10月8日、ジブンゴト大学3期、第1回の授業に参加しました。ジブンゴト大学はオンラインコミュニティで、毎回本当に貴重な、面白い、考えさせられるお話を聞くことができます。終わったときには自分が一歩成長した感覚になれます。ぜひご参加を。

 

https://www.jibungoto.net/ 


 

    今回の講師はニールセン朋子さん。日本のご出身でデンマーク在住20周年。デンマークと日本をつなぐお仕事をされていて、世界ふしぎ発見にも出演されたとか! 今後はフォルケホイスコーレという学校を作ったり、市議会に立候補したりと、活躍の場を広げていかれる予定だそうです。なお、日本国籍で外国の選挙に立候補するのは、ニールセンさんが初なんだとか!

 

そんなニールセンさんから伺った幸せの国のお話、心に残った部分をまとめたいと思います。



 

  「どんな国でありたいか?」

 デンマークは「どんな国でありたいか?」を多くの人が考え続けている国だそうです。どんな国でありたいか。そのような国であるために何が必要か。その必要なものを市民が得るためにどのような教育が必要か。このように、大きな目標に向けて考えていく。

 

 これは日本に欠けている部分だと感じました。日本の教育は「詰め込み」と「ゆとり」の間を揺れ動いてきたと言われます。なぜ揺れるか。それは「教育をどうするか」という点だけで考えているからではないでしょうか。「どんな国でありたいか」という問いに対する答えが明確になっていない。

 

 曖昧さは大切な日本文化だとは思いますが、「どんな国でありたいか」という最終目標すらも曖昧なままでは、いつか国として成り立たなくなってしまうのでは、と危機感を覚えました。

 

  答えとしての民主主義

 持続可能性という大切なお話もあったのですが、お話全体を聞いていて思ったのは「どんな国でありたいか」の一番の答えは「民主主義」なのかな、ということです。お話の中で「民主主義社会とは何か」という問いに、3つの観点から答えが示されていました。

 

 1つめが「プロがいない」ということ。政治家は民主主義のプロではない。国民を代表しているだけ。だから政治家が政治家の論理で、勝手に答えを出してはいけない。2つめが「全員が決定者」ということ。プロがいないのだから全員が対等なはず。全員が対等なのだから、全員が話し合って「どんな国でありたいか」を考えて、答えを出していく。そして3つめが「正解も完成形もない」ということ。全員がアマチュアで、全員が違う人間。その中で社会として一つの答えを出す以上、絶対的な正解があるはずがない。見出すべきなのは「最善の妥協点」である。

 

 こういった価値観を国民として共有するために、幼稚園の頃から何をして遊ぶかを自分達で決めさせたり、選挙があると候補者は学校で演説会をして模擬投票を行ったりする。学校予算すら、保護者組織と生徒会、学校の三者が同等の決定権を持ち、対等に話して決める。コロナ対策でも、政府は子供向け記者会見まで行っている(!)。

 

 この「民主主義」感覚も日本にはない部分だと思います。政治は政治のプロである政治家が行うもの。我々一般市民とは遠い世界で行われているもの。こんな感覚がある気がします。だから選挙にも行かない人が多い。デンマークと比べた時、日本は「民主主義」と言えるのかどうか。

 

  「余白」としての学校

 日本では、生徒たちは受験競争にさらされます。「偏差値」での学校選びに疑問を持つ生徒が増えてきたようには思いますが、それでも「自分が何をしたいのか」なんてじっくり考える暇もなく、時間のベルトコンベヤーに載せられ、就活・新卒採用まで運ばれていく。いや、定年退職までかも。

 

 デンマークには、考えるための「余白」となる学校が存在するそうです。それがフォルケホイスコーレ。17.5歳以上なら誰でも入学が可能で、試験も成績も評価もなし。卒業証書もなければ、卒業したからと言って何か資格が得られるわけでもない。

 

 日本人からすると、そんなところに通って何の意味が?と思ってしまいそうですね。でも、この「余白」の時間ってすごく大切だと思います。何かを得て先に進むためじゃなく、立ち止まって、どこに進むかゆっくり考える時間として。高校からは専攻を決めるそうですが、その際にも「将来役立つか」ではなく「本当にそれを学ぶのが楽しいと思えるか」で選びなさいと言われるそう。こうやって「自分がやりたいこと」「楽しいと思えること」と向き合ったことって、少なくとも自分が学生のころにはなかったような気がする。

 

  対話

 自分と向き合い、考えを深めるために、フォルケホイスコーレでは対話が重要視されるそうです。「せっかくの立ち止まる時間。これまでじっくり考えてみなかったことに向き合ってみるのはどうだろう?」こんな風に問いかけてくれる時間が、学校があったら、救われる生徒はたくさんいるのではないでしょうか。

 

 よい対話とは、何か大事なことをお互いに興味をもって話すこと。お互いにより賢くなるために、よく聞き、よく質問し、結論を急がないこと。自分の社会科の授業ではディベートやプレゼン合戦で「対話」をしたつもりになっていたけど、それだけではだめなのかもしれない。こういうゆったりとした「対話」も取り入れてみたい。特に道徳でやりたい。お話読みましょ~じゃない道徳。価値観について対話する道徳。

 

  大人こそ学ばないと

 すごく納得したのが、成人教育の話でした。子供はいつの時代も最新の教育を受けている。でも大人は、受けた教育がどんどん古いものになっていく。だから、大人が自分をアップデートして、世代間の共通言語を獲得しなくてはならない。そうしないと「対話」が成り立たない。

 

 そうならないために、デンマークでは基本的に年間14日間、個人が希望する教育機会への参加が認められているそう。給料も参加費も交通費も支払われる。社会全体が教育や成長を大切にしていることの表れだと、感動しました。

 

 この感覚って、日本ではものすごく薄い気がします。年齢が上の方が賢くて、常に若者を教化する役割をもっている、というのが日本の感覚では。で、この感覚があるから変わるのが大変。大人こそ学ばなくてはならない。これは忘れずにいたいです。


 

  まとめ

 もちろん、それぞれの国にそれぞれの文化があっていい。でも、認め合い、話し合って「最上の妥協点を探る」という過程は大切にしたいと思いました。そのために「認め合う」と「話し合う」はできないといけない。それができる市民を育てていきたいし、自分もそうありたい。


     ただ「曖昧」とか「空気を読む」を大切にする文化自体を否定したくはない。マリの会で聞いた「高文脈文化」を大切にした「日本ならではの民主主義」は、どのような形なんだろう。


     協力隊から帰国してからの社会の授業が楽しみで仕方なくなりました。新しいカリキュラム作り始めよう。




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