論語 衛霊公 子曰、「過而不改、是謂過矣。」

 

安延多計夫

 

3/13(水) 7:03現代ビジネス

旧日本海軍に高官による あまりに口汚い罵詈雑言の中身

太平洋戦争の記録をたどる上で決して無視できない文献に、防衛庁防衛研修所戦史室が著した『戦史叢書』(せんしそうしょ・全102巻、朝雲新聞社)がある。旧陸海軍の公式記録や当事者の証言をもとに書かれ、昭和41(1966)年から昭和55(1980)年にかけて刊行された本で、「公刊戦史」とも呼ばれる。これらの本の記述が、こんにち、旧日本陸海軍のいわば「正史」となっている。 ところが、戦史叢書をつぶさに読んでも、肝心なところが書かれていなかったり、ぼかした表現になっているところが散見される。  元防衛省防衛研究所主任研究官・柴田武彦氏によると、陸軍関係の記述は失敗への反省も含めて比較的正直に記されているのに対し、海軍関係の記述は、元高官から編纂官への圧力が非常に強く、書くべきことが書けなかったのだという。  自らへの批判を許さない旧海軍の「高官」による圧力の片鱗がうかがえる文章のやりとりが、海軍航空関係者の集いであった「海空会」の会報に残っていた。それはまるで、昨今のSNS上での誹謗中傷、罵詈雑言を思わせるものだった。

嘘と圧力まみれの台湾沖航空戦 太平洋戦争も終盤を迎えた昭和19(1944)年10月11日、台湾・新竹基地を発進した日本海軍の索敵機が台湾東方海域に敵機動部隊を発見、続いてさまざまな索敵情報が入ってきた。翌12日、台湾が米機動部隊を飛び立った艦上機による大空襲を受け、第二航空艦隊を主力とする日本側の航空部隊も総力をもってこの敵艦隊の攻撃に出撃。ここに「台湾沖航空戦」の火ぶたが切られた。  10月16日まで続いた5日間におよぶこの戦いで、日本側は敵空母10隻を撃沈、8隻を撃破したと報告、絶えて久しい「大戦果」に、大本営海軍部と連合艦隊司令部は戦勝ムードに湧きたった。だが16日になって、鹿屋基地を発進した索敵機が思いもよらなかった敵情を打電してくる。台湾の高雄東方海域を無傷で航行中の敵空母7隻、巡洋艦10数隻からなる機動部隊を発見したのだ。  正午前に届いたこの報告は、撃滅したはずの敵機動部隊が健在であることを示している。ここでようやく、連合艦隊司令部は戦果の再検証を始めた。

大勝利が一転 その結果、「確実な戦果は、空母4隻撃破程度」と判断が覆ったのは、18日午後のことである。戦果判定の多くは、薄暮から夜間の攻撃で、味方の飛行機が被弾、炎上するのを敵艦の火災と誤認したものと考えられた。  「台湾沖航空戦」で、日本側が約400機の飛行機を失ったのに対し、結局、撃沈した米軍艦艇は1隻もなく、8隻に損傷を与えただけだった。米軍の飛行機喪失は79機であった。  しかし、18日には戦果の判定が訂正されたにもかかわらず、大本営は19日18時、訂正前の大戦果にさらに脚色を加える形で、「空母撃沈11隻、撃破8隻」という虚偽の戦果発表を大々的に行っている。  今回は、そんな「台湾沖航空戦」にまつわる、現地部隊の元参謀と戦訓調査団の一員として台湾に居合わせた元海軍士官が、戦後30年も経ってから戦友会の会報上で繰り広げた諍(いさか)いについて紹介する。  ここでまず、登場人物を整理してみよう。主要登場人物は、安延多計夫(やすのぶ たけお)、冨士信夫(ふじのぶお)、須藤朔(すどうはじめ)の3名。ただ、冨士信夫については、この件には「巻き込まれただけ」の印象が強い。

大空を舞った三人の軌跡 安延多計夫は明治35(1902)年、岡山県生まれ、海軍兵学校を五十一期生として大正12(1923)年に卒業。台湾の高雄警備府参謀として終戦を迎え、戦後は特攻隊関連の書籍を中心にさまざまな戦記を世に出した。昭和47年、少年向けに出版された秋田書店の『写真で見る太平洋戦争6 神風特攻隊』も執筆しているから、現在60代以上の男性にはおそらくなじみが深い名前である。昭和60(1985)年1月13日歿。  冨士信夫は大正6(1917)年、熊本県生まれ。海軍兵学校を六十五期生として昭和13(1938)年3月に卒業。台湾の第二十九航空戦隊参謀として終戦を迎えた。戦後は海軍省が名を変えた第二復員省、次いで厚生省引揚援護局などに勤務し、東京裁判のほとんどを傍聴。『私の見た東京裁判』(講談社学術文庫)をはじめ、多くの著作を世に残している。  平成17(2005)年1月24日死去。私は冨士とは晩年の数年間、毎年10月25日に営まれた海軍特攻隊の「神風忌」慰霊法要で会ったことがあり、冨士が遺した資料の一部を引き継いでいる。  須藤朔は大正4(1915)年、東京生まれ。年齢は冨士より上だが海軍兵学校は一期後輩で、六十六期生として昭和13年9月に卒業した。陸上攻撃機の搭乗員となり、鹿屋海軍航空隊雷撃隊の一員として昭和16(1941)年12月10日、飛行機が航行中の戦艦(英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」の2隻)を撃沈した世界初の例となった「マレー沖海戦」に参加。  その後も多くの出撃を重ねるが、昭和17年2月15日、スマトラ島沖の敵艦を爆撃中に対空砲火の断片を浴び、右眼を失明。そのため第一線を退いたものの、横須賀海軍航空隊でレーダー、磁気探知機の研究などに従事した。昭和57(1982)年3月10日死去。  そして「諍い」の舞台は、海軍航空関係者の集いであった「海空会」の会報「海空時報」である。海空会は昭和34(1959)年に結成された、いわゆる戦友会としては伝統ある団体で、当初は存命だった元将官クラスも会員に名を連ねていた。

