[光る君へ] 『第18回・岐路』のあらすじ他 | コンデジ片手に出かけよう

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私の旅の思い出を紹介します。


<あらすじ:NHKサイトでの概略紹介> 
道隆(井浦新)の死後、一条天皇(塩野瑛久)が次の関白にと命じたのは道兼(玉置玲央)だった。道兼は民の為によい政をと奮起していたが、関白就任の日に倒れ、七日後にこの世を去る。その頃、為時(岸谷五朗)の屋敷にききょう(ファーストサマーウイカ)がまひろ(吉高由里子)を訪ねてくる。次の関白は伊周(三浦翔平)か道長(柄本佑)かで内裏では話が持ち切りだと聞かされ…。夜、まひろが道長との思い出の場所へ行くと…


<光る君へ紀行紹介地>
第18回では「京都府八幡市」の石清水八幡が紹介されました。
寛和(かんな)2年(986)、一条天皇が即位。そのきっかけとなったのが花山天皇を欺き、出家させたとされる藤原道兼です。道兼は、一条天皇の即位行事、石清水八幡宮の行幸を取りしきり、左大臣・右大臣に相当する従二位(じゅにい)に出世。即位に合わせた行幸は、のちに恒例になったと『石清水八幡宮史』に記録されています。


あと、第18回では藤原道兼関連で「京都市」の粟田口も紹介されました。
道兼は、東山の麓、かつて粟田(あわた)と呼ばれた地に山荘を構えたことから、粟田殿と呼ばれました。山荘では、歌会を開くなど多くの歌人たちと交流していたといわれています。『栄花物語』には、屋敷の様子や障子に描かれた絵を題材に歌を作らせ、競わせた様子が語られています。
権力闘争渦巻く時代の中、和歌に傾倒していった道兼。
七日関白とも呼ばれ、その短い一生を終えたのです。



<気になるキーワード>
◎七日関白と呼ばれた藤原道兼の死
道隆の死から17日後、一条天皇は、藤原道兼を関白とする詔を下しました。しかし道兼は疫病に感染し35歳で他界
それを知ったまひろの「あのお方の罪も無念も、全て天に昇って消えますように…」の言葉は印象的




◎疫病の蔓延
道兼が亡くなった後、わずかひと月の間に「道長」「伊周」以外の権大納言以上の公卿は死に絶えましたね。それだけ、都(平安京)は大変だったんですね。

◎訪ねてきたききょう(清少納言)に道長の事を聞くまひろ(紫式部)
さりげなく道長の政の才について尋ねてみたところ「贅沢を許さず厳しい道長は、公卿にも女官にも人気がない」と言われましたね。まあ、社会を立て直すためには贅沢を排除する財政改革が必要ですけど、人気はないでしょうね。
※実際に関白になった後の道長は、身内に対しての贅沢についてもうるさかった様子です。



◎後の権力争い(1)
内裏に乗り込み、「道長を関白にするように」と一条天皇に迫る藤原詮子。そして涙ながらに「どうか道長を関白に」と迫りますが、様々な意味で自己保身ですかね?



◎後の権力争い(2)
「空腹の中宮」ともいわれた定子に対し、道兼が関白になり焦った伊周。「お前は何のために入内したのか!」と責め立てる伊周に対し、「(伊周に)人望がないために一条天皇が関白を任せられないのだ」と返す定子。まあ伊周の気持ちもわからなくはないですが、ちょっと言い過ぎかも



<注目したポイント>
◎西方(筑前・肥前)から帰る者、行く者
国司として筑前(現在の福岡県)に赴任していた、藤原宣孝が無事に都(平安京)に帰ってきましたね。口紅を土産にもらい、「舶来品」の白酒(蒸留酒)を飲み、中国の「科挙」の制度のことを宣孝から聞かされて見たことのない大陸(宋)へのあこがれをもつ『まひろ』


一方、まひろと仲の良かった『さわ』は、肥前(現在の佐賀県、長崎県)の国司に任命されたので同行することになり別れることになります。


紫式部にとっては西方(筑前・肥前)は特別な場所、その2つが第18回に語られましたね。