前回は快楽に負けて自分の人生を歩めない人を「偽人」と呼んだ。

 

人は遠い過去の世界から、人が生きる意味を追求してきた。

人は何のために生きるのか。その答えを知ることを「悟り」と定義して、修行に励んだ人は数え切れない。

 

その答えの一つが無欲の境地とされている。

人の根源的な本能を消し去ることが悟りと考えられたからであろう。

 

本能と快楽は直結している。

また本能は人としての獣の部分であり、理性で行動することこそが人らしいと考えられた。

 

道を求める修行者は己を飢餓状態に追い込んで、断食に励んだ。

体を痛めつけて、痛みに耐える肉体を目指した。

性的衝動を抑え込んで、童貞を貫くことが美徳とされた。

 

このような修行を「克己制欲行」(こっきせいよくぎょう)と私は呼ぶ。

苦行をすれば、人は悟りに至れる悟りに至れると考える人が行う行(ぎょう)である。

 

だが仏陀がこの苦行を途中で捨てて悟りを得たことから見ても、この本能と快楽を押さえつけるだけの行では悟りに至れないことがわかる。