日本アセアン特別首脳会議で、岸田首相が、「すべての国が平和と繁栄を追求でき、民主主義、法の支配、良い統治、人権と基本的自由の尊重といった原則が守られる世界」を得意そうに掲げたそうだ。得意そうにというのはもちろん、その対極にあると彼が考えている?中国を念頭に置いたものである。

 

 確かに中国は経済的繁栄の追求を除くと、これらの原則とは別のルールで統治しているから「中国とは違うぞ」と言うのはおかしなことではない。

 

 

 しかし自民党が資金パーティに関し、長年にわたり「政治資金規正法の定めは知っていたが、派閥からの指示で違法行為を重ねていた」という重大な事実を前に、どの口が「法の支配」などという言葉を他人様に向かって言えるのだろうか。ついでに言えば杉田水脈を抱えての「人権の尊重」もそうだ。

 

 まあ、元々「法の支配」という言葉はこういう個別法を遵守しているか否かといった使い方ではなく、「権力を法で縛る」「統治する側もまたより高次の法によって拘束されることにより被統治者の権利や自由が保障されなければならない」といった立憲主義に基づく概念のようだ。

 

 

 しかし多分深い見識もないアベが「法の支配に基づく」の意味を正確に理解しないままに多用した。だからこそ、憲法を無視して特定機密保護法など多くの重大な法律を作り、「集団的自衛権」を閣議決定で解釈改憲し、それらの個別の決め事を守ることが「法の支配」だと言っているのである。

 

 しかも法解釈を司る法制局長官の首をすげ替えたり、お気に入りを検事総長にするために定年延長さえ画策した。つまり「法の支配」どころか「人の支配」でことを進めてきたのが近年の自民党政治だ。そう言えば国会で「法の支配」や「法治主義」の対義語を聞かれたアベが答えられなかった話もあった。

 

 あっちこっちに話が飛んだが、要は今の自民党と自民党政府には、立憲主義的な本来の意味はもちろん、単に普通の日本語としても「法の支配」などという言葉を使う資格はまっっっったくないということである。しばらくは自民党のパーティ疑獄(けんじいの造語)の話題が続くだろうからけんじいもその話に関連して書くつもりだ。