チェスターニミッツ 太平洋海戦史 参照

 

 

ある頚動脉を切断し、その結果引き続き日本を降伏にまで追い詰め飢えさせよ、というものであった。米潜水艦部隊は、こうして初期の数か月間は不運と粗悪な装備によってつまずいたが、最後の勝利への貢献において他のいかなる部門にも第一位を譲るものではなかった。米潜水艦部隊の抜群の功績は、単に優秀な指揮や乗員の熟練、技量からだけうまれたものではない。常に適切に指導されるが、さらに実践の体験や戦争の変貌しつつある性格に照らして、随時改善を加えていくという充分柔軟性を持った健全な戦法の採用があったればこそである。一方、日本海軍の勇敢で、よく訓練された潜水艦乗員は、一つの偏向した方針および近視眼的な最高統帥部によって、徹頭徹尾無益に消耗され、また実力発揮を妨げられたように見受けられる。真珠湾攻撃は、実際には空母機によって口火をきられたのではなくて、湾内への突破侵入を企てた特殊潜航艇によるものであったという事実は案外忘れ去られている。記述のとおり、その一隻は最初の航空攻撃の七十分以前に、米駆逐艦によって撃沈されたのである。五隻で編成されたこの特別攻撃隊は、二十七隻よりなる日本潜水艦部隊の一部として、特別に改装された伊号型潜水艦に分載されて現場近くまで運ばれた。この強力な潜水艦部隊は、偵察、空母部隊に対する情報通報ならびに港内脱出艦の襲撃を主任務としていた。日本豆潜隊の戦果は皆無に近いものであったが、その不首尾の攻撃は日本側の潜水艦用法の中心思想を示している。第一次世界大戦においてドイツのUボートがあげた戦果や、また第二次世界大戦の大西洋戦における連合軍船舶の大損害にもかかわらず、日本側は通商破壊兵力としての潜水艦の大きな価値を頑として認めようとはしなかったのである。日本側はただに連合国の船舶攻撃に対する潜水艦兵力の使用計画をもっていなかったばかりでなく、自国の商船隊を護送する計画もまた同様に持ち合わせていなかった。

 

日本潜水艦の用法 P383 米潜水艦のすばらしい成功と対比して、日本潜水艦のいかにも貧弱な実績は分析の必要があろう。

日本潜水艦は戦争末期に至るまでレーダーを装備しておらず、その水中探査装置はドイツのUボートのものよりはるかに劣っていて、対抗手段に対してほとんど役に立たないような代物であった。とはいえ、日本側の混乱と不振の由来は、主として最高統帥部の側における戦略的無定見に期すべきである。日本帝国海軍はその強力な潜水艦部隊を、連合軍の商船隊攻撃という正統作戦にけっして振り向けたことがなかった。日本戦争指導者たちが、近代戦のおける補給輸送部門の大切な地位を重視しようとしなかったことは明白である。ドイツ側が、貨物輸送船に対する武器として有効なものは潜水艦を措いて他にないことを指摘し、日本の水中艦隊を連合軍の商船隊攻撃の使用するよう再三再四口を酸っぱくして促したとき、日本側は判で捺したように、日本潜水艦は敵の軍艦攻撃にしか使わないのだとはねつけた。そこで、米潜水艦が日本の貨物船に対する絶え間ない攻撃によって、その戦争潜在力を涸渇させつつあった間、日本側は米艦隊がそれに依存していたき弱な油送船や貨物船には目も呉れず、警戒充分な艦隊ばかりを狙って潜水艦を繰り出した。

連合軍が飛び石戦法をとりはじめるや、絶望的になった日本は、波を血迷ったか次善の策である艦隊攻撃という目的さえ放棄してわき道にそれてしまった。孤立した守備隊に補給をするため、陸軍の主張によって、日本首脳部は潜水艦を貨物運搬船として使用しはじめた。日本の優秀な潜水艦も次第にこのようなとんでもない不当な任務を無理やり押し付けられるようになった。連合軍部隊はますます本国基地から絶えず増大する距離を行動し、かつだんだん日本側基地により近く作戦しつつあったにもかかわらず、日本潜水艦の活躍は向上するどころか確実に低下の一途を辿っていた。古今の戦争史において、主要な武器がその真の潜在威力を少しも把握理解されずに使用されたという稀有な例を求めるとすれば、それこそまさに日本潜水艦の場合である。

 

日本商船隊の攻撃

 

日本潜水艦の活動が不振に不振を重ねつつあった間に、米潜水艦は前述のようにますます多くの日本艦艇を片っ端から撃沈しつつあった。しかし戦争の経過中でもっとの注目すべきことは、日本が生き延びるための生命の糧を運んでいた貨物船に対する米潜水艦の偉業であった。日本の船舶問題は複雑深刻であったというのは、日本はその資源地帯における工業をもたず、また工業地帯は資源に恵まれていなかった。そこで日本は製造工程のためにいったん全原料を本国に持ち帰りそれから製品を戦時最終の消費者である海外戦場の部隊に配分しなければならなかった。以上の状況下に基本的に要求されたルートは二つであった。満州から鉄と石炭を日本海まは黄海を横断してくるものがその一つであるが、もっと重要なものは、台湾および琉球を経由して南方資源地帯から本土にやってくるルートであった。この二つが主要ルートであった限りでは、日本船舶は往復ともに積み荷をして航海することができたから万事好都合に運んだ。しかし、南方資源地帯における作戦行動が一段落を告げたとき、その方面における要求量はガタ落ちとなり、日本船舶の多数は一部の積荷か空荷のままで運航せざるを得なくなった。その上に、日本が南太平洋方面に作戦地域を広げた時、その方面には直接本国から別に多数の船腹を直送する必要を生じた。その主要ルートの一つは大阪からパラオに走り、他の一つは東京、横浜から小笠原諸島、サイパン、トラック、およびラバウル、やがてはソロモン諸島に向かうものであった。

ところが、この方面で荷揚げした船舶は空船のまま日本にもどる長途の航海に従事せざるを得なかった。日本当局は積荷船が南方資源地帯から日本に向かい積荷を卸した後、南太平洋向けの荷積みをやり、そこで軍需資材を引き渡し、それからその行程の繰り返しのために資源地帯に空荷で回航するという、三角形路線輸送をけっして確立しなかった。このやり方によれば、全航程の約三分の足らずだけが空船になるわけであるあるのに、現実に採用された貨物輸送が続く限りは、各船はその航海時間の約半分は空船であるかせいぜいわずかの積荷しか持っていなかったわけである。換言すれば日本の運航方式は本国を頂点とする逆V字形をとったわけであったが、これに反してデルタ型の方式によれば、利用可能の船腹のもっと効率のよい用法を招来できたにちがいない

このV形式に対する唯一の例外は、艦隊の前進部隊に対する重油補給路としてのバリクパパンからララオ、トラックおよびラバウルに至る副次的ルートであった。こうして日本船舶は必要以上に米潜水艦の攻撃に暴露されることになり、その輸送能力は10パーセント減少を見た。

