5/4(土) 6:12 文春オンライン

中国大使としての活躍をはじめ、30年以上にわたり日中外交の最前線で奮闘を続けてきた垂秀夫氏。今回は2010年9月に発生し、日中関係に大きな緊張をもたらした「尖閣諸島中国漁船衝突事故」について、当時の菅直人首相との折衝などを中心に振り返ってもらった。(聞き手 城山英巳・北海道大学大学院教授)

 

「何をしてたんですか、仙谷さんは! 言っておいたでしょう、私は日中関係を大事にする政治家なんです!」  2010年9月18日、菅直人総理は首相公邸で仙谷由人官房長官に怒りを爆発させました。尖閣諸島付近で中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突してきた事件から11日後、前原誠司外相や福山哲郎官房副長官らに加え、佐々江賢一郎外務次官や齋木昭隆アジア大洋州局長、そして中国課長だった私も同席して、事件処理に関する協議を行いました。仙谷さんが黙って俯(うつむ)いていると、 「外務省は何をやってるんだ!」  菅総理の怒りは収まらず、矛先は前原さんのほか、外務省にも向けられました。ただ、中国漁船が海保の巡視船に故意にぶつかってきて逮捕相当と見なされたわけで、外務省に責任はありません。それでも総理の発言ですから、みんな黙っていました。  菅総理が「外務省には専門家はいないのか!?」とまた怒鳴ると、隅の方でスチール椅子に座っていた私に全員の視線が注がれました。前原さんが「中国課長です」と紹介すると、「じゃあ一番分かっているだろう。ここに座るように」と総理は言って、目の前に座らされたのです。 「中国は何をしようとしてるんだ!?」

怒ったようにワーワー言われたので、つい大きな声で返答しました。 「中国は、圧力さえかければ日本は必ず降りる(譲歩する)と考えています。今後もあらゆる手を使って、どんどん圧力をかけてくるでしょう」  すると総理は、「何を言ってるんだ!」とさらに怒り出す。埒が明かないので、09年12月に来日した習近平国家副主席と天皇陛下の「特例会見」を例に出しました。陛下の御健康に関わる「1カ月ルール」の関係で、一度は会見はアレンジしないと整理されたのに、中国側からの強い要請を受けた民主党内からの働きかけにより、政府の方針が変更された一件です。「中国は、そういう経験も全部頭に入れた上でやってきています」と伝えると、 「た、確かに我が同志は……」  そうつぶやいたきり、二の句を継げなくなった。一呼吸置いて「中国とチャンネルか、パイプはないのか!?」と言い出しました。外務省の幹部が「チャンネルよりも、大事なのはどういうメッセージを送るかです」と言うと、総理は黙りこんでしまい、そのまま解散となりました。  確かに菅総理は中国との関係を重視し、母校の東工大の中国人留学生とは年に1回、食事会を開いていたと聞いたことがあります。自分が総理の時に日中関係を壊すような事件が起こったことがショックで、受け入れたくなかったのだと思いますが、総理大臣は、自国の主権を守ることを第一に考えなければなりません。  中国課長時代、尖閣諸島を視察したことがあります。上空から魚釣島を見て、「この島を守らなければならない」との思いを強くしたものです。ところが、以後15年ほどの尖閣問題を振り返ると、残念ながら、日本の対応が逆効果になり、中国を利することが続いてきました。今こそ、戦略的な対応を練り直さなくてはなりません。

 

 

