永遠の夏 - l'éternel été - | 海豚座紀行

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──幻視海☤星座──

せみしぐれとはよくいったもので、どしゃぶりの眼にみえない雨音がアスファルトにしみいる。しかも8月にこれを耳にすると、うだる大気をやきこがす音のようにもきこえるのに、そぞろ枯葉がまう季節からおもいかえすと酷暑の疲労感もくるしさも濾過されて、やけに光度のたかい白堊の結晶体がトンネルのかなたにうかぶようなノスタルジアをかもすが、 「おもいでの夏」 はフォーレドゥビュシィのピアノ曲もしくは過去記事にもつづったピアノのせつないイントロではじまる松田聖子のナンバーなどをB. G. M. にしたさいに<いつ/どこ>という限定された時空からも乖離して、ながいトンネルのかなたで永遠のほほえみをたたえる。ピアノまでが石灰質にきこえる。われわれはその残響のながいトンネルをゆききしながら、いつでも夏にかえってゆく... さきの松田聖子がうたう佳品を作詞した松本隆は、はっぴいえんどの名曲でも喧噪やくるしみから濾過された永遠の夏の石灰質をみごとに定着させている。


$海豚座紀行-目白



「新潮文庫の100冊」 というキャッチ・コピイも、せみしぐれや木蔭の汗ばんだYシャツからうかびあがるようにおもわれる... この齢になるまで坂本龍一の音楽になじまなかったが、むかしTVで新潮のそのキャンペーンCMをみて、アップでとらえられたレトロな青年の顔にぼくは魅いられたものだった。ただし直後にデイヴィド・シルヴィアンの美貌との衝撃的な邂逅をはたしたため爾餘もなお坂本の外見をつうじてその音楽にもひかれることはなかった。ともあれキャンペーンのたびに大型書店で無料配布される新潮の小冊子におなじころ村上春樹などとともに松本隆もエッセイを寄稿していた。ランボオ、ロートレアモン、コクトオ、ラディゲのことが書かれていた。フーケやE. T. A. ホフマンなどのドイツ゠ロマン派のメルヒェンをひもときはじめたばかりのぼくとっては未読の──さりとてページをめくるまえから自分がいずれ魅せられることもわかっている──ひらたくいうならエルメス、ディオール、ロマネ゠コンティ、ドン・ペリニョンなどのブランドやヴィンテージが世間におよぼす効果とおなじで、およそ文学少年はページをめくるまえからフランスのこの4人の天才のファンといえよう。

ことに松本のエッセイのなかで4人のそのカタカナ表記が、あじわったことがない虹色のキャンディのようにもみえた。じつにそれらは隕石をカットしたもので、ひとたび口にいれるや彗星のまっしろな光芒をひきながら、はるか数億光年さきの銀河を脳裡にうかびあがらせるかもしれない... あのころ松田聖子の歌声および松本の歌詞がぼくにとって文学の曙光だったことは過去記事にくわしいので今回はふれない。ただし元来がぼくは歌詞をかみしめてポップスを聴くタイプではない。あのころも松本の天才的語感がやはり松田聖子の歌声からひろがる宇宙をさながら摩天楼のような星雲でうずめた光暈にただ語意もくまずに眩惑させられていたにすぎない。だからCMソングとして中学生のころから耳になじみすぎるくらいになじんでいた大瀧詠一の名曲「スピーチ・バルーン」も、せんだってランニング中にふと歌詞をかみしめるように聴きながら、はじめて描写された情景の非凡さに気がつかされたしだいだった。

いたずらに聴きながして、わかる歌詞でもない。ことばの迷路をくぐりぬけたすえの幽邃がここにある。ところで大瀧詠一といったら代名詞/永井博のイラストをおもいだすし、 『FM STATION』 の鈴木英人による表紙もつられて記憶からうかびあがる。おまけに銀色夏生やその作詞によるみんなのうたの1曲: 『チョコレット』 などの稲垣足穂の短篇はいまだにそれをおもいだしながらページをめくるくらいだが、 『詩とメルヘン』 の毎号の表紙もあの曲のイラストを手がけたひとの作品がつかわれていたのではなかったか? 『FM STATION』 『詩とメルヘン』 などの雑誌が商品として成立しえた時代はなんにせよ牧歌的でよかったとおもっていたやさきに高知でなんとアンパンマンミュージアムとならぶ詩とメルヘン絵本館にたどりついて、やなせたかしの全貌(ヴィジュアル゠パノラマ)がほぼ運命的にぼくの眼のまえでひらかれた。