日本軍の真珠湾攻撃数時間にして、日本船舶に対する無制限潜水艦戦の命令が出されたとき、国際公法に従って作戦行動をとるよう長い間訓練されていたアメリカの潜水艦乗員は、びっくり仰天した。それは伝統と絶縁することだったからである。回顧すれば、合衆国がそもそも第一次世界大戦に参戦した理由なるものが、実にドイツの無制限潜水艦戦の宣言に挑戦する行為であったらである。ワシントンからの命令の結果として、米軍の士官も兵員もその考え方を再調整しなければならなかった。その命令はあくまで現実に即したものであった。およそ近代総力戦においては、いわゆる戦時禁制品と非戦時禁制品との間にはもはや効果的な区別は存在しないというのである。一国の全船舶は戦争中には、重要任務を負うものであり、重要品目たる石油、鉄、ゴム、スズ、米および石炭を運ぶ日本の油送船や貨物船は、戦艦や空母と同様に戦争機械の一部分そのものであった。

 

1942年の四月まで日本船は船団を組まずに独航していた。しかしながら増大する損害に鑑み日本は制限された護送制度をとり、かつ7月には第一護衛艦隊を新設して台湾に司令部を置いた。護送制度は後日南支那海あるいは日本と台湾間の船団護衛に対する責任だけを持っていた。日本の護送船団(コンボイ)は一隻の旧式駆逐艦か小艦艇によって護衛されたわずか六隻から10隻の船団でなり立ち、北大西洋の大船団とは比べものにならない小規模のものであった。護送船団制度を日本が軽視した理由は、1916年後期および1930年代における英国の考え方とそっくりであった。第一に、日本は連合軍潜水艦部隊の潜在的脅威をなめていた。第二に彼らは船団護衛は防衛手段だとみなした。だいたい、日本の陸軍も海軍もいずれ劣らず攻勢一点張りであって、守勢作戦を軽蔑し切っていた。

連合軍側はこれと全く対照的に、船団の護衛なるものは敵の潜水艦を一掃する最上の好機を与えられる防勢と攻勢の双方である、という見解に立っていた。日本側が船団護衛作戦を守勢的だと信じていたので、作戦海面に進出途上の艦隊駆逐艦を護送艦として一時従事させることを、連合艦隊司令部が認めるはずはなかった。こんな任務を与えることは、一時的なものにせよ、海軍艦艇の基本任務と背馳するものだ、と連合艦隊は肩をそびやかした。そして、とにかく護衛艦艇は供給難に陥っていた。

けっきょくのところ、日本側がその船団護送組織を確立したときにさえ、当局はできるだけ独船方式の柔軟性を保持することに未練を残して大船団の周囲に一つの強力な攻勢的な警戒幕を張る利点を犠牲にした。この妥協は一隻だけの護衛艦を容易に回避できた攻撃潜水艦群をぼうえいするにせよ反撃するにせよ、どちらにとってもけっして有効なものとはいえなかった。もし、日本側が五隻か六隻の護衛艦を伴った30ないし50隻の大船団を編成していたとすれば、かれらは輸送能力の損失もなく、また護衛任務に割り当てられる艦艇の数の増加も必要とせずに、その船団にはより大きな安全性を与え得たに違いない。その上、これらの多数よりなる強力な護衛艦群は、攻撃潜水艦にとっては相手が一隻の場合に比べてはるかに危険な存在だったに相違ない。

日本がいよいよ1943年(昭和十八年)十一月に海上護衛総司令部の設置に踏み切って、相当の規模の護送制度の採用に乗り出したとき、米軍は反撃手段として狼群戦法に訴えた。しかも、日本側護送制度の各種の弱点にもかかわらず、独航船の撃沈率は船団内の損害よりも二倍半も多かったのである。その上、米海軍は哨戒、機雷、飛行機、あるいはその他の単一原因のいずれで失ったよりも多数の潜水艦を船団護衛艦によって撃沈されたのである。したがって、その結論は明白である。すなわち、もし日本側がもっと早くもっと効率的な護送制度を採用していたら日本はあるいは米潜水艦の攻撃武器としての有効性を大いに減殺していたかもしれない、ということである。

大部分の日本船舶は1943年末までに、形式はいろいろあるが、ある種の護衛艦の防護を受けるようになった。この日本船団の規模はたいして大きくなかったので、密接に結合された協同を充分に発揮し得る戦法の見地から、三隻以上で編成された狼群は米国側にはほとんどなかった。最初のころの狼群戦法は、護送船団の両側に一隻ずつ占位し、三隻目は落伍艦を仕止めるためにずっと後方に位置を占めた。しかし、右に左にせわしく運動する船団に対して、こんな配備地点を正しく保持することは非常に困難だったから、教令は適宜の地点に臨機応変に占位することを認めた。米潜水艦の指揮官たちは、水中攻撃についてはいずれも名人の域に達していた。彼らは至難の発射ーつまり目標の真ん前からと真後ろからの発射ーを含むあらゆる深度あらゆる方位からの、むろん昼夜の別のない攻撃をやって、相手を撃沈しつづけた。戦果の曲線はぐんぐんと上昇した。

日本の戦争機械の効率は、日本船特に致命的な油送船撃沈量の飛躍的増大につれ、ますます急激な低下を示した。フィリピン海海戦の直前における本国貯油量の欠乏のため、日本機動艦隊はタウイタウイに作戦基地を移さざるを得ないことになった実情を想起すべきである。海戦が終わって残存艦隊を率いて日本に帰投した小沢提督は、修理を行い弾薬の補給は終わったものの、またしても深刻な内地の燃料不足に直面せざるを得なかった。日本艦隊は分在させなければならなくなった。栗田提督は水上部隊の大部を南方地区に連れもどさざるを得なくなった。しかし、そこには油だけはありあまるほどあったが、修理施設および弾薬は皆無だった。こうして、日本帝国艦隊は、米軍がフィリピンに進攻し、レイテ湾海戦の最終的な大艦隊決戦に参加したときには、二つの広い地域に分離して補足sれたのであった。そのときにおいてすら、日本軍がもしおの空母群を単なる囮部隊として使う代わりに、強力な戦闘兵力として活用することができたとしたら、それは大きな寄与をしたかもしれない。しかし、その空母隊が無力で攻撃力がなかったということは、日本側は主として航空燃料の不如意のためにミッドウェー海戦に端を発したパイロットの消耗を埋め合わせ補充するための、充分な飛行士を訓練するにも事欠いたからであった。

かくして、米潜水艦は蘭印方面からの石油を運ぶ船舶を忍耐強く追跡して沈め、その撃沈数は110隻にも及んだ。そして日本の海上兵力を分割させ、その航空兵力を維持することを不可能にしてしまったのである。

 

むすび

 

日本商船隊崩壊の経過は、第46図のよって図表式にしめされているとおりである。米潜水艦部隊は500トン以上の商船1,113隻(確実)および65隻(不確実)を沈め、その総トン数は5,320,094グロストンに達している。その上に彼らは海軍艦艇201隻(確実)および13隻(不確実)をし止めたが、その総排水量トン数は577,626トンにのぼっている。以上の戦果をあげるために、米海軍は52隻の潜水艦を失ったが7隻以外は戦闘行為による損失であった。