名指しの批判で会報に激怒 会員の親睦と戦没者慰霊碑建立などへの援助のほか、会報「海空時報」を年に1~2回発行。さらに「海軍空中勤務者(士官)名簿」や「海軍航空史年表」、単行本『海鷲の航跡』(1982年・原書房)など貴重な資料を発刊している。平成に入ると会員の高齢化により活動が徐々に下火になり、平成15(2003)年、「海空時報」第66号の発行を最後に解散した。  さて、そもそものトラブルの発端は、須藤朔が昭和49(1974)年に著した『マレー沖海戦』(白金書房)という単行本の記述である。  全222ページのこの本、須藤は大半をマレー沖海戦の記述に費やしているが、巻末の34ページは「戦後に想う」と題し、自らが体験した戦争の反省について述べている。そこに書かれた「台湾沖航空戦」にまつわる司令部批判が、「Y大佐」と伏字ながらも名指しされた形の安延多計夫の逆鱗に触れたのだ。  安延は、昭和50年9月1日に発行された「海空時報」12号に、冨士信夫と連名で  〈『マレー沖海戦』中の記事に対し著者須藤朔氏に抗議し且つ質問する〉  と題する8000字に近い長文を寄稿した。以下、漢字や仮名遣いを若干修正した上で要点を紹介する。

須藤氏への抗議文 〈須藤朔氏は、その著書『マレー沖海戦』(白金書房昭和49年8月1日発行、1刷)の188ページ以降に「戦後に想う」と題して私見を述べている。その中で195ページから204ページにかけ「指揮官」という見出しの下に、台湾沖航空戦当時のことを書いているが、文中197頁後から5行目に、「この司令部には珍しく、幕僚に2人の飛行科士官がいた。先任参謀Y大佐と航空参謀F大尉だったが、云々」との記述がある。  台湾沖航空戦当時、台湾新竹基地にいた航空戦隊は、城島高次少将を司令官とする第二十一航空戦隊だけであり、同航空戦隊の先任参謀は安延多計夫、航空参謀は冨士信夫であった。したがって、須藤氏が同書中で、たとえ伏字で書いていても、Y大佐とは安延多計夫を、F大尉とは冨士信夫を指していることは明らかであり、海軍航空関係者ならばこの伏字を容易に判読し得る。この点については須藤氏も、敢えて否定しないと思うが如何。  私たちは、須藤氏が同書の中で、台湾沖航空戦当時の新竹基地の状況について書いていることに関して、どうしても納得し得ないものであるのみならず、その不当な誹謗、侮辱的記事に対して激怒を感ずるものである。よって煩を厭わず、次に問題の点を引用する。  『昭和19年10月中旬の台湾沖航空戦当時、筆者(須藤)は戦訓調査委員の一人として台湾の新竹の基地にいたが、九州、沖縄、台湾あるいはルソン島などの基地から出撃して、米艦隊を攻撃し終わった攻撃機や爆撃機が燃料補給のため続々とこの基地に着陸してきた。  所在航空戦隊の戦闘指揮所で聞いていると、搭乗員が「米空母に爆弾一発命中、飛行甲板が二つに裂けて沈没するのを確認しました」などと景気の良い報告をしていた。

