大学生になってから始めた読書記録がある。100ページほどになる。残念ながら高校生以下の時のように感想文は書いてない。単に読了した年月、書名のほか、著者、出版社が記録してあるだけだが、その第1ページの2行目(1行目は「怒りの葡萄」だった)に「菊と刀」(長谷川松治訳)はあった。

 今回改めて読んだきっかけは、光文社古典新訳文庫として、学校の後輩(もちろん知人ではない)が新たな翻訳を出して月例会で講演し、しかも参加者にこの本を贈呈されたことだった。昔の記憶はすでになく、一般に言われる「(アメリカ人の)罪の文化と(日本人の)恥の文化」の対比のみが頭の中に残っていた。しかし今回の訳者は「恥の文化についての記述はせいぜい数ページであり、この二元論は決して本書の重要なテーマではない」と解説した。

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  (けんじいが大学生の時に読んだ「菊と刀」)

 そして一番ページが割かれているのは、「義理と恩返し」であり、その次が「応分の場」という概念であるという話だった。その講演を聞いてから読み始めたのだが、けんじいがこの本で一番納得したのはそこでもなかった。以下、例によって印象深かった事項を3回に分けて摘記しよう。

 なお、原著者は一度も日本に行ったことなく、日本の書物や新聞、捕虜の日本人や現地の日系人からの話から、この作品を書いた。もっと正確に言えば、アメリカの戦時情報局からの依頼により、文化人類学者であるルース・ベネディクトが書いた報告書が基礎になっている。1944年当時、アメリカでは、米軍の損害を最小限にとどめつつ日本軍を降伏させる方法を探すこと、そして戦後の対日政策の立案が急がれる課題として浮上していた。

(1) 一番納得したのは、日本には中国と同様に、というか中国(語)から入った「忠」(主君や国家に対する忠誠)と「孝」(両親や祖先に対する責務)の概念はあるが、「仁」という概念がほとんどないか、あってもヤクザ間の概念に貶められているという点である。

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   (今回読んだ「菊と刀」)

 すなわち、日本と違って中国では「忠」も「孝」も絶対化されなかった。中国では「忠孝」の前提となる最上位の徳目に「仁」があり、支配者が「仁」を備えていない場合、人民は決起して支配者を打倒しても正義に反しないのである。上の方から「仁」(思いやりと訳されている)のこもった態度で扱ってもらうことこそが、人々が忠誠を尽くすための前提条件なのである。

 なるほど、中国では帝国末期になって政治におごりや緩みが出て「仁」が行われなくなると革命が起きて、次の支配者が現れる。しかし日本の忠誠は絶対化されているから、どんな悪政でも、今日の安倍政治のように続くのだ。改竄でも虚偽でも廃棄でも絶対的な「忠」の前には正義である。

 だからこそ、絶対的「忠」の対象である昭和天皇が「終戦」と言った途端に、あれほど徹底抗戦を叫んでいた軍部も即座に停戦となり、米軍は本土で予想されていた抵抗がほとんどなかったことに驚いた。政治の現状に鑑みても、けんじいにとってここが一番納得できるポイントだった。(続く)