 

1945年11月24日、ニミッツ提督は、再び指揮権交代のために潜水艦の狭い甲板の上に立ったのであるが、今回は、彼が長期にわたりまた見事にその重責をつとめあげた太平洋艦隊長官兼太平洋方面部隊指揮官の職をスプルアンス提督の双肩に譲り渡すためであった。今回はそこに、必ずや世界史における最大の艦隊指揮官としての感慨がしきりに去来するものがあったであろう。なぜならば、潜水艦「メンヘイデン」の狭い甲板よりももっと広々とした快適な大艦の甲板があたりにずらりとつらなっていたからである。このとき、米艦隊の潜水艦乗員なら誰でも、一人の偉大な指揮官がその統帥上の最後の公務を一隻の潜水艦上で熟慮の上とり行ったという事実の重大な意義を、心ゆくまで感得したにちがいないーそれこそ、遺憾なく達成された任務に対し、潜水艦乗員全員に対する彼の哀心からの敬意にほかならなかったのである。

 

戦争と石油 岩間敏

https://oilgas-info.jogmec.go.jp/_res/projects/default_project/_project_/pdf/0/662/200603_071a.pdf

米国のオレンジ作戦

米国は既に、日露戦争当時から対日 戦略を保有していた。明治37年(1904) 年4月、日露戦争の勃発(同年2月)に よりアジアの「バランス・オブ・パワ ー」が変化しつつあるのを考慮し、米 国は「色彩作戦」の策定に入る。この 作戦は国名を色に例えており、レッド は英国、ブラックはドイツ、オレンジ は日本、グリーンはメキシコであった。 したがって、対日戦争作戦は「オレン ジ作戦」(1906)となる。ただ、この 時点では米国が具体的に日本を仮想敵 国化していたわけではなく、隣国メキ シコを含め太平洋地域で力を持ちつつ ある国を対象としたと推定される。 米国が真剣に対日戦略を考え始めた のは第一次世界大戦以後である。大戦 参加の報酬として日本はドイツ領南洋 諸島を入手し、太平洋に足場を確保す る。米国第29代大統領ウォーレン・ G・ハーディングは大西洋で英国と、 太平洋で日本と同時戦争を避けるため 1921年7月にワシントン会議を招集し、 海軍の軍縮(参加国:米、英、日、仏、 伊)とアジア・太平洋問題(参加国: 軍縮国+中、ベルギー、蘭、ポルトガ ル)について討議した。 海軍の軍縮問題では米5:英5:日 3:仏1.67:伊1.67の主力艦隊保有率が 決まり、9カ国条約で中国の門戸開 放・機会均等とともに日本は山東半島 の権益(青島等)を放棄した。対華21 カ条要求(1915年)以前への復帰を求 められ、4カ国条約(米、英、仏、日) では日英同盟の解消と太平洋における 権利の相互尊重が決められた。この日 英同盟の廃止(日英分離)、海軍の主 力艦保有制限、日本の中国進出の制限 等は米国外交・戦略力の成果であっ た。特に日英同盟の廃止は、「太平洋 (日)と大西洋(英)からの挟撃を避 けるために日英を分離」と言う米国外 交の当初からの目的であった。 この外交成果の上に、米国は昭和13 年2月、統合幕僚会議で「新オレンジ 作戦」を策定する。前年の昭和12年に 日華事変が始まっていたため、この計 画は内容が具体的で「日本は当初、米 国のアジアにおける拠点、フィリピン を攻撃、これに対し米海軍主力艦隊は 太平洋を西進し、日本海軍と艦隊決戦 (同構想を日本海軍も保有)する」と 言うもので、さらに、重要なのは「米 国は太平洋の制海権を把握し、日本に 対して海上封鎖を実施、日本経済を枯 渇させる」との戦略である。 さらに、米国の対日戦略は昭和16年 1~3月に米陸海軍合同参謀委員会と英 国統帥部との間で作成された「レイン ボー5号作戦」が基本になる。レイン ボー作戦は①欧州戦線優先、②太平 洋戦線防御、③日本の経済的弱体化、 ④米国太平洋艦隊の適時攻勢使用― が概要で、具体的計画として太平洋海 域の海上交通線の封鎖・破壊、日本の 南方委託統治諸島(マーシャル諸島等) の占領等が主軸となっていた。開戦9 カ月前に米英は既に対日共同戦略の策 定・合意を終えていたことになる。

 

米海軍の具体的封鎖作戦

 日本は58万総トン*1のタンカー保有量 で太平洋戦争に突入した。貨物船、客 船等を含む船舶の合計は634万総トンで タンカーの占める割合は9パーセントで あった。石油を求めて南方に侵攻した にもかかわらず、その輸送手段として のタンカー保有数は少なく、戦争開始 年の昭和16年度でも建造タンカーはゼ ロに近かった。この保有タンカーのう ち大型の優良タンカーの半数以上は海 軍に徴用(艦艇給油用)*2され、小型タ ンカーは外洋航海が困難であったため 実際に南方石油の還送に使用出来たの は20万総トン前後であった。 南方原油の還送量を年間300万キロ リットルとした場合、1万総トン級の タンカーが年間10航海するとの前提で 約30万総トン、還送量が年間400万キ ロリットルの場合は約40万総トン、企 画院の想定による戦争3年目(昭和19 年)の還送量450万トンのためには約 45万総トンのタンカーが必要になる。 この不足分充当のため、既存の貨物・ 鉱石船のタンカーへの改造、戦時標準 型(簡易工法)タンカー等の建造が行 われた。 この日本のタンカーに対し米国は潜水艦、航空機、機雷を用いて集中的に 攻撃を行った。太平洋へ投入された米 国海軍の潜水艦は開戦時51隻(大型39 隻、中型12隻)であった。当初、米国 の潜水艦隊は魚雷(マー14型)の性能 に問題(起爆・深度調整装置の不良) があったこと、開戦時、フィリピンの キャビデ港にある米海軍アジア艦隊の 魚雷貯蔵庫を日本軍に爆撃され大量の 魚雷(233本)を失ったことによる魚 雷数の不足等で活動は停滞気味であっ た。 しかし、昭和18年以降になると電池 魚雷、魚雷用新トルペックス火薬、夜 間潜望鏡の装備、潜水艦・機雷探知用 FMソナーの開発、無音水深測深儀、 敵味方識別装置(IFF)、マイクロ波SJ レーダー(対艦船、航空機用)等の新 兵器開発、搭載に加え、大西洋でのド イツのUボートとの戦いに教訓を得た 「狼群戦法(集団包囲攻撃)」の導入に より米国の潜水艦隊の攻撃能力は飛躍 的に増大していった。昭和18年9月、 米国海軍作戦部長E・Jキング大将は 「潜水艦の最優先攻撃目標は日本のタ ンカー」との命令を出している。加え て潜水艦の配備数も増強され、昭和18 年9月時点で118隻(大型100隻、中型 18隻)と倍増した。この潜水艦の配備 数の増加はその後も続き、昭和19年8 月には約140隻、同年12月には156隻、 昭和20年8月の戦争終結時点では182隻 (大西洋と合わせた米海軍の全保有数 は267隻)に達した。 さらに日本に致命的であったのは、 日本の輸送船団の港湾出発時刻、会合 点、船団編成等の海軍暗号無線が解読 されていたことである。海軍が自信を 持っていた暗号(暗号-D他)は戦争 期間中を通じほぼ解読されていた。米 国の潜水艦隊は集団で会合地点に先回りし、輸送船団を待ち受け、包囲殲せん 滅 めつ 作戦を行った。加えて制海権・制空権 を米国に奪われるに従い日本の輸送船 団は航空機の攻撃にも曝さら されることに なる。