ここまで本記事を書きすすめて、ふだんの文章の毒性はおろかスパイスもみあたらず、いたずらに夏のノスタルジアに淫しながら、おもいでの糸を無邪気にたぐりよせるばかりだと気がつかされるが、「えゝゐまゝよ」 とエッセイストならぬパッセイスト(過去追慕者)たる斷想塔一狂生は1日のおわりのアルコールをすする... わかき喪主よりブッカーズがとどけられた。こんなものをお布施してくれるひとは死してのちの涅槃境/羽化登仙もほぼ約束されたようなものといえよう。ごらんのとおり☟北斗南斗の拳士たちも総出でよろこんでいる。ボトルがからになったあかつきには木箱もかれらのすみかとなろう... さるにてもネット社会が '80年代的なものの商品価値をことごとく剥奪したという以上にいまや気温40℃にせまらんとする殺伐とした炎暑そのものが往時のせみしぐれや詩情からは怪物的なまでに乖離して、おもいでのなかにしか夏という結晶体はもはや存在しないのではないかという悲哀もつのる...


$海豚座紀行-ブッカーズ



いたばし、東京湾、神宮というメインの花火大会がことしは週がわりで土曜日にひらかれた。ここちよい夜風がふきわたる土手にすわりこんで、ヴーヴ・クリコのクリーミィな気泡をあじわいながら至近距離できらめく火焰の乱舞をみあげていると、いたばしの迫力がいちばんだなと軍配をあげそうになったが、あくる週にたそがれの銀座からクーデタの砲声があがったような轟音をききつけると、やっぱり東京湾だとおもってしまう。うちあげられる花火もいっそう精緻で綺羅をきわめている。とはいえスタート早々にどちらも有機ELおよび液晶画面からうかびあがったミクロの花火のかずかずで視界をうめつくされたのは、いささか閉口... はたしてスマートフォンとはなにか? ただ横着に拙速におのれを外部とむすびつける触媒にすぎないのではないか!? はらだたしいのはぼく自身もいつしか夜空にそれをむけて、シャッターをきりつづけていたことだった。いたるところに全体主義の陥穽(わな)がひそんでいる。

すずしげに夜風がふきわたっていた1週間まえの河川敷とちがって、むっとくる鮨飯のにおいにおおわれた築地汐留界隈はまさに無風の炎熱地獄だった。とちゅうで花火をきりあげて西新宿<龍馬の空>を涼亭にえらぶ。ちなみに高知滞在で栗焼酎のおいしさもおしえられた。かつおの塩たたきや土佐はちきん地鶏を、ダバダ火振、文旦いりの龍馬ハイボール、司牡丹の船中八策でながす... まぶたをとじると四万十のながれよりも透明度がたかい仁淀ブルーがうかんでみえる。ブルーというよりも銀色にかがやきながら、ぼくの脳裡でそれはもっとも勁烈な思考のながれとつながっている。いつしか環境破壊の魔手はあの山水にもおよぶにちがいないとおもうと、ぼくの思考からも銀色の光輝はうばわれて文字どおり暗澹たる虚無におしつぶされそうになる。いただいたばかりのポーランドの高級ウォツカを、のがれようがない熱帯夜の〆に自宅であじわう。まじりけのない濃密なつめたさが白熱して肺腑をやきこがす。まっくらな脳裡でふたたび銀色のながれが燦爛として清冽にせせらぐ... ありし日のゴンブロヴィチも故郷でこの比類がない透明な蒸留酒☟をあじわっただろうか?


