[紫式部関連地] 紫式部の墓 (京都市北区) | コンデジ片手に出かけよう

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いつどこで亡くなったか不明な紫式部。紫式部の墓は京都市北区〒紫野西御所田町にあり、市バスで行くとなると「堀川北大路」バス停から堀川通を下っていき、島津製作所紫野工場の南端部分くらいになります。そして入り口には「紫式部墓地」とあるのでわかります。
※秋には「ムラサキシキブ」が愛らしい実をつけますよ。


JR東海のそうだ 京都、行こうでは「紫式部とあるく京都」ということで紫式部の墓が紹介されています。

 



入口から入っていって気が付くのは墓が2つあることです。そして向かって左側にあるのが「紫式部の墓」になります。


★紫式部の墓の写真★



右側にあるのが平安時代の歌人でもある「小野篁(おののたかむら)のお墓」にあります。
なぜ2つのお墓が並んであるかと言うと、こんな言い伝えがあります。
一説によると、紫式部の亡き後、「源氏物語」の内容によって多くの人々が惑わされたという噂が広まり、紫式部は死後に地獄に落ちたといわれていました。そこで『源氏物語』の愛好家たちがこれでは忍びないと考え、すでに建てられていた紫式部のお墓を小野篁のお墓の隣に移動させ、小野篁の執り成しで紫式部の罪を許してもらった。
まあ、源氏物語は江戸時代にブームになり、現在で言うところをヲタクがいて、墓を勝手に動かした感じなんですね。
源氏物語関連地を巡ることは現代風に言うと「ヲタクの聖地巡り」なんでしょうか?



紫式部は存命だった時期で言われているのが次の2つです。
◎藤原実資の日記『小右記』長和2年5月25日(1014年6月25日)条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」旨の記述が紫式部で残された最後のもの
◎『小右記』寛仁3年正月5日(1019年2月18日)条で、実資に応対した「女房」を紫式部本人と認められる。


◇紫式部は出家したのか?◇
瀬戸内寂静さんが藤壺を書かれた時に有隣堂社長さんとのインタビューで次のように言われています。

https://www.yurindo.co.jp/yurin/1880



光源氏を主人公にした源氏物語の部分では光源氏の死は明確に書いていません。源氏物語は、紫式部が夫・藤原宣孝のことを想って書き始めたとしたら「明確に書きたくなかった」と言うのもあるかもしれない。
ただ、書き足りない部分があって、別の視点で「宇治十帖」を書いたのかなって考えています。



「宇治十帖」には浮舟という若いお姫様が出てきます。この人が、心ならずも2人の男に身を任せてしまいます。そして浮舟は紫式部自身をモデルに書いたのでしょうかね?
そうすると二人の男性は・・・実は「父・藤原為時」「夫・藤原宣孝」を想定していたかもしれません。まあ夫・藤原宣孝は浮気者ですから「匂宮」と思いますが。いずれにしろ源氏物語は読む人の気持ちで状況が変わる和歌がありそうな予感ですから、自分の考える「源氏物語の読み方」を探す必要もありそうです。
※写真は紫式部の墓に積もる雪と難を防ぐという「南天の実」です。