『若者たちを犬死させた』 おどろいたことに、航空戦隊司令部は、これらの報告を真にうけてか、はらのなかでは疑問に思っていたのかもしれないが、「ご苦労だった。敵機動部隊は壊滅状態にある。これから追撃戦を行う」と、着陸した飛行機に、つぎつぎと爆弾、魚雷、燃料を搭載させて。ふたたび攻撃に発進させた。  この航空戦隊には珍しく、二人の飛行科士官がいた。先任参謀Y大佐と航空参謀F大尉だったが、二人とものぼせ上がっているのか、やっていることが飛行科士官の常識からかけはなれていた。  攻撃には、できるだけ多数機を集中することが原則であるのに、彼らは爆弾、魚雷、燃料を積み終わった機を、つぎつぎと、ばらばらに発進させていた。  この司令部の指揮下に属さない飛行機が多かったが、それでも「攻撃、出発します」と素直に出撃してゆく若者たちをみていた筆者のはらのなかは、「この三等司令部め! これではむざむざこの若者たちを犬死にさせにやるだけではないか」と怒りに燃え煮えくり返っていた。  このときほど、意見を述べる立場にないわが身が情けなく、悔しく感じたことはない。  (中略)  少しでも戦果を挙げ得るような攻撃計画を立て、部下の犬死にをさけるよう配慮するのが司令部の仕事のはずだが、この司令部には、そんな配慮は全然見られなかった。  先任参謀のY大佐は旧式機時代の飛行機乗りだったし、F航空参謀は艦攻出身といっても病弱で飛行機での実戦経験のなかったことが、この不手際の原因になったのではないか。』〉

須藤氏の作文を罵倒 安延は、この須藤の本の記述に、著者に直接苦情を言うのではなく、「海空時報」という、いわば本とは無関係の公開の場所で噛みついてきたのだ。  事実を言えば、安延は確かに飛行機乗りではあったが、搭乗員としてのキャリアは支那事変初期に空母「加賀」飛行隊長を務めたところで終わっている。「旧式機時代の飛行機乗り」と須藤が書いたのは、本人には不愉快だろうが間違いではない。  また冨士は、艦上爆撃機の搭乗員(須藤が「艦攻出身」と書いたのは、海空会編「海軍空中勤務者(士官)名簿」の誤記によるもの)で、開戦直前の昭和16(1941)年、病を患い長い療養生活を送ったことからキャリアのほとんどを練習航空隊の教官や司令部副官、参謀として過ごし、実戦経験がないのは、これまた須藤が書いた通りである。  さて、安延、冨士連名の抗議文だが、私は晩年の冨士信夫を知っていて、その温厚な人柄に触れているし、手紙のやりとりもしたことがあるが全く文体が違う。連名にはなっているが、これを書いたのが「三等司令部」呼ばわりで大先輩の威信を傷つけられた安延であることは、「冨士」が三人称で出てくる文脈からも明らかである。ふたたび引用--。  〈右引用の記事は、私どもにとって実に意外であり、私どもはこのような記憶の片鱗さえも持ち合わせていない。しかも須藤氏の作文(あえて作文という)は、戦場で戦った幕僚として、実に聞くに耐えない侮辱の言葉で綴られている。  須藤氏は何の目的のために、こんな思いつきの作文を書いたのか、諒解に苦しむとともに同氏に対し心底から怒りを感ずるものである。いかに言論の自由な時代とは言え、事実無根の記事を連ねた悪意に満ちた作文を公表し、個人の名誉を毀損するがごとき行為が許されるのであろうか。

『須藤氏は本当に新竹基地にいたのか』 私たちは、須藤氏の非礼な行為を黙殺するほど寛容ではない。私たちの名誉を守るために、以下順を追って、事実を以て反駁し、事の真相を明らかにしたい。  1.貴方は何月何日から何月何日まで新竹にいたのか。私たちは台湾沖航空戦全期間、新竹基地にいたが、貴方に会った記憶はない。冨士は海兵で貴方と1年間一緒であった関係上、貴方の顔はよく覚えている。もし貴方が新竹基地に来たのなら旧交を温め合ったはずだが、冨士にそのような記憶は全くない。  2.貴方は何の戦訓調査員として台湾に出張してきたのか。当時台湾で、戦訓調査の対象になるような出来事があった記憶はない。戦訓調査員として派遣されたのならば履歴書副本(海軍の公的な履歴書)に書かれている筈である。これは貴方が台湾沖航空戦当時新竹にいたかを公式に決定するキーポイントであるので、貴方の履歴書副本の内容を私どもに公開されたい。  3.貴方の記述は、貴方が当時新竹基地にいなかった方の公算がきわめて大きいので、もはや何の権威もない人間の戯言に過ぎないが、公刊文書に記載されている以上、一応反駁する必要がある。  貴方が見た状況は一体何月何日何時頃の状況か。台湾沖航空戦の期間中に、何機かの飛行機が攻撃終了後新竹基地に着陸し、補給後再び飛び立っていったことは否定しないが、貴方が書いているような状況が新竹基地で現出した記憶は全然ない。  更に私たちは、現在最も正確な戦史と公認されている防衛庁戦史室編纂の『戦史叢書』捷号作戦の台湾沖航空戦の項について詳細に調査したが、貴方の記事のようなことはどこにも書かれていなかった。  フィクションにしても、ずいぶん酷いことを書いたものだ。貴方は「この三等司令部め!」という表現により我々2人を罵倒したつもりらしいが、「司令部」という場合はその司令部の長を含むものであり、司令部批判は、司令官あるいは司令長官批判となるのは常識である。貴台は第二十一航空戦隊司令官・城島高次少将は、のぼせ上った参謀の常識外れの進言を、鵜呑みにして命令を下すような無能な司令官であったというのか。〉