昨年12月に退官した前駐中国大使の垂秀夫氏(62)。2008年8月に中国・モンゴル課長に就任すると、尖閣諸島問題が勃発し、北京に赴任した公使時代には尖閣問題に端を発する大規模な反日暴動も経験した。短期集中連載の第3回では、対中外交を巡る秘話に加えて、今後、安定した両国関係を築くためのビジョンを明かす。  09年8月、民主党政権が発足し、鳩山由紀夫総理が誕生しました。その4カ月後に起きたのが、12月15日の天皇陛下と習近平国家副主席の会見を巡る問題です。宮内庁は、陛下が海外の要人と面会する場合、陛下の御健康に配慮して1カ月前までに打診する「1カ月ルール」を定めていました。  習氏の来日に際しても中国側に何度も伝えていましたが、一向に返答がなかった。経済政策の方針を決める中央経済工作会議の日程が決まらなかったためで、要するに中国側の都合です。結局、申し入れてきたのは11月23日。宮内庁はルールに則って対応しようとしました。  私は担当課長として、会見をアレンジすることの重要性を理解していましたが、陛下の御健康への配慮もあり、ルールを曲げることはできません。ただし、習氏は次の国家主席になることが確実な重要人物。代案として、総理官邸での大規模な夕食会を提案し、それが採用されました。本来、副主席である習氏のカウンターパートは総理ではありません。異例ではありますが、日本政府として厚遇する姿勢を示すべきだと考えたのです。つまり、この時点で鳩山総理自身は陛下との会見をアレンジしないことで納得していたわけです。  だが、ここから迷走が始まる。共同通信(09年12月11日配信)によれば、小沢一郎幹事長が鳩山総理に電話をかけ、「何をもたもたしている。会見はやらなければ駄目だ」と圧力をかけた。これを受け、平野博文官房長官が宮内庁の羽毛田信吾長官に電話して説得。特例会見が実現したとされる。  当時、鳩山総理が「今日も怒られたよ」と溢(こぼ)していたという話を私も耳にしたことがありましたが、もしそれが事実なら、与党幹事長とはいえ、一議員の圧力で陛下に特例を強いたのはいかがなものか。しかも、鳩山総理は国会で「自分は羽毛田長官に電話していない」旨を答弁しましたが、後にメディアの取材に「私が電話しました」と明かしています。つまり、虚偽答弁をしていた。  結果、外務省にも批判の目が向けられました。野党だった自民党は石破茂政調会長を委員長とする特命委員会を設置。テレビカメラを入れて、私は1時間、立ちっぱなしの状態で追及を受けました。田舎の母から電話がかかってきて「お前、何か悪いことでもしたのかい?」と心配されたものです。この「吊し上げ」は当初、3日間続く予定でしたが、上司の齋木局長が石破氏にかけあってくれたため、1日で終わりました。  いずれにせよ、この件で中国側は「日本政府は圧力をかければ折れる」と認識するようになったことは間違いありません。

本記事の全文は、「文藝春秋 電子版」に掲載されている( 垂秀夫「尖閣諸島のために戦略的臥薪嘗胆を」 )。

垂 秀夫/文藝春秋 2024年4月号

 

 

 

サンケイ 2020/9/8 16:25

平成22年9月7日に尖閣諸島(沖縄県石垣市)沖の領海内で発生した海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突事件の映像を動画投稿サイト「ユーチューブ」に流出させた元海上保安官の一色正春氏に話を聞いた。

 --10年前の衝突事件発生時、感じたことは

 「まず現行犯逮捕をしない、外国人漁業規制法(外規法)に比べて立証しにくい公務執行妨害という罰金の少ない罪で船長1人だけを逮捕したことに違和感を覚えた。そして1週間もたたないうちに船長以外の乗組員14人と重要な証拠である漁船と漁獲物を帰国させたのを見て、これはやる気がないなと感じた。今思えば、深い考えもなしに場当たり的に対応していたことがよく分かる」

 「外規法を適用すれば漁船と漁獲物を没収することができ、犯罪の抑止と巡視船の修理費用に充填(じゅうてん)することができたにもかかわらず、当時も今もそのことについて指摘する人が少ない」

 

尖閣諸島中国漁船衝突映像投稿経緯と処遇

2010年10月下旬から11月初め、尖閣諸島中国漁船衝突事件のビデオ映像が入ったSDカードCNNの東京支局に郵送した[14]。この映像を送りつけられたCNNでは、出所不明の怪文書の類とみなしてSDカードを直ちに処分、廃棄した。CNNの動きが無かったため、同年11月4日、神戸市のネットカフェで「sengoku38」というアカウント名でYouTubeに動画をアップロードした。CNNが報道していればYouTubeにはアップロードしなかったと後に語っている[4]。同様に、自らが出演したテレビ番組では「東京では報道陣などに配布するDVDも用意していた」と語った[15]

一色は動画投稿後、読売テレビに連絡し、事件の詳しい内容を話した[4]。一色はいずれ流出元が自分であると判明すると考えており、読売テレビの取材に応えたのは逮捕された時に「頭のおかしなやつがやったこと」にされないための保険であった[4]

同年11月10日、動画を流出させたのが自分であると上司に名乗り出る。神戸市にある第5管区海上保安本部の庁舎で国家公務員法違反の任意聴取に応じ、以後11月16日まで庁舎宿泊をしながら聴取に応じた。

