろ気楽に言葉を交わした。

 

 ある日、兄ちゃんが、「お前何しにイギリスに来ているんだ?」と聞いてきた。そういえば、その時まで、自分が何をしているのか話していなかったのだった。

 口を開こうとして、私は、一瞬躊躇してしまった。そして、思わぬ言葉が口をついてきた。

 「英語の勉強をしに来ているんだ。」

 「ああ、そうなのか、どこの学校? チェリーヒントンロード沿いのどこかかい?」

 「そうだよ。そのあたりさ。」

 私はきっと、その時、下を向いて曖昧な顔をしていたんだと思う。

 「そうか、英語の勉強をしているのか。お前、英語、十分にうまいよ」

 「親切な言葉をありがとう。」

 家に向かいながら、ほんのりと温かいケバブの紙袋を抱えて、なぜとっさに嘘をついたんだろうと考えた。正直に、ケンブリッジ大学の生理学研究所でポスドクをやっていると言えばよかった。それが、あの兄ちゃんにはなぜか言いにくいという気持ちが生まれてしまったのだ。

 

 ケンブリッジの街には、「タウン&ガウン」という言い方があって、大学関係者と街の人達の間に微妙な緊張関係があった。夜歩いていると、ちょっと荒っぽい兄ちゃんたちが酒に酔って大声で話しながら歩いていることもあった。うつむき具合に歩いている大学のオタクたちとは、様子が違っていた。私は、どちらでもないポンコツな服装で、ふらふら歩いていた。

 知らず知らずのうちに、私はケバブの兄ちゃんに街の人と同じような雰囲気の自分を演出していたのかもしれない。その存在の被膜がはがれると、勝手に恐れていたのかもしれない。

 その小さな嘘があってから、なんとなくケバブの屋台に行きにくくなってしまった。おいしいケバブだったから、なんだか残念だった。そこの部分だけ、ずっとお腹が空いていた。

 それから半年くらいして、私は日本に帰った。こうやって今でも覚えているのだから、よほど私の脳に引っかき傷が残っているのだろう。

 

(不定期連載 新・「生きて死ぬ私」 第一回)