幸せって何? それは「自分以外の他人(ひと)に喜んでもらう事!」あなたも今すぐ実践して幸せになろう! -164ページ目

藤原先生の死、どうして・・・・

僕にとって本当に大事な大事な先生だ。

藤原先生は独身で、保育園のすぐ脇で学校の坂の上り口にある教員宿舎に住んでいた。

若い先生だったのだろう。顔も忘れてしまった。

それでも僕にとって大事な大事な先生だった。

学校の宿直の時から、いつも友達4人で行動するようになっていた。

藤原先生の教員宿舎に泊まりに行って遊んだ。

何をして遊んでいたかも記憶がない・・・・・・

でもその記憶は儚く、本当に短い夏の思い出みたいだ。


そして初秋だと思う、

突然藤原先生は学校に来なくなった。

たしか母から聞いたと思う。

藤原先生は癌という病気で入院し、学校に来れなくなったと・・・・

本当に短い時間だった。

母と藤原先生をお見舞いに行ったような気がする。

その時も優しく頭を撫でられたと・・・・・

泣いていた。

「としょりおばあちゃん」が死んだ時は泣かなかった。

藤原先生が僕の頭に手を伸ばそうとする。まるでスローモーションだ。

涙があふれてくる。声は出せない。ただ苦しく切ない。

そして、藤原先生の優しさに・・・・

見舞いに行ったのかどうかの事実はわからない。

僕の記憶が今でもそうで、胸が熱くなり目頭が潤んでくる。


それから数日後だと思う、藤原先生が死んだという報告が、代わりの先生から聞かされた。

どうして・・・・・

藤原先生に捨てられたような気がして、不安のような記憶が今でもあるような気がする。

その後また記憶がなくなっている。

4年生の2学期から僕はまた一人でいたような気がする。

まったく記憶にない。


初めて友達と一緒に

僕には友達もいなかった。

しかし、4年生になっていた

新しい担任の先生、「藤原先生」僕はその先生がすっごく好きだった。

なぜかは解らない。

藤原先生と一緒に何人かの友達と一緒に遊んでいる自分がいる。

藤原先生は僕の名前を呼んでくれた。

4年生になって初めて、名前を呼んでもらえたような気がする。

友達とも遊んでいる。

ある夏の夜、藤原先生が学校の宿直だった。

友達と一緒に、学校で藤原先生の宿直に付き合い泊まることになった。

あーこの時から記憶があふれてくるようだ。

学校は戦時中に建てられた木造の校舎で、少し歩くと裏側はお墓があった。

校庭には、大きな桜の木が8本ぐらいあったと思う。

校庭から見下ろす、町の小さな湾と対岸の山を隔てて、太平洋が望める小高い場所に小学校がある。

小学校へは、保育園の脇を通り50mぐらいの上り坂を上り

校門につながる階段(高さ10mぐらい)を上るとその校庭に着く。

僕は校庭の桜が好きだった。

だから今も季節は春が大好きだ。

話を戻そう、宿直で教室の見回りがある。

3人の友達(弘と茂雄と健一だったと思う)と僕はいた。

怖かった。怖かったけど一生懸命逃げない僕がいる。

僕は変わっていた。

各教室を見回って、何処でも同じだと思うが理科室と音楽室が恐怖だ。

その見回りには藤原先生はいなかった。

理科室には、人骨の模型と蛇や蛙の標本がホルマリン漬けになっている。

懐中電灯を誰が持って進んだか記憶がないが、理科室は無事見回りが終了した。

他の教室は、4人とも普通(たぶん)に見回った。

体育館を通り抜け校舎の裏側にある音楽室へ進まなければならない。音楽室の裏側はお墓だ。

そして昭和の時代の学校に必ずあるような、幽霊話がある。僕達の学校では理科室とトイレと音楽室だ。

とりわけ音楽室は、お墓の裏なので幽霊が一杯でる。昼でも怖いところだ。

訳のわからない大声を出しながら、大きな音を出して床を叩きながら歩いてついた。

4人は顔を見合わせて喉を鳴らしたように思う。

僕はなぜか怖いと言うより、3人の仲間と一緒にいることが嬉しかった。

だから勇気があった。それでも心臓は張り裂けそうだ。

そして思い切って僕が音楽室のドアを開けた。

「ギャー」「ワオー」一斉に藤原先生のいる宿直室まで全力疾走だ。

この時から僕は、友達と一緒に登校するようになっていた。

学校が好きになってきた・・・・・

いじめ

僕は早生まれだ。

小学校低学年は同級生より、子供だった。

「としょりおばあちゃん(方言で祖祖母のこと)」と三人の姉の影響もあってか

とにかくおとなしい子供だったと母が言う。

たぶんそうなのだろう、低学年の頃の記憶は殆どない。

あるのは、学校で上履きを取られて泣かされた記憶がよみがえる。

今で言う「いじめだ」

小学校低学年たぶん2年生の頃だと思う。

いつもいじめられていたのかは定かではない。

たぶん、毎日のようにいじめられていたから、保育園の裏窓から保育園の時が良かったと思い戻りたかったのではないか?