$海豚座紀行-ベルヴェデール



『春日山残照』 というタイトルで晩年の不識庵謙信を短篇にしようとしたことがある。はたからは摩利支天の化身をうたわれて、みずからも七言絶句をうたった戦場の詩人のひめられた懊悩をぼくはその生涯不犯にみるが、 「死」 がこの驍将の内面もむしばんでいたとしたら? わかき日に京洛で遊女から黴毒をうつされて、くやんだすえの不犯のちかいだと巷説にいう... いくさで落命することを秋毫もおそれない英傑の体内にもじつは自身をむしばんでゆく病魔にたいする恐怖が巣くっていたとしたら? からむしの産出はこのころ金山採掘とならんで越後上杉家のおもな財源だった。からむしは苧麻ともよばれて、マリファナとおなじ成分はふくまれていないにせよ瞬時にぼくがそこから連想するのは居館春日山城の毘沙門丸だった。おりにふれて聖将謙信がその堂宇にこもったという逸話も群雄とはことなる神秘性やストイシズムを止揚するものだろうが、ことによると祈禱のあいだ焚香される五壇護摩のけむりは大麻をふくんでいたのではないのか? 「死」 の跫音をむなしくもその陶酔でかきけそうとしていたら? いくさで散華するのはよい。さりながら生涯をかけて両手両脚両耳をもがれるように体内がすこしずつ腐爛にむしばまれてゆく予感はいかなる超絶勇武もくじいて、エロイカを幽憂させるものといえよう。

まだ入道宗心景虎を名のっていたころ麾下の唐沢山城からとどけられた3万5千の北条軍に包囲されたという急報: 「八幡まゐるべくそろ」 わずか40騎あまりで甲冑もつけず救援にかけつけた神がかりな越後の若大将を敵勢3万5千はおそれるあまり左右にしりぞいたので、いきおい孤城までの直道がひらけたとされるが、 『関八州古戦録』 のこの逸話はもろこしの白髪三千丈めいた筆のすべりにちがいない。それでも虚構がロマンの砂けむりをたてて、この逸話から史実になだれこんでゆくような偉観もわれわれの脳裡にひらけるとしたら、じっさいの青年景虎にもアラビアのロレンスめいた超越性はにじんでいたのかもしれない。ちなみにtwitterTwitterでは以上のことをもっと凝縮された文章表現にしたてた。もはや高等数学的にことばを処理する140文字にしか興味がわかない。ともあれ謙信がくだんの腐爛の恐怖をじっさいに体内にやどしていたなら、いくさという動的な空間でその天才表現をほしいままにするほど日常という静的な空間はかえって無力感の泥沼におちこんでいったのではないか? えがくべきは戦記ではなく日常。とかく謙信をえがいた作品を川中島でしめくくる既存の歴史作家たちのセンスのわるさにも不満をいだきつづけてきた。ほんとうはそれ以降がおもしろい。わけても機山信玄が薨去してのち実像をこえた無敵上杉の虚名ばかりが天下をかけめぐって、ついに謙信能登侵攻の密使は大和の梟雄松永弾正少弼久秀をして右府信長にたいする全身全霊の叛逆にふみきらせたり、たたかわずとも手取川で柴田修理亮勝家や瀧川左近将監一益がひきいる織田北面軍を潰走せしめたりしたようすも以下の落首☟にみられる。

上杉に逢うては織田も手取川
はねる謙信逃げるとぶ長(信長)


いくさから飛翔してゆく超世的な虚名のたかまりは、ますます晩年のその実生活のほうを暗澹たる停滞にしずめていったのではあるまいか? やまやで買いこんだバカルディ、ヒューガルデン、ハイサワーなどを両腕にぶらさげて、お盆の視界もゆらめく炎天下の白昼をあるきながら、なぜか大僧都謙信におもいをはせつづけた。けだし謙信という仮象もポーランドの高級ウォツカや仁淀川のブルーとおなじ清冽さでつらぬかれているようにおもわれたからにちがいない... きょうれつな光と影とにさらされた夏のひるさがりは非゠現実的にみえる。ママチャリにのった女性がはるか前方をゆく。ながいスカートが熱風をはらむのをみていると、プロペラ複葉機からおちてくる入道雲をひきちぎったような無数のパラシュートが脳裡にうかんで、ひとっとびで戦時下のヨーロッパにタイムスリップしそうな眩惑をおぼえる。スカートとともに<現実/現在>もとおざかってゆく... ひるさがりという沙漠をなかば永遠にあるきつづけなければならないような錯覚をおぼえながらも帰宅後にカルロス・クライバーの “オール・ウィーン・プログラム” 海賊盤2枚組CDを聴いていると、おもいもよらない方位から紫紅色のたそがれがにじんで、はやくも18時をまわっていた。うずをまきながら夏の雲母がきらめく。そとにでるとアスファルトでべつのママチャリが回想のようにタイヤのながい影をひきずっていた。プールで2.5㎞のクロールを消化した。シャワーをあびて冷酒を手酌した。