『今後一切書くのをやめろ』……そして、須藤の「三等司令部」批判に対する批判はさらに延々と続き、しまいには、須藤は妄想を現実のごとく信じてしまう「思考錯誤症状」の傾向があるのではないかとまで言い、もしそうだとすれば、  〈病人である貴方の記事に対して、若干の寛容もないではないが〉  と病人扱いした上で、  〈今後一切書くのをやめなさい、と勧告する〉  と書いている。  ここまで詳細な弁明を求めておきながら「今後一切書くのをやめろ」とはこれいかに。文章が長くなるほど、質問なのか糾弾なのか、侮辱の意趣返しなのかが曖昧になり、要旨が支離滅裂になってくる。昨今のSNSでも、他人を罵るときにしばしば目にするような話法である。  おそらく、海軍で15年も後輩の若輩士官だった須藤(だが須藤の方が実戦経験は豊富である)に、「三等司令部」呼ばわりされたことで頭に血が上り、安延は書いているうちにだんだん腹が立って制御がきかなくなったのではないか。ちなみにこの抗議文の当時、安延73歳、須藤60歳、冨士58歳である。  それに対し、須藤は、次の「海空時報」第13号(昭和51年3月1日)で、「拙著『マレー沖海戦』にかかわる質問への回答」と題して、  〈本誌前号に掲載された安延多計夫氏の頭書の疑問に答える。〉  と、約1400字の簡潔な文章で、昭和19年9月、「横須賀海軍航空隊附兼教官」の立場のまま「第二航空艦隊司令部附」を兼任する辞令が出て、10月、フィリピンに出張を命じられた記載のある自らの履歴書副本を公開し、戦訓調査団としてフィリピンに赴く途中、台湾・新竹にいたことを証明した。また、新竹で二手に分かれた戦訓調査団のうち、自らが属した一組の動きを、同行者の名前も挙げて詳細に述べている。

 証拠を提示され沈黙 さらに、台湾沖航空戦の戦果発表が全くの事実無根だったのは周知の事実であることを指摘した上で、  〈要するに小生は小説を書いたことはまだない。新竹基地で目撃した情景に関する記述は、他から入手した情報ではなく、強烈な印象だったので現在でもはっきりと瞼に焼きついたままでいる。このような形で安延氏に答えることになったのは、小生の本意ではない。同氏がもっと精密に調査されたら、また直接に質問を寄せられたら、こんなことにはならなかった。もともと拙著中のY大佐を安延氏と気づいた読者は千人に一人もいなかったであろう。公開で論争するような問題ではなかったと思う。  海軍の恥部に触れた著述には、色々と意見があることは覚悟しているが、真実を後世に伝えることは必要であり、それは部内者のやるべきものと考え、敢えて取り組んでいる次第である。〉  と、一歩も引かない構えである。安延も、須藤から戦訓調査団にいた証拠を突きつけられては事実関係は争えない。須藤を病人扱いまでして新竹基地にいたことを否定した安延としては、振り上げた拳で自分の頭を殴るような形になってしまったのではないか。  須藤の反論が掲載された次の「海空時報」第14号(昭和51年9月1日)に、「会員のおたより」として、吉岡忠一・元中佐が、  〈会員の意見の異なる点は挙げぬようなるべく穏便におねがいします。大変悲しいことです。〉  と投稿、さらに「海空時報」第15号(昭和52年3月1日)で、今川福雄・元大佐が、同じく「会員のおたより」で、  〈吉岡君が「なるべく穏便にお願いします」と意味深長なことをおっしゃっていますね。私も同感です。海空会は史実の糾弾が目的ではないので、投書がありましても必ずのせなくてはならないものではないでしょう。〉  と述べるなど、安延、須藤の論争に嫌気がさした会員の投書があり、「海空時報」では以後、この話題を掲載することはなくなった。

戦後も変わらな海軍の体質「海空時報」の編集責任者は壹岐春記・元少佐(海軍兵学校六十二期)。須藤朔と同じ鹿屋海軍航空隊の分隊長としてマレー沖海戦に参加、海軍有数の歴戦の陸攻搭乗員だったが、海軍の大先輩にあたる安延に寄稿文を「載せろ」と言われれば載せざるを得なかったのだろう。旧軍の集いのなかでは当時の階級や年次がそのまま生きていたので、吉岡と今川の「おたより」の投稿は、仲裁であると同時に、編集責任者の壹岐に対する掩護射撃だったのではないか。  吉岡忠一は、真珠湾攻撃のときの第一航空艦隊(機動部隊)航空参謀、今川福雄は海兵で安延より一期後輩だが艦載水上機搭乗員の草分けで、吉岡、今川ともに大戦末期の昭和20年、配下の航空戦力を失い、米軍に蹂躙されたフィリピンで陸上戦闘を指揮、奇跡的に生還した経歴を持つ(今川大佐は第九五五海軍航空隊司令、吉岡中佐は第二十六航空戦隊先任参謀)。台湾の高雄警備府参謀として終戦を迎えた安延は、フィリピンの最前線で辛酸をなめてきたこの両名に諫められては、これ以上、須藤を責めることはできなかったのではないだろうか。  もちろん、「三等司令部」などと書かれれば、当事者なら誰でも怒るだろう。須藤の書き方に全く問題がなかったとは言わないが、それでも戦場でじっさいに見て聞いて感じたことを率直に書き残してくれたほうが、後世の読者にとってありがたい。  事実、「台湾沖航空戦」は、「大戦果」の発表とは裏腹に日本側の決定的敗北だったわけで、安延の「抗議文」は、自らの保身のためのいわば「逆ギレ」としか見えない。海空会を巻き込んでの発表手段もふくめ、大人気ないと言われても仕方がないのではないだろうか。この例を見ると、『戦史叢書』の海軍側の記述が、「元高官による圧力」で書くべきことが書けなかったということの一端が、垣間見えるような気がする。