学校には行きたくなかった。

先生の名前も覚えていない。まったく記憶がないのだ。

よみがえる記憶は、学校に行きたくないという記憶だけ、

あと母が頑張って、学校に行くように叱咤激励している声が微かに聞こえるかな?

とにかく小学校3年間の記憶は殆ど消えている。

と言うより消したかったのかもしれない。

たぶんそうだ、目を閉じれば・・・・・

あった・・・・

んー教室でもらした記憶だ・・・・

先生におしっこと言えない自分がいる。

漏らした記憶が2回ある。

しかし、情けない小学生だった、発言できないのだ。

友達と一緒に登校した記憶もない。

姉が3人いたけど、僕は一緒に学校に行った記憶がない。

とにかく学校は嫌だった。

でも頑張って行ったのだろう。あまり休んだ記憶もないし母から不登校の話も聞いたことがない。

母が言っていた。この子はどうなるのか心配で心配でと・・・・

でもどうしてだろう、不思議と懐かしい気持ちになる。

なぜ僕はこの年で記憶を辿っているのか

何となく自分の人生に疑問を現在もっているからだ。

自分は、なぜ頑張って生きているのだろうか?

要するに、スランプになっている自分がいるからだ。

僕は、現在建築(住宅)関係の会社の社長である。

僕の目標は大きい。大きかった?

日本の住宅供給システムをもっとユーザー側に親切なシステムに変えようと考え始め、

それが僕の使命だと思い込んで頑張った。

何かを変えて、新しいものを創造する。

既存のものをより良く改善する。

これが正義だ、社会に貢献できる「自分の生き甲斐」でもあると思い必死に勉強した。

この大きな目標を達成するまで、絶対に休まない。

そして四六時中考えた。

全てを目標達成のための時間に費やしてきた。

家族にも、大きな幸せを与えたいと思い、本当に必死に頑張った。

失敗が何度もあった。と言うより失敗しかない。

なぜだろう・・・・

結論はいつも自分の勉強不足、自分の努力が足りない。

もっともっと頑張らなければ。

でも、頑張っても頑張っても、結果は良くない。

諦めるな、絶対に諦めるなと言い聞かせた。

子供に対しても、社員にも目標をもつこと、正しい努力をすること、諦めないこと

そして自分に言い聞かせながら、30年も働いて、勉強してきた。

でも結果は未だに見えない。

「正しい努力」をしていないからだ。でも「正しい努力」が見つからない・・・・・

いつの頃からだろうか、前向きに生きようと思って勉強と努力を始めたのは・・・・

現在、迷っているのは苦しいからだ。

諦めて、楽になりたい?

しかし諦めて本当にいいのか?

どうしたらいいのか・・・・

そう思ったら、自分の人生ってなんだろうと思ってブログを何となく始めた。

とにかく振り返ってみよう、

現在のどん底(自分の考える)生活まで・・・・

記憶を辿るって不思議だね

何となく始めたけど、

自分の記憶を辿るって不思議な世界だなー

夢の様でもあり、はっきりした現実でもある。

本当に不思議な世界だ。

確かなことは、自分の頭の中に記憶が存在することだ。

今50歳になって、記憶を辿っている自分の過去が本当に事実だったのか?

明確に事実であるような気にもならない。

自分の記憶が正しいか、それは誰かが知っているのだろう。

それは母親であったり、小学校の先生であったり・・・・

それも、その当事者の記憶になければ、それの真偽は誰にも解らなくなってしまう。

そうですね。自分の真実なのに、自分でも真偽が解らなくなってしまう。

不思議な世界が存在してくる。

それは、なんとなく宇宙的な世界に思えてくる。

しかし、自分の「記憶の事実」を誰かに否定されたら、大いに反発するだろうなー

自分の存在が「記憶がある部分から」しか、自分には存在しないから・・・・

なんだか哲学的になってきた・・・・

僕は哲学者じゃないから、あまり難しく考えないようにしよう。

母から叱られた記憶が、母が登場する僕の最初の記憶とは、チョット寂しい気もする。

母が知ったら、きっと「〇〇のようなこともあったでしょう」と楽しそうな思い出を話してくれるのだろうな。

一生懸命、僕を可愛がって笑わせようとして育てた母にしてみれば、

そんなしょぼい記憶しかないのか?ってな感じだろうな・・・

今子供を育てている、お母さん達はどんなふうに思うのだろう?

今度、80歳になる母に聞いてみよう・・・・

僕の真実を覚えているだろうか?又は新い事実がよみがえるのだろうか?

記憶を辿るって、結構冒険ですねー