途絶えた還送原油

 開戦時58万トンの保有タンカーは戦 争終結時の昭和20年8月には25万トン*3 (うち可動6.3万トン)に減少している。 外洋航海可能タンカーは「さんぢえご 丸」(7,269総トン、三菱汽船)ただ1 隻になっていた。単純減増でなく戦争 中の建造が115万トン、喪失が148万ト ン(改造減等で差し引き合わず)とな っている。 米国の海上輸送路破壊作戦により日 本が失った船舶数(除く軍艦、500ト ン以上)は2,259隻、814万トンで、う ち486万トン(59.7パーセント)が潜 水艦、247万トン(30.3パーセント) が航空機、40万トン(4.9パーセント) が機雷によるものであった。 昭和20年に入るとパレンバン等の主 要占領油田、製油所の石油生産量は空 襲により激減し輸送船団の被害も増大 した。昭和20年1月、ベトナムのブンタ オ沖合での「ヒ86船団」の全滅により 本格的石油還送は途絶した。この船団 はタンカー4隻(さんるいす丸、極運 丸、63播州丸、優情丸)、貨物船6隻 (辰鳩丸他)に原油・石油製品(約3.6 万トン)、ゴム、錫 すず 、ボーキサイト、マ ンガン等を積載し護衛艦6隻(旗艦:練 習巡洋艦香椎)とともに日本に向かう 途中、米機動部隊の艦載機(延べ250 機)の攻撃を受けた。タンカー4隻、貨 物船6隻、護衛船3隻が沈没ないしは擱かく 座 ざ し、船団は壊滅した。この攻撃を行 った米海軍ハルゼー機動部隊(正式空 母8隻、護衛空母8隻、艦載機1,000機、 戦艦6隻、重巡洋艦7隻他)は、この時、 南シナ海で商船35隻、艦艇12隻28万ト ン(昭和20年1月の喪失船舶数は42.5万 トン)を葬り「ハルゼー台風の襲来」と 言われた。 最後の還送原油は昭和20年3月に瀬 戸内海の徳山に到着した富士山丸(1 万238総トン、積載原油1.6万トン)、 光島丸(1万45総トン、積載原油・重 油1.1万トン:その他錫60トン、ジル コン60トン)で、以後、途絶した。こ の光島丸が輸送した重油が沖縄へ出撃 する戦艦大和に積み込まれたとも言わ れている。この両船は南号作戦*4第8次 により、あまと丸(1万238総トン)と 3隻で船団(ヒ96船団*5:海防艦3隻) を編成し、2月にシンガポールを出航 したが、途中カムラン湾であまと丸が 米潜水艦の電撃を受けて沈没、海南島 付近で光島丸がB-29の空爆を受けて破 損、同船は積荷の原油の一部(2,500 トン)を放棄し、香港で修理後、日本にたどり着いた。富士山丸は単船中国 沿岸を北上、黄海を横断して朝鮮半島 沿いに南下して徳山に帰着している。 商船隊も特攻的航海を行っていたこと が分かる。南方ルート「最後の輸送船 団」はシンガポール発の「ヒ88丁船団」、 輸送船8隻(うちタンカー3隻)、護衛 艦8隻で3月29日、仏印沖で全滅した。

 

南方石油の配分

南方石油(油田・製油所)の占領は 陸軍、海軍が別々に行い、陸軍は産油 地であるスマトラ、ジャワを占拠、海 軍はボルネオ(カリマンタン)東岸の セレベス海に面したバリクパパン製油 所、サンガサンガ、タラカン油田を接 収し、その占領比率は陸軍85:海軍15 であった。 占領油田・製油所の操業は陸海軍が 別々に行ない、政府の統制から離れて 石油消費量、在庫状況は報告されなか った。陸海軍は陸軍省、海軍省の次官、 局長で構成される「陸海軍石油委員会」 を東京に設置、南方石油還送量、軍事 用石油需要量、割当量を決める協議を 開始した。 海軍は接収した南方油田・製油所の 供給量では大量の消費に追いつかず陸 軍に石油供給の要請を行う状況が続い た。海軍は陸軍に対し、南方石油の50 パーセント以上を生産しているスマト ラへの石油開発参入の提案を行ったが 陸軍側はこれを拒絶し、逆に海軍の生 産量に対する余剰タンカー供出を求め るなど、油田・製油所占領後の昭和17 年4月時点では、陸海軍双方で厳しい 意見の対立があった。 シンガポールにおいて月に1回の割 合で陸海軍の石油担当者が会合し東京 の「陸海軍石油委員会」(委員長:陸 軍次官、海軍次官)の指示を協議して 石油を輸送することでようやく合意と なった。南方石油生産の大部分は陸軍、 消費の大部分は海軍、輸送担当は海軍 という構図は陸海軍間に様々な葛藤と 齟齬 そ ご を生み出した。海軍はシンガポー ルに海軍武官府(榎本隆一郎技術少将) を置き陸軍との調整に努めたが、陸軍 の南方石油支配の構造は変わらなかっ た。海軍は昭和17年末には早くも南方 石油の不足傾向を示し始めながらその 後のソロモン海、ガダルカナル島攻防 の消耗戦に突入していく。

 

