真なる人の家庭とは、どのようなものだろう。

 

それは配偶者を己そのものだと知ることに、その全てがある。

 

例えば妻が誰かに騙されて、大金を失ったとき。

夫はどのような対応をとるだろうか。

 

妻の失態を責め立てて、「何とか金を取り返してこい」と尻を叩いて、家から追い出すだろうか。

お金を失ったことをいつまでも嘆き、家の空気に影を落とし続けるだろうか。

はたしてそれが正しい方法だろうか。

 

失ったのは金であるが、夫の対応は金だけに留まらず、妻の愛も失う対応である。

 

この夫は金だけでなく愛まで失って、手元に何が残るというのだろう。

愚かな人というのは、大切なものを失い、破滅する原因が何かを知らない。

 

結婚したら、相手はあなたと一蓮托生である。

先ほどの例でいえば、妻が失ったお金は、夫が失ったお金と同義である。

 

そこまでは誰でも思い付く。

だがお金を失った妻の心の痛みが、夫の痛みそのものだと思う人は少ないだろう。

 

多くの人は配偶者の痛みを受け入れず、他人事のように扱ってしまう。

配偶者の心を拒絶してしまう。

「妻の心の痛みは、私の心の痛み」と言う人はなかなかいない。

 

真なる人は、配偶者の痛みを己の痛みとして受け入れる。

配偶者が一蓮托生という、その真意を知っているからである。