前回は人の本能を満たす快楽を断つ行を「克己性欲行」と呼んだ。
本能を満たすことは魂に刻まれているもので、簡単には断ち切れないものだ。
悟りに至るためには本能を制御することは不可欠だが、これに専念するだけでは悟りに至れない。
食欲を断ち、性欲を断ち、体に痛みを与え、己を強くすることを目指す。
これに専念すると「修行依存症」になることがある。
「己を鍛え、強くしなければならない」という強迫観念にさいなまれ、修行をやめることに不安を感じる状態を「修行依存」という。
昔は依存症のことを中毒とも呼んだ。
中毒とは毒が人体の許容量を超えることである。
毒は摂取し続けることで、体に耐性ができる。
同じように修行を続ければ人は強くなる。
だが修行をやめた時に、己のアイデンティティを失うような恐怖感を感じてしまう。
そのために克己性欲行を一生やめられない。
これは「弱い自分を許せない」という心から来る。
また修行依存の人は修行していない他者を見下してしまいがちである。
または同じ修行に身を置く同士と己を比較し、どちらが厳しい修行に明け暮れているかで人生の満足度を決めたりする。
このような人は徐々に孤立し、視野が狭くなる。
他者の言葉が耳に入らなくなり、ひたすら克己性欲行に励んだりする。
修行依存という言葉からわかるように、修行依存者は修行することに快楽を感じてしまっている。
本能とはまた違う、それでいて本能に近い快楽を修行から得ている。
このような状態では悟りに至れるはずもない。
厳しい修行に耐え、心が弱い自分を許せるようになった時が悟りに近づくときである。