石油不足が決戦海域を限定

昭和18年になると、米国は本格的攻 勢を促進する。米国の軍事指揮系列は、 ルーズベルト大統領、統合参謀長会議 (議長:リーヒ海軍大将、メンバー: キング合衆国艦隊司令長官兼作戦部 長、マーシャル陸軍参謀総長、アーノ ルド陸軍航空隊司令官)の下に、南西 太平洋方面軍(担当区域:東経159度 以西、赤道以南、フィリピン、ボルネ オ、ジャワ、ニューギニア、豪州。司 令官:マッカーサー陸軍大将)と太平 洋方面軍(担当区域:残る太平洋地域、 必要あれば全域。総司令官:ニミッツ 海軍大将)があり、地域割りで作戦を 遂行していた。 陸軍が主体の南西太平洋方面軍はニ ューギニア→ミンダナオ→レイテ→ル ソンのルートで北上する戦略をとり、 海軍*6が主体の太平洋方面軍(含む海 兵隊、陸軍、陸軍航空隊)は中部太平 洋から真っすぐに北上し、日本と太平 洋の島とう 嶼 しよ の補給路(ラバウル-トラッ ク、トラック─サイパン、サイパン─ (グアム)─パラオ、サイパン─東京) を遮断する戦略で2ルートから日本に 向かうことになった。 日本の大本営もほぼこの2ルートは 推測していたが、米軍が2ルート同時 進攻作戦を取るとは考えておらず希望 的観測として「ニューギニア→パラオ →フィリピン→台湾・沖縄」のルート を取ってほしいと考えていた。連合艦 隊もパラオ周辺を決戦海域に想定して いた。これは艦隊用燃料が不足してい たこと、昭和19年2月の米軍機のトラ ック島大空襲(海軍T事件*7)により 艦隊随行タンカーが撃沈されマリアナ 周辺海域(サイパン)で決戦を行うと タンカー不足により燃料補給に問題が 生じることが予想されていたからであ る。北進する米艦隊を迎撃する第1機 動艦隊(司令官小澤治三郎中将)はフィリピンとボルネオを結ぶスルー列島 南西端のタウイタウイ島(タラカン油 田が近い)を待機海域とし行動半径は 1,000マイル(1,600キロメートル)と 設定*8されていた。この行動範囲圏に パラオ周辺海域が入り、石油、タンカ ー不足が想定艦隊決戦海域までも決め る状況となっていたと言える。 昭和19年5月、マッカーサー軍がニ ューギニア西部のビアク島に上陸、大 本営は「米軍はビアク島からパラオ、 フィリピンに来襲」と断定した。その 2週間後、米太平洋方面軍がサイパン に進出して上陸前の空爆を開始したが 大本営は「サイパン上陸作戦はない」 と判断していた。米軍の上陸前爆撃・ 砲撃開始5日後の上陸当日に連合艦隊 はようやく米国のサイパン上陸を認め 迎撃「あ号作戦」(マリアナ沖海戦) を発令した。この発令の遅延は、大本 営が米国の2方向同時進攻作戦(マッ カーサーとニミッツは別ルートで進 攻)を予測出来なかった結果である。 実際の経緯はマッカーサー軍がニュ ーギニアのビアク島に上陸し、待機し ていた日本のマリアナ地域第2攻撃集 団とヤップ地域第3攻撃集団をビアク 地域に転用した隙にマリアナ地域をニ ミッツ軍が強襲・上陸という絵に描い たような2方面作戦に振り回されたあ と「あ」号作戦を発令している。海戦 ではタウイタウイ泊地に集結していた 日本艦隊はマリアナ沖出撃に備えフィ リピン中部ネグロス島沖合ギマラス泊 地に移動して燃料を補給し民需用タン カーを徴用後サンベルナルディーノ海 峡を抜けてマリアナ海域へ向かってい る(パラオ北西海域で再度燃料を補給)。 このマリアナ沖海戦で日本は空母3 隻(正規:翔鶴、大鳳、商船改造:飛 鷹)と艦載機395機を失い(米軍損害 は艦艇小破5隻、艦載機117機=収納を 急ぎ着艦後の海上放棄分を含む)、実 質的に日本の空母機動部隊は壊滅し た。米海軍は高度測定が可能な新型レ ーダー、接近破裂高射砲弾(VT信管)、 時限信管、新型戦闘機(F6F)を投入 し、アウトレンジ戦法(米機航続距離 外からの発艦)を採用した日本海軍艦 載機に決戦力はなくなっていた。 アウトレンジ戦法は、本来、基地航 空隊(当初推定1,750機)と共同して 使用される予定であったが、基地航空 隊は海戦までに消耗し百数十機が残存 しているに過ぎなかった。 この海戦には日本海軍の空母9隻、 戦艦5隻、重巡11隻、軽巡2隻、駆逐艦 28隻、潜水艦14隻、艦載機449機に加 え、1万トン級の高速タンカー6隻(速 吸、日栄丸、清洋丸、国洋丸、玄洋丸、 あづさ丸)が参加した。この海戦で、 うち2隻(清洋丸、玄洋丸)が空爆に より沈没、他の4隻も昭和20年1月まで にフィリピン、マレー半島沖合で雷撃 により沈没している。日本海軍は、ミ ッドウエー海戦(昭和17年6月)で70 万キロリットル、マリアナ沖海戦(昭和19年6月)で35万キロリットル、レ イテ沖海戦(昭和19年10月)で23万キ ロリットルの石油を消費した。昭和19 年後半には、日本海軍の保有石油量、 タンカー(含む徴用)は艦隊行動を行 うには不足する状態になり、大規模な 艦隊行動はレイテ沖海戦が最後(連合 艦隊の最終艦隊行動は昭和20年4月の 戦艦大和の特攻)となる。

シーレーン確保の思想が欠如していた日本海軍

筆者の手元に、松井邦夫氏の労作 「日本・油送船列伝」(成山書店)があ る。この本には、日本の最初のタンカーである宝国丸(帆船、94総トン、明 治40年建造)から昭和20年の終戦まで に就航・建造された全タンカー438隻 の記録がある。このうち310隻(「商船 戦記」数値306隻)が戦没している。ペ ージ掲載の26隻すべてが沈没している ページもある。備考欄には「昭和19年 3月27日、ジャバ海北部で米潜HAKE の雷撃を受け沈没」、「昭和19年11月26 日、ボルネオ・ミリ北方洋上米潜PAR GOの雷撃を受け沈没」等の簡潔な記 述が淡々と続いている。防備のための ソナー、対空火器もないタンカーは攻 撃を受けると簡単に炎上・爆発、沈没 した。 なぜ、このような状況が生じたかと 言えば日本の陸海軍には基本的に補給 や護衛という概念が薄く戦闘艦中心主 義が支配していたためであった。 同じ状況(島国、資源なし、外部か らの補給が必要)にあった英国は第一 次大戦のドイツのUボート攻撃による 海上封鎖を教訓に開戦とともに護衛艦 隊を編成、最終的には護衛空母43隻、 艦艇800隻を保有し対潜水艦戦略を実 施した。対潜兵器(前方投とう 擲 てき 魚雷=ヘ ッジホッグ)の開発、センチ波レーダ ー、大船団方式(コンボイ方式:60~ 80隻の大輸送船団+護衛艦+護衛空 母)、対潜水艦戦術(航空機+護衛艦 の組み合わせ)等、ハードとソフトの 組み合わせにより大戦後半には大西洋 でのドイツ海軍のUボートの活動をほ ぼ封じ込めることに成功している。 大戦中に戦闘参加したドイツのUボ ートは1,060隻と多数であったが、1943年春をピークとして活動数は減少 していった。連合国側の商船損失量も これに比例して減少した。大戦中に撃 沈されたUボート数は781隻、ドイツ 降伏による停戦命令が出された時 (1945年5月4日)の活動Uボート数は 43隻に減じていた。

