円仁 唐代中国への旅「入唐求法巡礼行記」の研究(エドウィン・ライシャワー著)(その3完) | けんじいのイージー趣味三昧

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 さて、円仁は中国の、つまりは当時の唐のどこを歩いたのか、この本に掲載されている地図で説明しよう。まず、838年6月に下関あたりから出帆、2週間ほどで揚子江の北の海岸に漂着、上陸している。ここから大運河を船で揚州に到着する。

 

 

 もともと短期留学の予定だったので、近い天台山に行く予定だったが、許可がおりず、滞在許可も下りないため不法滞在を企図。当時山東半島では多くの朝鮮人が活躍していたことから、彼らの助けを借りて赤山で残留に成功する。

 

 ここで天台山に代わる聖地として五台山を紹介され、そこに向う。840年五台山を巡礼、続いて都長安、それは当時世界最大の都市にして最先端の文化の花開く都市であったが、845年までを過ごす。

 

 

 やがて仏教弾圧の時代になり、政府から追放を受ける形で 再び揚州を訪れ、紆余曲折を経て、847年山東半島の赤山から朝鮮の貿易船で日本に帰国する。この間ほとんどは徒歩旅行であった。

 

 

 この本を読んでの1番の印象は、円仁自身とその克明な記録ぶりを別にすると、ライシャワーも指摘している通り、当時の中国における朝鮮人の活躍である。ライシャワーは「この当時の朝鮮は地理的にも、言語的にも、文化的にもすでに今日と同じ国家であった。つまり現代世界における最古の国々の1つであることも意味する。現在のヨーロッパ諸国家は、朝鮮が形成されてからかなり後にやっと世界地図の上に現在の境界線にほぼ近い姿を現したに過ぎない」と言っている。

 

 実際、円仁は入唐時の不法滞在をうまく修行僧として切り抜けることに成功したこと、帰国に際しての山東半島でのお世話、実際に朝鮮の貿易船で帰国したことなど、すべて朝鮮の租界を中心とした新羅人社会のお世話になっている。この山東半島一体の海を仕切っていた朝鮮人の活躍を、ライシャワーは、「地中海沿岸の商人たちが果たした役割と同様に、中国、朝鮮及び日本の間の貿易を果たしたのは朝鮮人である、これはどんな歴史の教科書にも書かれていないが特筆すべき事実である」と言っている。

 

 

 第2は仏教弾圧についてである。ライシャワーは同じ宗教弾圧でもヨーロッパとは少し違うと言う。「西欧におけるキリスト教と回教との対立抗争や、キリスト教内部の兄弟喧嘩や宗教裁判のような観念で捉えてはならない、それらに比べると中国では宗教上の対立抗争はほとんどなかったと言ってよい。」

 

 そして「仏教に対する反対の声は、宗教的と言うよりはむしろ経済的な見地に基づくものだった。中国の行政官は、寺が課税されなかったり、有能な青年が得度によって税金を支払わなくなるあるいは兵役にもつかなくなると言うことについて恐れたのである。」と解説する。わかるわかる、これぞ中国だ。

 

 

 けんじいも、あれほど「自分は中華の国である、周りは夷狄である」という中国に、インドから入った宗教が盛行を見たことはちょと不思議な気がするが、儒教ではあまりに道徳的であり、まさに為政者=エリートのための教えであるため、死後は天国にといった一般大衆向きの宗教がなかったためではないかと思う。

 

 (もう一度円仁さん)

 

 なお、中国が昔から国際的であったことにも改めて印象付けられた。円仁の日記にも、会合にインドから来た僧や朝鮮、渤海から来た僧の話が出てきたり、日本から来て彼が行けなかった天台山に向かった同僚の動静を聞いたりしていることが書かれている。まさに世界から人材が集まる大国だったのだ。(終わり)