神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)

 

 

3/31(日) 7:03 現代ビジネス 神立 尚紀

「上に甘く下に厳しい海軍、乙事件、一空事件」

昭和19(1944)年2月17日、18日と、太平洋の日本海軍の拠点・トラック島は米海軍機動部隊の艦上機による大空襲を受け、壊滅状態に陥った。トラックを叩いた米機動部隊は、その余勢を駆ってマリアナ諸島のサイパン島、テニアン島に来襲。トラックは以後、敵のマリアナ来攻を阻止するための最前線という位置づけになる。3月29日から、トラックは米陸軍の大型爆撃機コンソリデーテッドB-24の激しい空襲を受けるようになり、ラバウルや西部ニューギニア戦線から駆り集められた零戦隊が邀撃戦を繰り広げた。  トラックが敵機の攻撃にさらされている間にも、戦況はめまぐるしく変化している。  連合艦隊がトラックに代わる新たな内南洋(日本が国際連盟によって統治を委託されていた西太平洋の赤道付近に広がる島々。現在の北マリアナ諸島、パラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦)の拠点としたパラオは、昭和19年3月30日、31日と、敵艦上機による大規模な波状攻撃を受けた。  前日、索敵機による敵機動部隊発見の報告を受け、旗艦「武蔵」以下、連合艦隊遊撃部隊は洋上に退避して危うく難を逃れたが、出港準備の遅れたその他の艦船は34隻が撃沈され、あるいは損傷を負った。  パラオにいた第二〇一海軍航空隊の零戦20機、第五〇一海軍航空隊の零戦12機も敵の第一波空襲でほとんど全滅し、サイパンから応援に駆けつけた二六一空、二六三空零戦隊57機も、空戦と敵機の爆撃により全機を失った。パラオに敵上陸の兆しがあると判断した連合艦隊は、司令部を旗艦「武蔵」から日本海軍基地のあるフィリピン・ミンダナオ島のダバオに移動させることを決め、31日夜、司令長官・古賀峯一大将、参謀長・福留繁中将以下の幕僚、司令部職員は、2機の二式大型飛行艇(二式大艇)に分乗し、あわただしくパラオを脱出した。それは、「逃げた」と言われてもおかしくないような素早さだった。だが2機の二式大艇は離水から1時間後、巨大な積乱雲に行く手を阻まれ、離れ離れになってしまう。やがて福留参謀長以下、司令部職員11名と搭乗員10名の乗った二番機はフィリピン・ミンダナオ島の北東端の陸地を発見。燃料の都合でセブ島に向かうが、機長が高度を見誤り、機体は着水に失敗、高度50メートルから墜落して海面に激突、炎上した。福留参謀長ら13名は海に放り出されたが、幕僚ら8名は機体とともに海中に没した。  海に投げ出された13名のうち1名は岸に泳ぎ着き、海軍部隊との連絡に成功。3名は力尽きて海に沈んだが、福留中将と作戦参謀・山本祐二中佐を含む9名は抗日ゲリラの舟に救助される。岸に着くと彼らは後ろ手に縛られ、米軍中佐のいる山中の司令部へ連行され捕虜になった。たまたまこのことを知らずにゲリラ討伐に来た日本陸軍独立混成第三十一旅団の大西精一中佐が率いる大隊が、4月12日に福留一行を救出した。  古賀長官の搭乗した一番機はそのまま消息を絶ち、以後80年、こんにちに至るまで機体の痕跡は見つかっていない。古賀は「殉職」したものと認定され、連合艦隊の指揮権は一時、南西方面艦隊司令長官・高須四郎大将が継承したが、5月3日、豊田副武大将が正式に古賀の後任の連合艦隊司令長官として親補された。

