◆瀬戸内寂聴『花芯』でポルノ作家と言われ干されたことに「あの時どんなに悔しかったか」 ♣文芸誌に掲載されたのは約70年前の1957年、35歳の頃で、当時のペンネームはまだ本名の「瀬戸内晴美」だった。2016年に映画化。そのとき小説発表当時の経緯を綴った手紙を公開した。「雑誌に載るや否や、新聞の書評欄で平野謙という批評の大家にこてんぱんにやっつけられました······エロで時流に媚びていると言うのでした······私はその後五年間、文芸雑誌からボイコットされ、苦杯をなめました······あれから大方60年も過ぎた今、こうして魅力あるすてきな映画にして下さって、夢のようです······」


◆「近頃の若い者云々という中年以上の発言は、おおむね青春に対する嫉妬の裏返しの表現である」(小説家·随筆家の梅崎春生)


💟藤沢周平の娘の遠藤展子さん、父の直木賞受賞パーティー(1973年)で 「屋台のようなお店が出ていて、ラムネやかき氷などを食べました。最初はお金がいるのかと心配しました。父に『お金はいらないよ』と言われて、面白がって会場をぐるぐる廻って······」 (遠藤展子著『藤沢周平 遺された手帳』)

◆向田邦子の直木賞受賞パーティー(1980年、黒柳徹子司会)で 最初に挨拶に立った森繁久彌「30年の付き合いになります。あの頃この人は処女であったように思います。暇を見つけては『一晩でいいんだけど』と言い寄りまして〜 向田さんは軽く受け流し『まあそのうちにね〜』」 会場はもう大爆笑だった。


◆パブロ·カザルスという世界的に有名なスペインのチェロ奏者がいました。一九七三年、九十三歳で死去しています。その弟、エンリケが一九歳で徴兵されたとき、母親はエンリケに「お前は誰も殺すことはありません。誰もお前を殺してはならないのです。人は殺したり殺されたりするために生まれてきたのではありません。行きなさい。この国から離れなさい」と言ったそうです。エンリケがスペインからアルゼンチンに亡命し、再会するまでの十一年間、母親はじっと待っていたというのです。(澤地久枝『発信する声』)


◆嵐山光三郎「20年前父が死んだとき警視庁の刑事が二人来て、お宅は明後日泥棒が入る。新聞に告別式の日時が書いてあったから、と」


◆有吉佐和子『恍惚の人』を書いたとき「今度はポルノですか」と言われて頭にきた ♣ただ1972年に新潮社から出版されるや空前の大ヒット作に。翌73年には森繁久彌·高峰秀子主演で映画化(豊田四郎監督)。さらに74年に完成した新潮社の別館ビルは『恍惚の人』の収益で建てられたとして”恍惚ビル“と呼ばれた。


◆「苦しい 取材、 そしてその後の執筆の過程で、もうこれ以上はと、幾度か挫折しそうになりました。そのたびに私を踏みとどまらせて下さったのは、亡き河口博次氏の遺書でした······墜落していく飛行機の中、手帳に走り書きされた『マリコ、津慶、知代子 どうか仲良く、がんばって ママをたすけて下さい······本当に残念だ きっと助かるまい······まわりながら 急速に 降下中だ』という、家族へ宛てたメッセージです」(山崎豊子『作家の使命 私の戦後』) ♣1985年の日航ジャンボ機墜落事故では河口さんを含む乗員乗客520人が犠牲になった


◆「いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる」「原発が来りて富めるわが町に心貧しくなりたる多し」(福島の歌人佐藤祐禎さんの歌集『青白き光』) ♣歌集が発表されたのは福島第一原発事故の7年前の2004年


◆「人を信じるしかあるまい······原発の安全は人間を信じることだ。ひとつそれがくずれれば、イカ釣り舟も地獄の宴だ。」(水上勉『若狭がたり』)


💟「ばあちゃんの名前はオイと孫覚え」「 爺と住む5歳が唄うお富さん」(毎日新聞脳トレ川柳)