36。 開戦二年後の護衛艦隊設立

日本の場合、海軍が海上護衛総司令 部(司令長官及川古志郎大将)を設立 したのは開戦2年後の昭和18年11月で あった。戦況はガダルカナル攻防戦の 敗退、中部ソロモン諸島への米軍上陸 が始まり商船の累計喪失量が100万ト ンを超え、石油輸送ルートが寸断され 始めていた時期であった。永野軍令部 総長自身、発足時の挨拶で「今になっ て海上護衛総司令部が出来るというこ とは、病が危篤の状態に陥って医者を 呼ぶようなものであるが、国家危急存 亡の秋、──」といっている。 伊藤聖一軍令部次長は、昭和18年9月 の大本営政府連絡会議で「潜水艦によ る船舶の損害を月3万トン程度に抑止す るためには、護衛艦艇360隻、対潜航空 機2,000機程度の常時整備・保有が必 要」と述べているが実際に配備された のは95隻(旧型駆逐艦15、海防艦18、 水雷艇7、商船改造特設砲艦4、掃海艇 12、哨戒艇4、駆潜艇13、漁船改造特設 掃海艇22)で、このうち、外洋航海、 対潜攻撃可能艦艇は52隻であった。 護衛艦隊側からの艦艇増強の要請は 戦闘艦建造至上主義の軍令部との対立 を生み出したが増加する商船・タンカ ーの喪失率に軍令部も海防艦の増強を 認めることになる。海防艦(丁型740 トン、甲型940トン、搭載火砲12セン チメートル砲2~3門)は、昭和16~20年度で計462隻の新造が計画されたが 実際に建造されたのは167隻であった。 護衛総司令部発足の1カ月後、各鎮守 府、警備府の保有航空機(252機)を 集めて護衛艦隊航空団901空(館山) が編成された。商船改造の護衛空母4 隻(雲鷹、海鷹、大鷹、神鷹)と931 空(佐伯:48機)が配備・新設された が商船船団との連携運用がうまくいか ず空母4隻のうち3隻は初出撃で米国潜 水艦の雷撃を受け沈没、1隻は瀬戸内 海呉で米海軍機動部隊艦載機の攻撃を 受け大破擱座している。海防艦の能力 は、米国と比べ潜水艦探知装置(聴音 機、探信機)の電子機器能力(真空管 機器)が劣り信頼性に問題があった。 また、英国護衛艦が装備しその有効性 が確認されていた前投射式爆雷は日本 では最後まで開発されなかった。 致命的であったのは護衛艦の速度 (時速16.5ノット)が遅く浮上してジ ーゼル航行(時速20ノット以上)する 米潜水艦を追い掛けられず、また搭載 火力も米潜水艦の方が大きく海防艦が 逆襲を受けることもあった。米英海軍 が大西洋で使用していた大船団輸送方 式を採用したのは昭和19年4月からで あったが昭和20年に入り船舶数が減少 すると船団はかえって潜水艦の目標に なるとして再度単独航海に変え特攻輸 送船団の組み直し等輸送戦術(ソフト) 面でもその場凌しの ぎの運用が行われた。 昭和19年4月米国海軍キング作戦部 長は米潜水艦に対し「商船より護衛艦 を先に屠ほふ れ」との指令を出した。「潜 水艦を駆る護衛艦が潜水艦に駆られ る」との逆転現象が生じていた。 日本の海防艦は戦時促成造船方式で 建造され使用鉄板も商船並みであった ため攻撃を受けた場合の被害が大きく 雷撃を受けると即沈没に至った。乗り 組み士官は海軍兵学校出身でなく商船 学校や一般大学・高専卒の予備士官が 多かった。海防艦は171隻が配備され、 うち72隻が撃沈されている。

37.船舶獲得競争

昭和17年8月に始まったソロモン諸 島のガダルカナル島争奪戦は、米軍の 本格的反攻であったが、同時に船舶・ 航空機・兵員の消耗戦となった。米軍 は最強の海兵隊2万を上陸させ、日本 海軍が数日前に完成させたばかりの飛 行場を制圧し制空権を確保した。建設 途上から偵察飛行を行い完成と同時に 占領したのである。 この島は、海軍の前線基地ラバウル から1,000キロメートルの距離(日本 からの直線距離5,600キロメートル) にあり、長距離飛行が可能であった海 軍のゼロ式戦闘機でも同島上の滞空戦 闘時間は15分が限界であった。日本軍 は兵力の逐次投入(一木支隊、川口支 隊、第2師団、第38師団等)により最 終的に3万4,000名の兵員を上陸させた が制空権のない補給作戦で大量の船舶 を失っていた。 昭和17年11月、参謀本部の第1部長 (作戦)田中新一中将と作戦課長服部 卓四郎大佐が陸軍省(陸相東條首相兼 務)に新作戦用として船舶37万トンを 要求した。同時期、海軍も25万トンを 要求している。 陸軍省は民需用の絶対確保量300万 トンを確保するためにこの要求を蹴っ たが参謀本部はさらに要求を続け、田 中中将は軍務局長佐藤賢了少将と参謀 本部内で「将軍同士の殴り合い」まで 行っている。陸軍上層部が南方での兵 員・船舶の消耗戦の中、打つ手に詰ま っていたことが見てとられる。 さらに、開戦1年目に近い12月6日、 官邸で東條首相、陸軍省木村次官、佐 藤局長、参謀本部田辺次長、田中部長 が船舶供給問題について議論中、民需 用船舶の削減に応じない東條首相に田 中部長は「この馬鹿野郎」と怒鳴なり、 これに対し東條首相は「君は何事を言 いますか」と青白く変わった顔で静か に応えたと言われている。翌12月7日、 田中部長は南方軍総司令部付へ転出し後にビルマ駐屯第18(菊)師団長とし て、作家古山高麗雄の小説「フーコン 戦記」の舞台、ビルマ戦線の最激戦の 一つであるフーコン作戦(昭和18年10 月、米軍式訓練・新式重装備の中国軍 第38師団との戦闘)を指揮することに なる。田中部長はこの事件の直後、上 席である杉山参謀総長の所に行き辞任 を申し出ている。この田中部長の行動 は作戦部長として戦略的に打つ手が見 出せず辞任の契機を自ら作り出したと の推測もある。 参謀本部はこの後も執拗に船舶を要 求していくがガダルカナル島の戦況は さらに悪化し、駆逐艦による夜間輸送 (東京急行)、潜水艦による輸送も効果 は無く昭和18年2月、陸海軍は同島を 放棄した。 半年間の激戦の後、投入兵員3万 4,000人のうち、昭和18年2月の撤退時 (転進)の人員は1万4,000人、戦死者 約1万9,200人、うち1万1,000人が戦 病・餓死と言われている。 ガダルカナル島の攻防戦が日本軍の 敗北・撤退によって終了した昭和18年 2月の段階で日本は主力艦艇、航空機、 特に熟練操縦士、輸送船を大量*9に失 い、以後、守勢に回ることになった。明 らかな国力の差による消耗戦に直面し たと言える。