この事件は、古賀大将の前任の連合艦隊司令長官である山本五十六大将が戦死した「海軍甲事件」に続き、「海軍乙事件」と呼ばれる。  連合艦隊司令長官が行方不明になり、参謀長が敵に捕らえられたことを知った日本海軍の上層部、すなわち海軍省や軍令部は愕然としたという。「中将」という高位の軍人が捕虜になったことは前代未聞である。しかも同乗していた幕僚は、今後の海軍の作戦計画を詳細に記した、3月8日に作成されたばかりのZ作戦計画書や暗号書、司令部用信号書を携行している。これら最高機密である重要書類がもし敵に奪われれば、日本海軍の手の内がすべて敵に知られることになるからだ。  ゲリラ部隊の指揮官は、もとは鉱山技師としてセブ島で働いていたメキシコ生まれのアメリカ人、ジェームズ・M・クッシング(James M.Cushing)である。米政府は彼を陸軍中佐に任じ、抗日ゲリラを率いさせた。だからここのゲリラは米軍の指揮下にあったとみてよい。日本軍も「ゲリラ」とは呼ばず「米匪軍」あるいは「米匪賊」と呼んでいた。  福留は、ゲリラに対して偽名(セブ島ゲリラの戦記『タブナン』には「Admiral Furomei」と書かれている)を名乗っていたが、クッシングは彼を相当な大物とみて、オーストラリアのブリスベンにあった連合軍南西太平洋方面軍総司令官ダグラス・マッカーサー大将にその取扱いの指示を仰ぐとともに、「日本の暗号システムらしきものの入った重要書類ケースを押収した」ことを無線で報告している。いっぽう、クッシングは福留らに対しては機密書類についての訊問をしなかったという。福留らに「鞄に入っていたのが重要機密書類だと気づいていない」と思わせるための芝居である。 マッカーサーからの返電を待つ間にクッシングのゲリラ部隊は日本陸軍の大西大隊に完全に包囲され、全滅の危機に瀕した。そのため、クッシングは参謀長機の機長・岡村松太郎中尉を軍使に立て、囲みを解くことを条件に捕虜全員を日本側に引き渡した。その晩になって、マッカーサーよりクッシング宛てに、「捕虜をネグロス島のトロングに連行し、同地に向け急行している米潜水艦に引き渡せ」との指令が届く。それを見たクッシングは星空のもとで号泣したという。その後、ドイツ人捕虜1名とフィリピンに潜入していた米軍中尉2名とともに、日本海軍の最高機密書類の入った鞄はネグロス島から潜水艦でブリスベンに運ばれた。  マッカーサーは日本語に堪能な日系二世の翻訳班にこれを訳させ、ハワイの米太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に送った。ところが、海軍用語がふんだんに使われている文書を陸軍部隊が翻訳したものだから意味が通じず、ニミッツは改めてブリスベンから原文のコピーを取り寄せ、海軍の翻訳班に訳させてようやく理解できたという。ニミッツはこれを、指揮下の各海軍部隊に配布した。  マッカーサーは、作戦計画や暗号書が米軍の手に渡ったと知れば、日本海軍は暗号を急いで変更するだろうからと、翻訳のすんだ機密書類をもとの鞄に戻して、わざわざ潜水艦で福留機が墜落した海面まで運び、海に流した。こうして、その後の日本海軍の動きは米軍に予測され、先手、先手を打たれて敗北を重ねることになる。  中将の参謀長と中佐の参謀がゲリラの捕虜になった事態への対応に、海軍上層部は苦慮した。海軍は「戦陣訓」など関係ないから、捕虜になったからといって自決しなければならないという決まりも不文律もない。だが、不名誉であることには違いない。当時の国民感情から言っても、できれば公にしたくない出来事である。  東京に送還された福留中将と山本中佐は海軍省、軍令部から事情聴取ののち軟禁された。自決することを期待して、軍刀も拳銃も取り上げられなかったという。しかし2人は自決しなかった。  本来ならば捕虜になった者は海軍の「俘虜査問会規定」により査問にふされ、軍法会議にかけられるなどの処分を決定されなければならない。ましてや、軍の最高機密まで敵に奪われたとすれば、その罪は重い。しかし福留一行は、機密書類を奪われたことについて最後まで口を割らなかった。  2人の処置に窮した海軍上層部がとりまとめた、「乙事件関係者ニ対スル処置ノ件(昭和十九年四月二十四日人事局長通牒)」という文書がある。まわりくどく矛盾に満ちた悪文で、そのまま引用するとややこしいので要約すると、その要旨は、  「福留中将一行を捕えたのは敵の正規軍ではなくゲリラであるから、捕虜にはあたらない。ゲリラに囚われた9名全員を不問に付し、査問にもかけない」  ということだった。ゲリラとはいえ米陸軍中佐が指揮する敵の軍事組織に捕まって「捕虜にはあたらない」というのは、奇妙な理屈というほかない。海軍は、福留一行を軍法会議にかけることも予備役に編入することもしなかった。それどころか、司令部の失態を糊塗するかのように、6月15日付で、福留を新編された基地航空部隊・第二航空艦隊司令長官の要職に栄転させたのである。「艦隊司令長官」は、天皇が自ら任命する「親補職」だ。福留を栄職につければ、まさか捕虜になったとは思われまいという、常識を逆手に取った姑息な迷案だった。これでは海軍の体面を汚すことを恐れるあまり、捕虜になった事実を隠蔽して天皇をも騙したことになる。ひとつ嘘をつくと、辻褄を合わせるために次々と嘘の上塗りをしなければならない。福留としても、こうなっては海軍が天皇と世間を欺いた嘘に乗るしかなかっただろう。このとき、海軍大臣と軍令部総長を兼務していたのは、のちに極東国際軍事裁判でA級戦犯に指定され、無期懲役の判決を受ける嶋田繁太郎大将である。  第二航空艦隊司令長官となった福留はその後、敵機動部隊撃滅の「大虚報」を生み大敗を喫した台湾沖航空戦を経て、フィリピンでは第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将とともに特攻作戦を指揮する立場になった。捕虜になった前歴を隠して、前途有為な若者を次々と死地に送り込んだのだ。私がインタビューを重ねた生き残り特攻隊員(敵艦と遭遇できず生還した人たち)のなかには、大西中将、福留中将の二人に見送られて出撃したことのある人が何人かいたが、皆、  「出撃前の整列のとき、大西中将は特攻隊員一人一人の手をしっかりと握り、じっと目を見て『頼んだぞ』と言う。その握手には心がこもっていた。しかし福留中将の握手はおざなりで、隊員と目も合わさなかった」  と、口をそろえるように回想していた。戦争が終わったとき、大西は若者たちを特攻で死なせたことを謝罪し、世界平和を祈念する遺書を遺して自決したが、福留はこのときも自決しなかった。シンガポールで終戦を迎え、英軍の戦犯として禁固3年の判決を受け、出所後はさまざまな批判を浴びながらも旧海軍の「長老」の一人として元海軍士官、海上自衛隊の親睦団体である「水交会」理事長や記念艦「三笠」保存会理事、防衛庁顧問などの名誉職に就任。昭和26(1951)年、日本出版協同から『海軍の反省』、昭和46(1971)年には時事通信社より『海軍生活四十年』などの著書を出版している。  『海軍生活四十年』が刊行された頃には、「海軍乙事件」で重要書類を奪われ、これが米軍の作戦に役立ったことは、すでに旧海軍関係者の間で周知の事実だった。それでも福留は同書のなかで、  〈そんなことは絶対にあり得ない。飛行艇は五十メートルの高さから墜落し、たちまち猛烈な炎を上げて一晩中燃えていた。(中略)命からがら助け上げられた私達がそんな書類など持って上がるはずはない。明らかに誰かが為にする作為に違いない〉  と、あくまでも白(しら)を切り通した。昭和46(1971)年2月6日死去、享年80。  福留とともにゲリラの捕虜となった作戦参謀・山本祐二中佐は、昭和19年5月1日付で大佐に昇進、8月には第二艦隊参謀になり、昭和20年4月7日、戦艦大和が米軍機に撃沈されたさいに戦死した。享年42。捕虜になって「栄転」した福留の処遇と対照的なのが、開戦後ほどなく、九六式陸上攻撃機で台湾からフィリピンの米軍基地爆撃に出撃した陸攻搭乗員たちに対する処遇である。  昭和16年12月12日、クラーク飛行場爆撃に出撃した第一航空隊の九六式陸上攻撃機36機は、目標上空が密雲に閉ざされていたため二手に分かれ、一隊は別の目標に向かい、もう一隊は雲の下まで降下して300メートルの低高度から米軍飛行場を爆撃した。  このとき、低高度爆撃をしたうちの1機が対空砲火に被弾し、アラヤット山のふもとに不時着した。搭乗員は下士官兵ばかりで機長・原田武夫一飛曹以下8名。主操縦員・原田一飛曹、副操縦員・徳田英利一飛(一等飛行兵)、偵察員・白井嘉孝二飛曹、西田利穂一飛、電信員・首藤勘市三飛曹、渡辺禎銀一飛、搭乗整備員・清野五郎二整曹、三浦浅吉二整曹。防衛省防衛研究所に残る「第一航空隊戦闘行動調書」には、この日の被害「不時着1」と記録されている。  だが、彼らは生きていた。  それ以前の支那事変のときは、もし不時着して中華民国軍や共産匪に捕らわれたら、拷問を受け、生きたまま手足を切断されたり眼をつぶされたりしてなぶり殺しにされると言われていた。そのため、被弾して帰投不能と判断したら敵陣に自爆するのが不文律となっていて、搭乗員はいざというときの自決用に拳銃も携行した。しかし、いざ対米英戦が始まる段になると、自爆や自決はせずに友軍の救出を待て、という考え方が提唱されるようになった。長期の消耗戦が予想される上に、一人前の搭乗員を養成するには何年もの時間と莫大な国家予算がかかるからである。真珠湾攻撃でも、結果的に救出された例はなかったが、被弾機が不時着する島が定められ、待機した潜水艦が救助にあたる計画だったし、フィリピンや東南アジアの場合、攻撃目標はいずれ日本軍が占領する予定だったから、「生きて救出を待つ」ことには合理性があった。  開戦時、第一航空隊が属する第十一航空艦隊参謀長だった大西瀧治郎少将(当時)は、指揮下の航空隊を通じて全搭乗員に対し、  「不幸にして被弾し、飛行不能に陥っても決して自爆などしてはならぬ。生き抜いて上陸してくる友軍に合流し、原隊に戻って再度のご奉公をするように」  という趣旨の指示を伝えた。これは私がかつてインタビューした何人もの関係者の回想が一致することから間違いないと思われる。原田一飛曹機は、大西参謀長の言葉どおり死に急ぐことなく不時着したのだ。原田機の搭乗員8名は山中でフィリピン人に捕えられてマニラに送られ、アメリカ人とおぼしき人物から訊問を受けたが、やがて上陸してきた日本陸軍部隊に救出された。