$海豚座紀行-越之景虎


「合一」 Vereinigungen という総題があたえられたロベルト・ムージルの2篇およびアルバン・ベルクの3つの管弦楽曲を、ざっと15年以上も賞翫してなお倦(うん)じうることがない。それらはメロディ゠ストーリーというマクロのドラマから解放された芸術表現のあらたな地平゠鉱脈の可能性をきざしている。しかも音楽/文学の複雑性および機能の拡張はそこで極限に達したため以降のアート史はあくなき劃一化をしいるマネー経済やサブカルチャーの支配ともあいまって単純化に堕する傾向がはなはだしい。ぼくは冷酒をやりながら沈思する。われわれの日常はなるほど海のなぎで風ひとつ波ひとつもたてない... たいくつさに支配された文字どおり無調の世界かもしれないが、たいくつなその日常を構成する原子1個1個のレヴェルではどれだけ波瀾にとんだ異界のあらし、奔流、吹雪などを内包していることか!? 『天使派:素描』 なる拙作は沙漠のように不毛な日常をいわば顕微鏡でのぞきこみながら、なだれをうって顕現する生活のドラマティックな記録にほかならない。ムージルやベルクを自分なりにメロディ゠ストーリーからの解放ばかりでなく、ミクロの可能性にむかう潜航のなかで緻密に様式化された無調として解釈したうえでの創作といえるし、もとより売文市場とはべつなところで公表/味読されるすじのものだった。

『半沢直樹』 というやつをTVでみる妻に5分間ばかりつきあって驚愕した。ふるくさいこと言語を絶するドラマで、ひっきょう水戸黄門の羽織はかまをスーツにかえただけのことではないか!? およそ人情はかわるものではないということを骨の髄まで痛感させられた。スティーヴ・ジョブスの病歿時にtwitterが騒然とした。ぼくにはどうでもよい偉人だったが、 「ジョブスの革新性」 「アップルの先進性」 うんぬんを附和雷同ではりさけんでいた連中こそがそんなものとは無縁のありきたりな精神のもちぬしだということは自明だった。かれらは水戸黄門をいやがりながらもスーツに変装した水戸黄門のドラマにかじりついて、ふるくさいといって演歌をいやがりながらも演歌とかわりがないポップスのヒットチャートにくらいつく──もしもロックやポップスがセールスのほかに1%でも表現の革新性をめざしていたら、とっくのむかしに12音的な破綻をむかえていたにちがいない──いや1974年にリリースされた悲愴きわまるキング・クリムゾンの “RED” でロックはすでに敗北宣言したではないか!? きゃりーぱみゅぱみゅだとかPerfumeだとかの唾棄すべき手あいが '80年代から輪廻や永劫回帰のようにパッケージをかえて賞味期限をはりかえて売買されつづける表現上の自我をもたない日本のいわば盆おどりにすぎないミュージックシーンにもリスナーにもいやけがさすし、 『半沢直樹』 につきあわされた5分のあいだナボコフの短篇のかかる文章(中西秀男訳)☟もひきあいにしながら、ぼくは妻にこのドラマの不毛さ低劣さをののしりつづけた。

いわゆるサイエンス・フィクションなるものをぼくは断然軽蔑し排斥する。あれを調べてみたところが雑誌に出ている例のミステリー小説に劣らず退屈だ。やはり会話ばかりやたらに多く、古くさいユーモアだらけの何とも気の抜けたしろものだ。きまり文句にはもちろん変装が加えてあるが、本質的にはやはり安っぽい読物と同じことで、舞台が宇宙を股にかけようが居間の中だろうが変わりはない…(中略)…単に視覚的価値をいろいろ変えさえすれば、よけいな経費はかけなくても風味まで変わって、やがてはそれが風味そのものになり、結局、それが才能と真実として世間に通ることになる。