38 船舶問題の問題点

この船舶供給は、前述の総力戦研究 所のシミュレーションでも戦争の命運 を決定する最大の要因として検討され たが船舶保有量・新造船供給量・喪失 量等が現実の数値として出てくるよう になると開戦1年を待たず大きな問題 となった。太平洋戦争開始時、日本は 630万トンの船舶を保有していた。こ のうち、工業生産力を維持し、国民経 済に必要な物資を供給するためには民 需用300万トンの船舶が必要と推測さ れていた。 開戦当初、陸海軍の徴用船舶はフィ リピン、マレー、蘭印等の上陸作戦用 のため急増し390万トンになっていた。 民需用船舶は必要量(300万トン)よ り60万トンの不足であったが作戦終了 とともに徴用を解除し、昭和17年7月 には民需用船舶数は350万トンへ回復 させる計画であった。ガダルカナル戦 直前、陸軍は138万トンを徴用してい たがこのうち70万トンは病院船、タン カー、軍需品輸送に使用されており、 残る68万トンが作戦に使用可能な船舶 であった。この68万トンをガダルカナ ル戦に振り向けたが20万トン強を撃沈 され10万トンは損傷し修理が必要にな った。参謀本部は、過去3回の攻撃 (①一木支隊、②川口支隊、③第2、第 38師団)の失敗を超え同島維持のためには船舶数70万トンが必要と計算し手 持ち運用可能33万トンに加え37万トン の徴用を要求した。 参謀本部は、この徴用は作戦遂行の ために必要な船舶数であり、かつ、要 求は「統帥権(作戦)の範疇」で政府 (陸軍省)の口出しは無用と考えてい た。一方、陸軍省は作戦だけでなく、 戦争経済全般を見る必要があり、当時 の試算では30万トンの船舶徴用は鉄鉱 石の運搬量減等により鉄鋼生産が年間 120万トン減ずると推測していた。ま た、制空権なき海域に輸送船団を出し ても米軍の艦載機、陸上機に攻撃され 国力の低下を引き起こすと判断してい た。これが参謀本部と陸軍省の対立の もとになり先述の田中作戦部長の東條 首相罵倒問題まで発展するが最終的に は昭和17年12月に陸軍38万トン、海軍 3万トンの徴用が認められている。

39 崩壊 途絶する海上輸送路

当初の潜水艦による米国のシーレー ン封鎖作戦は制海権・制空権が米軍の 手に移るに従い航空機による攻撃の比 率が上がっていった。太平洋海域はも ちろんのこと、東シナ海、南シナ海も 日本の輸送船団攻撃の米機動部隊が遊ゆう 弋 よく する海域になっていった。昭和19年 末には「船団輸送」は困難になり、昭 和20年1月、大本営は輸送特攻作戦 「南号作戦」を発令した。 さらに、サイパン島の陥落(昭和19 年7月)によりB-29爆撃隊が同島に進 出すると日本周辺の海峡・海域に多数 の機雷が投下され始める。この作戦は 昭和20年3月以降促進され投下機雷総 数は1万2,000個(関門海峡4,990個、周 防灘666個、若狭湾611個、広島湾534 個、神戸・大阪付近380個)になり、 この機雷に触れて通過船3隻につき1隻 が沈没し、国内海上輸送も麻痺状態に なった。下関と朝鮮半島の釜山を結ぶ関釜連絡線は下関港がこの機雷投下に より封鎖状態になり、発着港は博多、 山口県(日本海側)仙崎、さらには須 崎と移っていった。昭和20年6月には 「天皇の浴槽」と言われていた日本海 にも米潜水艦(9隻)が侵入(対馬海 峡→宗谷海峡)し17日間で27隻、5.4 万トンを雷撃、沈没させた。 戦争終了直前の昭和20年7月には青 函連絡船も攻撃を受けた。7月14日、 青森県東方海上約200キロメートルに 接近した米海軍第38機動部隊(空母4 隻、艦載機248機)は青函航路を攻撃 し14隻の青函連絡船のうち11隻が沈没 している。北海道は孤立し瀬戸内海を はじめ本土周辺でも海上輸送はほとん ど困難になっていた。 戦争終結時、日本は2,568隻、883万 トンの商船を失っていた。残存商船は 1,217隻、134万トン(運行可能船舶80 万トン)であった。戦争中、海上輸送 に従事した乗組員は約7万1,000名、う ち3万5,000名(4万6,000名の説もある) が死亡している。死亡率は49パーセン トでこれは日本陸海軍の軍人死亡率19 パーセントの2.6倍である。 増大する船舶の被害、物資(鉄鋼) の不足に対し究極の対応策としてコン クリート船の建造が計画・実行されて いる。昭和18~19年に南方石油還送用 の半潜水式コンクリート製バージの建 造が始められた。海軍艦政本部ではこ のコンクリート製バージ(曳えい 航 こう 式石油 タンク:石油搭載量1,000トン)120隻 の建造計画を立案したが実際に完成し たのは5隻であった。このバージは海 軍へ納入されたが既に建造(50隻)さ れていた鉄製バージ(全長60メートル、 石油搭載量1,400トン)と同様、タン カーに曳航させた場合の無舵バージ操 船の困難さ、航海速力の低下、潜水艦 の雷撃危険性の増大等問題が多く船会社では使用反対の声があり実際の使用 状況は不明である。 また、昭和19年に海軍艦政本部は武 智造船(兵庫県高砂市)に戦時標準貨 物E型コンクリート船(800総トン)の 建造を発注している。同船の仕様は、 全長60メートル、全幅10メートル、航 海速度9.5ノット、舷側厚11センチメー トル、船底厚15センチメートルであっ たが同タイプの鉄鋼船(鋼材使用量350 トン)に比べ4割弱の鋼材使用量(135 トン)で済むこと、内海へ投下された 磁気機雷に対し感応が小さく安全性が 高いとの利点がうたわれた。このコン クリート船は昭和20年8月までに4隻 (最終船完成は8月)が完成し海軍の呉、 横須賀、佐世保の各鎮守府へ納船され ている。海軍艦政本部は航海試験後、 25隻のコンクリート船を発注する計画 であったが敗戦によりそれ以上のコン クリート船の完成には至らなかった。

 