――ここまでの経緯は、のちに福留中将一行が捕虜になり、友軍に救出されたのと大差ない。しかし、原田機の8名にくだされた処断は、のちの福留中将とは全くちがう過酷なものだった。昭和17(1942)年1月8日、台湾に戻った彼らは身柄をフィリピンのダバオに進出していた十一航艦司令部に送られ、航空艦隊、航空戦隊、航空隊の幹部から訊問を受けた。原田たちの処遇について、大西参謀長は不問に付すことを主張したと伝えられるが、結局、判断は十一航艦司令長官・塚原二四三(にしぞう)中将に委ねられた。塚原中将がくだした決定は、  「原田機の搭乗員が捕虜になった件については外部に漏らさず、艦隊内部で処理する。攻撃に参加させ、名誉回復の機会を与え、最後には自爆させる」  というものだった。  原田機はその後、オーストラリアのダーウィン空襲、チモール島クーパン爆撃、さらにラバウルに進出して東部ニューギニアの連合軍拠点であるポートモレスビー空襲などに参加。出撃するときは敵戦闘機にもっとも狙われやすい編隊の最後尾機となるのが常だったが、その都度、不死身のように生還する。だが、原田機がなかなか自爆しないことに業を煮やした一空飛行長・松本眞實少佐は、3月31日、ニューギニアのラエ基地で、原田機に最後の命令を下した。  「単機で敵陣地を爆撃、戦果を確認し、敵高角砲陣地に自爆せよ」  というものである。3月31日、ただ1機でスタンレー山脈を越え、ポートモレスビーに飛んだ原田機は、一空本部に「爆撃終了、全弾命中」「ワレ今ヨリ自爆セントス 天候晴レ」と電文を発したのを最後に連絡が途絶えた。この原田機の悲劇は「一空事件」とも「原田機事件」とも呼ばれ、南方作戦に従事していた航空隊員の間ではよく知られた話だったが、内々に処理されたために、公文書である「一空戦闘行動調書」には、「爆撃終了ノ電ヲ発信セルママ〇(一字不明)後消息ヲ絶テリ」と記されているのみである。「海軍乙事件」が起こったのは、原田機が自爆させられた日から奇しくもちょうど2年後のことだった。  海軍は、敵地上空で勇敢に戦った末に捕虜になった一空の「下士官兵搭乗員」に対しては、その事実を隠蔽するため、きわめて陰湿な方法で存在を抹消した。それなのに、のちに敵上陸を恐れてパラオを逃げ出した挙句に捕虜になった「連合艦隊参謀長」については、不問に付したばかりか、捕虜になった事実を隠匿するために栄転までさせた。  「上には甘く、下に厳しい」旧海軍のこの体質は、80年後の現代にも、さまざまな組織のなかでしつこく生き続けているのではないだろうか。

