月曜日は私のサッカー人生について。

改めて馬場賢治のサッカー人生を簡単にですが振り返ろうと思います。

初回は手始めに経歴的なやつをいきましょう。

なかなか知れなかったことがあるかもよ?!

 

馬場 賢治(ばば けんじ)

1985年7月7日生まれ 神奈川県平塚市出身

 

7歳(小学1年生) フジタサッカークラブ(現湘南ベルマーレ)のスクールでサッカーを始める。

 

8歳の時に選抜チームに入り、フジタサッカークラブからベルマーレ平塚にチーム名が変わる。

 

9歳の時からトップチームと同じライトグリーンのユニフォームを着てプレーする。

初めてのライトグリーンのユニフォームの背番号は8番。

ポジションは攻撃的MF

 

10歳(小学4年生) 今でいうU-10のチームでキャプテン、10番を付けてプレー。

初めてボランチを経験。

 

12歳(小学6年生) U-12でもキャプテン、10番を付けて県選抜にも選ばれる。

攻撃的MFに戻る。

父に連れて行ってもらった高校サッカー選手権神奈川予選決勝で桐光学園、中村俊輔さんに憧れを持つ。

 

13歳(中学1年生) 順調にベルマーレのジュニアユースに上がりプレーをし始めるも、同じポジションに県選抜でも一緒にプレーして、さらに上のトレセンに選ばれる実力のある選手が2名チームメイトになり、その2人はすぐにAチームでプレーする中、自分はBチームでの日々に悔しさを糧にプレーする。

中学になるとMF全般でプレー。

 

14歳(中学2年)Aチームに入るようになり、その時のコーチのおかげで手応えを掴める成長を続けるも、現状は同じポジションの2名の次という立ち位置は変わらず。

 

そんな中で中2の夏に今思うと人生最初の大きなターニングポイントとなる決断をする。

小学1年から少なからず期待をしてもらっていたベルマーレのジュニアユースを辞めて、地元の金旭中学サッカー部に所属する。

ここで人生1回目のベルマーレに背を向けるということをする。

(ジュニアユースを辞めた理由、中学の部活になぜ行ったのかはまた今度書きます)

 

15歳(中学3年)夏の神奈川県中学校総合体育大会で優勝。

母校の金旭中学校は神奈川県平塚市にある近くの小学校3つが集まる普通の中学校なんですが、神奈川では有名なサッカー強豪校でした。

(市大会、地域大会、県大会の全てで退場をするという問題児でした笑)

 

16歳(高校1年)中学の県の決勝の相手が桐光学園中学校で、その試合で得点したこともあり、桐光学園のセレクションに参加して運よくスポーツ推薦で憧れの桐光学園に入学。

小学生から選抜で親交のあった本田拓也(現FC岐阜トップチームコーチ)とチームメイトになるも、1年から公式戦に出場し、アンダーの代表に選ばれる同い年の存在に悔しさと刺激をもらいながら奮闘。

(この時から本田拓也を追い続けるサッカー人生が始まる)

 

17歳(高校2年)朝早い登校、夜遅くの下校、90分以上かけての通学、レベルの高い環境でのサッカーの日々と充実の生活を送るも、関東大会、インターハイ共にメンバーにも入れず応援チームという悔しい日々を過ごす。

冬の選手権は本大会に出場出来ずも、予選で少しずつ出場時間を増やしサッカー人生でもあまりいい思いでもない苦しい高2を終える。

 

18歳(高校3年)最終学年で中村俊輔さんが背負った桐光学園の10番を付けることに。中村俊輔さんに憧れ、桐光学園を目指した夢が叶った時だった。

インターハイ予選は圧倒的な力で神奈川予選を優勝。

(確か4-0か5-0で勝ったのに、監督にこんなことで満足するなとそのまま学校に戻って練習したのを覚えてる笑)

自信を持って臨んだインターハイはベスト16でPKで敗退。

(決めたけど5人目、外したら負けという状況で会場も注目する状況でのキッカーは緊張したなー)

冬の選手権はあっけなく神奈川予選で敗退。

当時も、38歳になった今でも選手権で本気で全国優勝できるチームだと思ってました。

もちろん予選で敗退したことが実力なんだけど、時にはそんなこと抜きにして自信があった時もあっていいのかなと思っています。

それくらい当時の僕たちは強かった。

学年の結束も人間性も良かったし、全国で上位に行った高校にもほとんど負けなかった。

ただそれが過信だったんだな。

と思う。

今思うと色んなことが手に出来そうで出来なかった高校3年生だった。

高3なので次の進路のことも。

当時の僕は高卒プロ志望でした。

高校の監督と面談してその意思を伝えると、じゃあ地元だからベルマーレの練習参加するか、ということで夏にベルマーレの練習に参加します。(意外な形でベルマーレに帰還)

結果は1年契約なら考えると言われましたが、高校の監督は高校卒業して1年でクビになってしまったことも考えて辞めなさい、現状の実力はそういうことだと話をしてもらい高卒プロは断念。

そこから色々なことがあり、なぜか関東の高校から関西の大学へ進むことになります、、、

 

ここがサッカー人生2回目のターニングポイントですね。

 

今思うと◯◯大学に行きたいですって高校の監督に希望した大学はダメだったけど、関東のサッカーの強豪大学にはいくらでもいける選択肢はありました。

なのになぜわざわざ関西の大学に行ったのか。

今でもこの決断は僕自身もはっきり言葉にできません。笑

ただ人生の選択としては結局なんにも間違ってなかったと本気で思っています。

 

ここまでで予想以上に長くなってしまったので、19歳からは次回に持ち越しで。

ぜひFootball Life 2ndも読んでください。

 

MIND PLUS⁺ 馬場