物資とともに海の藻屑となった兵員

日本軍は、物資と同様に兵員輸送に 貨物船を使用していた。連合国の多く は客船、専用兵員輸送船を兵員輸送に 使用したが日本では開戦時、1万総ト ンを超える客船は19隻しかなく、それ らは病院船、潜水艦母艦、空母(隼鷹、 飛鷹、大鷹、海鷹等11隻)等へ改造さ れ兵員の輸送主力は貨物船であった。 船内(船倉)には2~3段の木製のカイ コ棚が設置されて兵員居住区に改装、 上甲板へは木製の階段があるだけで裸 電球照明の薄暗い船内に兵士が詰め込 まれた。5,000~7,000総トンの貨物船 に2,000~5,000人程度の兵員が乗船し た。 通常、兵員1人の輸送には3トンの船 舶が必要だとされていた。6,000総トン の船では2,000人が適正であったが、 5,000人の輸送となると1人当たり1.2ト ンに占有面積は減少し、積載食糧、兵器、弾丸が減少する等の諸問題が発生 した。換気装置がない船倉内は、人い きれで空気はよどみ、南方海域の航海 では蒸し風呂状態になった。この他、 上甲板にはトラック・大砲・資器材等に 加え可燃物の自動車用ガソリンが積み 込まれた。空きスペースには最小限数 のバラック作りの厠かわや が海にせり出して いた。 この状態で敵潜水艦が待ち受ける南 シナ海、台湾海峡を航海したため、雷 撃を受けた場合の犠牲は大きかった。 魚雷の衝撃で木製の階段が飛び、電球 が消えると脱出することも出来ず、そ のまま海底に沈んでいった輸送船が多 かったという。 戦時の輸送船の実情を克明に調べた 大内建二氏の労作『輸送船入門』、『商 船戦記』(ともに光人社)には、戦没 輸送船の犠牲者数上位30隻の一覧表が 掲載されている。海沈犠牲者の最大数 は、隆西丸の約5,000人である。戦時 編成の2~3個連隊が、戦場に到着する 前に、雷撃により海没している。上位 10隻の合計犠牲者数は約3万人で1.5個 師団、上位30隻の合計犠牲者は約6.6 万人で3個師団の兵員と兵器・弾薬が 戦う前に海没したことを示している。 これに対し、米国は太平洋戦争中に 1万総トン級の兵員専用輸送船を54隻 就航させその輸送能力は20万人(戦時、 米軍は兵員輸送船99隻、揚陸兵員輸送 船203隻)を超えていた。その他、給 糧船(30隻)として民間の冷凍貨物船を改装して食糧等を輸送した。この船 は牛肉を多く輸送したことから「ビー フ・ボート」とも呼ばれていた。 専用兵員輸送船は安全性も考慮され 大型ゴムボートが甲板・舷側に置かれ 緊急時には多数のゴムボートが海面に 浮かぶように工夫されていた。大西洋 では、当時、最大級の英国の客船クイ ーン・エリザベス号(8万3,700総ト ン)、クイーン・メリー号(8万1,200 総トン)も兵員輸送船として活用され 1度に1個師団(1万5,000人以上)の兵 員を輸送した。客船のためトイレ・シ ャワー、食堂が完備され、武装も堅固 であった。大型船の場合、15センチ砲 から対空機関砲までの軽巡洋艦級装備 がなされ速力28~30ノットで航海し、 Uボートの速力(20ノット)を凌駕し ていたため単船運用でも安全性が高か った。

41 松根油の生産

昭和19年に入るとタンカー船腹の喪 失とともに南方石油の還送量は減少し ていく。一方、太平洋での戦いは昭和 19年7月のサイパン島守備隊の玉砕に より最終段階に入り東條内閣が崩壊す る。サイパン島の陥落により同島に米 軍の戦略爆撃機B-29(爆弾搭載量9ト ン)が進出し日本本土が爆撃範囲(同 機の最大航続距離は約9,380キロメー トル、本州、九州、四国、沖縄は 3,000キロメートルの半径内)に入った。この頃、再度、国内原油生産の見 直しが行われたが人員の南方派遣、掘 削機等の資器材の搬出により増産効果 は期待薄であった。また、人造石油の 生産は目標生産量の10パーセント強と 低迷し満州で製造された人造石油の輸 送も朝鮮海峡が米国潜水艦に脅かされ るようになると支障が出始めていた。 この逼迫した状況の中、昭和19年3 月、ベルリンの海軍駐在武官から「ド イツでは松から航空機燃料を生産して いる」との情報が入った。海軍は直ち に調査に乗り出し、軍令部、海軍省軍 需局、海軍第一燃料廠しょう (神奈川県大船)、 農商務省山林局、林業試験場間で検討 がなされ「松根油からガソリンの生産 は可能、国内資源(松林)からの生産 見込み量は約100万キロリットル」と の報告がなされた。内務省、陸軍も松 根油の生産に関心を持ち松根油生産計 画が立案(昭和20年3月閣議決定)さ れた。 計画では年間30万キロリットルの松 根油生産が目標で「200本の松の根で 航空機が1時間飛ぶことが出来る」が スローガンであった。必要とされる乾 留釜は3万7,000基、鉄不足で国民から 鉄器の供出が行われるなか、乾留釜の 製造が行われ林や山の松の木が日本中 で延べ4,000万人が動員されて掘り起 こされた。 昭和20年6月時点で150万トンの松の 木が掘り起こされ、うち75万トンが乾 留されて10万トンの松根油が生産され た。このうち6.5万トンが各地の海軍 燃料廠、民間製油所へ送られた。しか し、松根油から高オクタン価の航空ガ ソリンを製造する技術は確立されてお らず、出来た試作ガソリンは不安定で ゴム含有量が多く自動車エンジンに使 用すると焼き付け等の支障が発生し航 空機には使用出来なかった。 米国戦略爆撃調査団石油報告は、 「こうした計画が戦争に及ぼした唯一 の現実的な影響は日本が労働力と装置の不足している最中その双方を奪い取 ったこと」と分析している。昭和20年 代になって、台風、豪雨時に各地で土 石流が発生し大きな被害をこうむると いう形で松の木を掘り起こした後遺症 が表れることになる。

 

42 壊滅する国内の製油所

昭和19年1月24日、サイパン島から のB-29による日本本土への本格的空爆 が開始された(最初の本土空爆は昭和 17年4月、ドゥーリトル中佐指揮のB25、16機)。石油施設への爆撃は昭和 20年2月の日本石油横浜製油所が最初 で、その後、清水の東亜燃料(3月)、 東京の日本石油(3月)、徳山の第3海 軍燃料廠(5月)、大竹の興亜石油、岩 国陸軍燃料廠の製油所、貯蔵タンク、 宇部の帝国燃料興業の人造石油工場等 と続いた。6月22日には、四日市の第2 海軍燃料廠が攻撃を受けた。同燃料廠 への爆撃は徹底的で十数回行われ設備 は壊滅した。石油施設への爆撃は敗戦 の当日8月15日(秋田の日本石油)ま で実施された。製油所および人造石油 工場への爆撃は計39回、投下爆弾量1 万600トン(日本全土総計15万3,000ト ン)であった。 日本石油秋田製油所への爆撃は、グ アム島(3,500キロメートル)を発進した 第20空軍部隊第315爆撃団のB-29、134 機により、14日午後10時から翌15日午 前3時頃まで行われた。爆弾954トン、 爆弾数にして1万2,000発が投下されう ち約1,250発が製油所敷地内(損害率 91.4パーセント)に落ちた。日本石油 従業員・家族48名(米国戦略爆撃調査 団数値は44名)を含む87名が爆死して いる。 この空襲は、トルーマン大統領が日 本の降伏を発表しレーヒ統合幕僚会議 議長がすべての米軍に「攻撃作戦の即 時停止」を指令してから3時間38分後に 行われている。同製油所は最後まで空 襲を受けず周辺の油田地域からの原油 供給で稼働(昭和20年4~8月4万キロリ ットル=1,900バレル/日の製品を製造) していた。この空襲が太平洋戦争での 「最後の日本本土爆撃」になった。 日本の製油所、人造石油関連施設に 投下された爆弾(1万600トン)は石油 精製能力8万7,650バレル/日の75パー セント、人造石油製造能力2,805バレ ル/日の90パーセントに損害を与え石油貯蔵量47.1万バレル(7.5万キロリッ トル)を消失させた。 (数値:米戦略爆撃調査団石油報告)