神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)

 

 

 

現代ビジネス6/10(月) 神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)

命じておいて信号文も知らない責任逃れな責任逃れな言い訳

 

第4航空団司令  1966.7.1 - 1967.7.31 海兵66期 黒田 信 (都間信)

前職航空幕僚監部人事教育部副部長 後職事故のため殉職

 

 

ミッドウェー海戦

五番索敵線を飛んだ「筑摩」一号機(機長・都間(つま)信大尉)の失態である。同機は甘利機より先に、敵機動部隊のちょうど上空を通過しながら、雲の上を飛行していて発見できず、しかも敵艦上爆撃機と遭遇しながら報告もせず、索敵機としての任務をいわば放棄していたのである。  吉野は、  「雲の上を飛んで索敵機の任務が果たせるはずがない。雲が多くて面倒だからと雲の上をただ飛んで帰ってくるなんて信じられないことで、言語道断です。本人は生きて帰って、戦後自衛隊に入り、そのことをしゃあしゃあと人に語っていたのですから、開いた口がふさがりませんね」  と容赦ない。甘利機に続いて敵艦隊との触接に成功した「利根」三号機(九五式水偵)、「筑摩」五号機(零式水偵)は、ともに未帰還となっているだけに、都間大尉のとった行動は、悪く言えば、海軍刑法で重罪に値する「敵前逃亡」ととられても仕方のないものだった。