同年12月17日に辞職届を提出[16]12月22日、海上保安庁により停職12か月の懲戒処分[17][18]。同時に辞職届が受理され同日付で海上保安官を辞職した[16][17][18]。在任中、長官表彰3回、本部長表彰4回受彰[8]。同12月22日、警視庁により国家公務員法守秘義務)違反容疑で書類送検された[18]。一色は動画投稿について、「政治的主張や私利私欲に基づくものではない」と述べ、後悔はしていないことを強調した[19]

2011年1月21日に国家公務員法違反について起訴猶予処分が下された[20]

 

 

 

ヤフーニュース 2024年5月11日 5/11(土) 7:04 現代ビジネス

現場指揮官に自決を強要

85年前、ノモンハンの敗北で露呈した軍幹部の将器と無責任

負けた時、何を語り、いかに振る舞うか――。まさに人間の器が問われる場面である。生死のかかった戦争ともなれば、なおさらだ。ちょうど85年前の昭和14年(1939年)5月11日、日本の関東軍と極東ソ連軍がモンゴルの国境地帯で衝突して始まったノモンハン事件。​4ヵ月にわたる激闘に敗れた日本の将兵たちには、上層部からのさらに苛酷な仕打ちが待っていた。ノモンハン事件の全貌を検証した秦郁彦氏の労作『明と暗のノモンハン戦史』(講談社学術文庫)には、残酷にして無責任な軍隊の現実も描かれている。

部下の処罰に燃える敗軍の将

ノモンハン事件は、日清・日露戦争以来、連戦連勝を誇っていた日本陸軍にとって、初めての「敗北体験」だった。日本側だけで死傷者2万人におよんだ戦場では、無断退却や命令への不服従、戦意喪失、捕虜の大量発生など、それまで陸軍が想定していなかった事象が多発していた。  戦闘の終結後、その責任をめぐって軍はどのような人事的処置をとったのか。『明と暗のノモンハン戦史』著者・秦郁彦氏の検証によれば、これらは従来の「事なかれ的人事」では間に合わず、軍法会議等による法的処分も適用されたが、最終的には多くが予備役編入や左遷気味の転補など微温的な行政処分ですまされてしまったという。  たとえば、事件の首謀者とされる少佐参謀の辻政信は「事実上の関東軍司令官」と評されるほど独断越権が目立ち、「免官させよ」という声もあった。にもかかわらず、参謀人事を握る大本営総務部長から「将来有用の人物だから」と陳情が来て、現役にふみとどまっている。しかし、その一方で――。  〈もっとも過酷な運命を強いられたのは捕虜交換で帰ってきた将兵であったろう。将校は事情の如何を問わず自決を強いられ、下士官兵は軍法会議にかけられて懲役や禁固刑を科せられた。超法規的処分と評してよいが、すべて内輪で処理され、新聞等を通じて国民に知らされることはなかった。〉(『明と暗のノモンハン戦史』p.354-355)  なかでも中下級指揮官に、自決強要や免官、停職など、上級指揮官たちに比べて格段に重い処分者が並んだ。その多くは、昭和14年8月下旬に発生した「無断退却」の関係者だった。いずれも弾薬、食糧が尽き、通信も絶えた「明日は全滅か」という極限状況下で、「座して全滅するよりは離脱して再起を」と判断して撤退に踏み切った現場の指揮官たちだ。  しかし、この判断を認めず、彼らを軍法会議にかけてでも処罰しようと熱意を燃やしたのが、「敗軍の将」である第23師団長の小松原道太郎中将と、第6軍司令官の荻洲立兵中将である。  小松原らが、特に槍玉にあげたのが、井置栄一中佐と長谷部理叡大佐だった。しかし、結局この二人を処罰する軍法会議は開かれず、二人の死刑を断念した小松原が、代わりに思いついたのが「自決勧告」という方法だった。荻洲もこれに同意したとされる。  井置への自決勧告をめぐる第23師団幕僚会議で、師団長の小松原は「俺の師団が壊滅的打撃を受けたのは、井置中佐が過早にフイ高地を捨てたためである」とし、さらに「井置中佐には自決を勧告するのが至当であると思うが、諸君はどう思うか」と賛同を求めた。  これに対し「何とか憐憫の情を」、また「一命を助けてやることが武士の情ではないか」という声もあったが、小松原は「俺の師団が壊滅したのは」と前言をくり返しただけだった。

