[紫式部コラム] 08:2月25日は菅原道真を偲ぶ日 | コンデジ片手に出かけよう

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菅原道真(すがわらのみちざね)は平安時代に宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めたが、藤原時平の讒言(昌泰の変)により、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没しました。そして、死後は怨霊になり、清涼殿落雷事件などで日本三大怨霊の一人として知られていますね。そして、「怨霊を神としてまつるとその力で災いが防げる」ということで建てられたのが京都・北野天満宮になります。


京都北野天満宮がある場所は平安京の北西部(天門)。陰陽道では、怨霊や魑魅魍魎などの災いが出入りする方角であるとして、忌むべき方角としている。ただ、この天門を鎮めると、家運が永久に栄え、子孫が繁昌するとされますね。北野天満宮ですが、今川通に面した鳥居からはまっすぐ本殿に行けません。それは「都を守ってほしいけど、外に出てきて災いを起こしてほしくない」ということなんでしょうね。また、一条天皇は



菅原道真が大宰府で亡くなったのは903年(延喜3年)2月25日。そのため北野天満宮などでは「梅花祭」が行われます。また、987年(永延元年)には、一条天皇の勅使が派遣され、「北野天満宮天神」の神号が与えられています。


菅原道真に与えられた神号は「天満大自在天神」と「日本太政威徳天」になります。菅原道真は天神さんと言われるので「天満大自在天神」の神号はわかりやすいのですが「日本太政威徳天」は少しわかりにくいと思います。これは御霊の威力を大威徳明王に習合させたものであるといわれ、大威徳明王は阿弥陀如来だと言われていました。
※堺に菅原道真を祭る「菅原神社」がありますが、明治以前は威徳山天神寺と言っていたのは関係がありそうです。

 

 





<参考情報>
源氏物語第12帖・須磨で光源氏が「上巳の禊(じょうしのみそぎ:3月3日)を行った後に「八百万の神々もわたしをあわれむだろう犯した罪はないのだから」と言った後に嵐が起きています。
そして第13帖・明石では、都(平安京)でも嵐が起きていたことが書かれています。そして、光源氏が「住吉の神よ、この地を鎮め、まことに本地を垂れたもう神ならば、どうか助けてください」というのがあります。
ここで言う「本地を垂れたもう神」というのが、「住吉神=大威徳明王」なんですが、「大威徳明王=菅原道真」とも読み取ることも出来そうです。まあ須磨や明石辺りは菅原道真が大宰府に流された時に関連深い場所ですから