『エヴァンゲリオン』 なるものもまともに眼にしたことはないが、どのみちナボコフのいうとおりで宇宙が舞台だろうがアパートの4畳半だろうが精神のつきなみな矮小さはかわるものではあるまい。かってにハリポタ・シリーズの続篇をつくってやろうかともくろんだこともある。うすっぺらなマジック゠ワールドを4畳半における日常の “深淵” になげこむ。あと1ヵ月で20歳をむかえるハリー・ポッターはいっさいの魔力をうしなって、アパートで貧乏ぐらし... かつての冒険やファンタジィは記憶からきえうせていても、こどものころは夢や驚異にみちあふれていたという感触だけが肌にのこされているから、いま自分をとりまく世界はそれだけに不毛でたいくつで、なにもする気がおきない。つまりニートとして19歳のハリーもネットの別世界に生きている。かつての魔法学校からは、もうしわけのように毎月700ポンドがなぜかハリーの口座にふりこまれる。なま殺しというか飼い殺しのようなその微禄で生活するハリーのオナニーしたりチャットしたりの日常をアパートのうすよごれた壁にカメラをしこんだような盗撮手法でえがいてみたい。ただしシリーズ第1作くらいはページをめくるかDVDでみるかしないと続篇も書けないだろうが、わずか数ページ/数分でそれらを壁になげつけたくなることもわかりきっている... まだ週のなかばとてカルディでみつけたモヒートに、ライムならぬシークヮーサーをしぼって、かるく今宵の暑気ばらいとする。


$海豚座紀行-カルディ_モヒート



「なう」 に抵触すると忿怒でぼくの文章はにわかに殺気をおびるらしい。それはよいとしてハリウッド映画もTVドラマもその精神はスクリーンや画面の寸尺をこえるものではなく、こんにちPCモニタやスマートフォンの寸尺で精神はますます矮小化しているにちがいないことはSNSにあふれている “声” からもうかがわれる... お盆の金曜日でも二郎にゆく。ならんで食券を買ってテーブルにつくと、まわりはあらかた死んだ眼でスマートフォンにかじりついている。なんという荒涼とした情景... ものすごいスピードでディスプレイ上に文章をはじきだすサラリーマンのゆびさきが昆虫の触手のようにもみえたが、これからも執拗にぼくはネットをつうじてネットを糾弾しつづけよう。こんな情景はまちがっている。みんなが端末のちっぽけな甲殻にちっぽけな自分をとじこめて、かたつむりみたいに存在している。もっと眼をみひらいて、まわりをみろ。じつに興味ぶかい厨房のありさまや峻厳きわまる店主のふるまいに刮眼しろ。こんやのスープはひときわ乳化して太麵にからんでいる。となりの男はそんなこともどうでもよいというぐあいにtwitterのタイムラインをスクロールしながら昆虫の無表情でラーメンにかじりついている。そこまでしてチェックしなければならない情報も名文もしみったれた140文字の世界には存在しない。こんな情景はまちがっている。ぼくは端末を自宅においてきた。うざすぎる。お盆のあつまりのスケジュールもちかごろはLINEでまわってくる。

「ハリー・ポッターとのぞき部屋」 「ハリー・ポッターとヤフコメの住人」 「ハリー・ポッターと附和雷同の騎士団」 「ハリー・ポッターと違法のタブレット」 などの続篇タイトルをかんがえて観念のうすぐらい鍾乳洞をくぐりぬけながら、またぞろ土曜日の夜がめぐってきたことに気がつく。ランナーがゆきかう宮門(みかど)の外苑をあるいていると上空は神宮の花火にいろどられはじめたが、 「風街」 と松本隆が名づけたエリアにとりわけカラフルな夢のスパンコールがふりそそいでいる... ぼくのネット上の産声も3年まえのこの花火からうまれた。しかも夜空が虹色にいろどられるや思考の圏外から火花とともに推敲もなくタイムライン上にその70文字がふりそそいだ点でひときわ愛着がふかいtweetといえるし、 「想い出のブラス・バンドが/耳元を過ぎる」 という上掲の大瀧詠一のナンバーのたぐいまれな歌詞につうじるセンスが、はなはだ僭越ながらこの1stポストにはみられるような気がしないでもない。ぼくという書き手もひいては松本隆の言語空間からうまれたのだといわばいえよう。

もとの母宇宙から子宇宙、孫宇宙、ひ孫宇宙がうまれて、ぶどうの実がつらなったような実体はユニ(単一)ヴァースじゃない。いわば多宇宙(マルティヴァース)…(中略)…ほんとに宇宙は詩的パワーでうみだされたものかもしれないぜ? みえない詩句(ヴァース)のかずかずでさ。


