中国と日本--言葉・文学・文化(陳生保著) | けんじいのイージー趣味三昧

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 けんじいの恩師は統計学を専門の1つにしていて、ある時、明治時代にstatisticsをどう訳すか論争があったことについて詳しく研究した。そして「統計学」という言葉を定着させた立役者の一人が森鴎外ということがわかり、以来恩師は森鴎外に強い関心を抱いた。

 

 この本の著者は日本の大学でも教えたことのある上海外国語大学日本語学部長だった人で、恩師と交流があった。けんじいが中国に関心があることを知っている恩師から、今頃になってだが、「中国語と日本語についてのエッセイのほか、森鴎外の中国文化、わけても漢詩との関係が書かれているから」と、この本をけんじいに「読みなさい」と言ってきた。恩師の推薦では読まないわけにはいかない。

 

 

 この本で森鴎外が和漢洋に通じたとんでもない秀才であったことはわかったが、けんじいの関心はそこにないので、この部分を飛ばして、以下けんじいの関心のあった部分だけ紹介する。

 

1、明治時代に日本で作られた西洋語から漢語への翻訳語のうち中国語の中に流れ込んだ数は約1000語。その理由として大きかったのは、文語ではあるが中国語の素養のあった日本人が中国語の形式を保って訳したから。特に動詞+目的語の造語法は、日本語の文法とは正反対であるにもかかわらず中国語の文法に合わせた訳し方をしたので、中国にすんなりと入った。

 

2、それでももちろん日本語の流入に反対する人はいた。一番抵抗があったのは「経済」。もともと「経世済民」から来たわけだが、これは「世の中を治め人々の苦しみを救う」という意味だから「政治」に相当する。だから反対があって当然であり、様々な訳語が中国で現れたが、結局は日本の「経済」に統一されてしまった。なお、当初は日本語が使われたが、中国語にとって代わられた数少ない単語として、「労働者」が「工人」に、「労働組合」が「工会」に、「弁護士」が「律師」に、などがある。

 

 

3、面白いのは毛沢東(上)が大いに「外国語(日本語)から学べ」と言っていたことである。1942年中国共産党の根拠地延安では整風運動が行われたが、その時毛沢東は「表現を豊かにするためには、第一に人民の言葉を学ぶこと、第二に外国語から学ぶこと、第三に古典から学ぶこと」と演説している。「われわれは外国語を無理に使ったり濫用してはいけないが、外国語の中も良いもの、我々が利用できるものは取り入れる必要がある。例えば今日開いているこの幹部会、この幹部と言う語は外国(日本)から学んだものである。」と。


4、言葉についてはおおよそ以上のような話だが、その他のエッセイの1つに「上海と日本の作家たち」と題するものがあり、日本人が中国で最も魅力的と言われる都会である上海を訪問した記録などが紹介されている。上海に渡った最初の日本人である高杉晋作(下)は次のように書き残している。

 

 

 「清国の人はすべて外国人にこき使われている。哀れむべし。英仏の人が街頭を歩いているのを見ると、清の人はみんな避けて道を譲る。上海は中国の土地ではあるが、英仏の属国と言っていい。中国人の住むところを見ると多くは貧しくその汚いこと言い難し。これが中国人の恥辱であるばかりでなく、日本人も肝に銘じるべきところである。」

 

 「外部には西洋列強が幅を利かし内部には農民の蜂起(太平天国)。中国が非常に危険な境地に置かれている。わが日本もついにこのような国にならざるを得ないだろうか。日本が中国の二の舞を踏まないようにするためには、革新をするより他に道はない」と。外遊しても文字通り物見遊山に終わっている現代の政治家に読ませたい記述である。

 

 

5、冒頭に書いたように、この本の半分以上は森鴎外(上)の漢詩について書かれていて、森鴎外が漢詩だけでなくいかに中国のあらゆる古典に通暁した人であるかという研究結果が仔細に説明されている。しかし漢詩をそれほど知っているわけでもなければ作詩の経験もないけんじいは、恩師には申し訳ないが流し読みをした。その中で興味を持ったのは、鴎外と魯迅の話である。ともに医科の出身でありともに文学に心惹かれ創作を行った。またそれぞれ自国の近代文学をリードする人となった点でも似ている。2人とも中国語、日本語、ドイツ語に精通していた。面白い対比であり研究対象だと思うが、紹介はこれまでとする。