こうして処分は決まったが、誰が使者に立つか、もちろん引き受ける者はない。結局、井置の後任として着任したばかりの同期生の中佐が指名される。この中佐は内地を出発する前に上官から申し渡されていたこともあってか、あっさり引き受け、井置は「謹んでお受けする」と答えたという。  それから数日後の9月16日夜、同宿者へ散歩に出ると言って出た井置は、草原に座してピストルで自決し、翌朝、発見された。「せめて靖国神社への合祀を」と進言した参謀もいたが、小松原は「これを戦死と認め、靖国神社に祀ることは許されない」と冷たかった。しかも、陸軍大臣には関東軍経由で、井置は「戦病死(進級せしめず)」と報告したと日記に記している。  なんとも冷酷な話だが、さらに驚くのは、小松原のその後の行動だ。  〈11月末には内地へ帰還した小松原が、ひそかに姫路在住の井置未亡人を訪ね「自重に自重を促して」いたのに「自決してしまった」と伝えた。さらに「軍司令官は戦場の様子もよく分からないのに、井置中佐を強く叱責するものですから、感情的ないがみ合いも少々ありました。荻洲中将は人情の分からぬ男です 」と責任をすべて荻洲に押しつけている。〉(『明と暗のノモンハン戦史』p.377)  井置とともに小松原に責められた長谷部大佐は、井置より4日遅い9月20日、自決した。長谷部の死後の処遇は井置と同様に「進級なし」の「戦病死扱い」だったが、なぜか靖国神社に合祀されている。

ソ連側に捕らえられ、帰還した捕虜たちの処分も厳しいものだった。  「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」という言葉で知られる「戦陣訓」が陸軍大臣から示達されるのは、この1年半後の昭和16年1月のことだが、捕虜をタブーとする観念は、昭和期に入ったころから強まっていた。  ノモンハンの停戦協定による捕虜の相互交換では、日本側へは200名余の捕虜が返されていた。

〈交換で帰ってきた捕虜(多くは負傷者)をどう扱うか関東軍は苦慮したが、「寛大なる方針をとるつもりだった」ところへ、9月30日付で陸相より、捕虜はすべて犯罪者とみなし捜査して、「有罪と認めたるものは総て之を起訴すべし」(陸満密854号)というきびしい方針が示達された。起案は兵務局兵務課だが、関係者の回想では発想は局長レベル以上からの天下りだったらしい。〉(『明と暗のノモンハン戦史』p.388)   対象者のうち、下士官兵については、軍法会議で有罪になった者は教化隊で服役させ、不起訴か無罪となった者も陸軍懲罰令により懲戒。処分終了後は「日本以外の地に於て生活しうる如く斡旋す」と、細かい指示があった。  しかし、将校に対しては、容赦なく「自決」が勧告された。帰還捕虜の原田文男少佐と大徳直行中尉がその勧告に応じ、翌昭和15年5月に自決している。  〈関東軍や航空兵団には、何とか二人を助命したいという動きはあった。航空兵団参謀の三好中佐は上司の意を受けて同期生の原田へ、変名して一生家族とは連絡しないという条件で満州開拓団の幹部に入るよう説いたが、原田は断わり、ピストルを貸してくれと頼んだという。〉(同書p.389)  若い大徳のほうは「撃墜されて人事不省で捕虜になったのだから恥じる必要はない。再起してもう一度戦いたい」と抵抗したというが、こうした「当たり前」が通用しないのが当時の日本軍だった。先輩の原田が大徳の説得にあたり、ついには「大徳を射殺してから自分は自決する」とまで言って納得させた。  ほかにも、確認は困難だが、捕虜にされるのを恐れて自決した将校は少なくないという。  〈こうしたノモンハン人事の先例は、より無責任性と過酷度を高める方向で大東亜戦争期に引き継がれた。年功序列人事が厳として維持されるなかで、敗北や失敗の責任を問われた上級指揮官や実力派参謀が皆無に近かったのに対し、中下級指揮官や兵士たちは飢餓死や玉砕死を強いられたからである。〉(同書p.391)  結局、「敗北」の教訓は生かされないまま、この2年後、日本は米英との開戦に突入していくのである。  ※『明と暗のノモンハン戦史』学術文庫版では、巻末解説を現代史研究家の大木毅氏が執筆。著者・秦郁彦氏のインタビューは、〈ノモンハン事件とウクライナ戦争、80年を隔てた旧ソ連軍の共通点とは? 〉でぜひお読みください。

学術文庫&選書メチエ編集部