うちあがる花火打ち上げ花火をながめていたら、くだんの電子書籍化した拙作の文章がまことに我田引水ながら脳裡にこだました。もしも宇宙のかずかずがビッグバンの特異点からうまれて、ビッグクランチで消滅しつづけているとしたら、たとえ生滅のあいだに何百億年がすぎたとしても文字どおり花火がうちあがるような連続にすぎず、いきおいそこには無時間性がみられるばかりではないか? たえず炸裂/消滅しつづけるなら宇宙はひっきょう追想にすぎないようにもおもわれるし、 「おもう」 という万人めいめいの行為がひいては爆発的に──おのれと他者との境界であらたな宇宙をうみだしているのではないか? みえない詩句(ヴァース)がまさに宇宙をうみだすのではないか? ちなみに物理学のおもしろ本にも、ミクロな系をきわめて短時間にかいまみると、そこには宇宙を爆発させるくらいのエネルギーがあふれていると書かれていたが、 「おもう」 行為──かんがえること、ひとをすきになること、すぎさった日々をしのぶこと、ゆえだもなく不安にかられることなどのいっさいは、マクロの現象をミクロの構造として拡大視することではないか? ことばが介在しない領域でそれらは動物もおこなっていることではないかと拙宅のパピをみるにつけ想像する。われわれの思念というミクロ゠マクロの摩擦から無数の宇宙がうまれて、おなじぶんだけ消滅してゆく... さなきだに松田聖子/松本隆によって '80年代の東京の夜空にレーザーライトの弥勒菩薩をみいだしていたぼくの少年時代は、けっきょく稲垣足穂の名ぜりふに収斂されるのではないか? 『錻力の太鼓』 をひさびさに聴きながら、こんやは京洛伏見の銘酒2品☟できめる。


$海豚座紀行-招徳英勲



さても上掲の伏見☝うんぬんで本記事はしめくくるつもりだった。なんにせよ夏はぼくをぼくなりに雄弁にするらしくAmebaかけだしのころの記事の続篇ができればよいなとおもって、ノスタルジックに8月のはじめから書きつづけてきた。しかしレイアウトどおりに脱稿しても満足しない。だいたい自分がどうしてAmebaなんぞという低劣なところでブログを書きつづけているのかもわからない。もの書きなら別所をさがすべしとドギヰ氏リサからも再三の助言をいただいて、ひところはミラーサイトもつくってみたが、けっきょくはここ1本にしぼっている... ともあれ脱稿から1週間がすぎても本記事アップをぼくの直観は諒承せず、きょうという8月のさいごの土曜日をむかえた。なにかがたりない。このままでは書かれる必然性がみいだせない。ひとに眼をとおしてもらえる品質にあと1歩がおよばない。ピリオドがたりない。ブログだから気ままに書いてアップすればよいという定石もぼくには通用しない。けだし書くうえでの困難がない局面には書くよろこびもうまれないし、 「やっぱりガイジンのことを書かなきゃだめか?」 と本記事にとりくんだ8月初旬から脳裡をよぎっていた懸念がいやます。しかし書くとなると当人がうつった画像もかってにアップしなければ記事はおさまりがつかない... ためいきをついて、ふたたび下書きにむかう。 「えゝゐまゝよ」

「なあガイジンって知ってる?」 ある日の下校時にとつぜん鶴ちゃんがたずねた。ぼくたちは小学4年生だった。クラスメイトになった1年まえから鶴ちゃんとぼくと本間やねんとの3人はいつも下校をともにしていた。アメリカ人みたいな2年生の女の子がいるらしい。ぼくや本間やねんのまえで鶴ちゃんはどんなに彼女が醜悪な存在かをうったえたが、 「いた」 と声をあげるなり話題のその当人をみつけた鶴ちゃんはちかづいて悪罵のかぎりを相手になげつけた。なるほど日本人ばなれがしている顔だちだった。おもえば中世ヨーロッパの農村で魔女とみなされた相手に石つぶてをあびせる偏狭な百姓にもちかい鶴ちゃんの言動は日ましにエスカレートして、ぼくたちが3年生だったときに新入生として眼のまえにあらわれた彼女にたいする未知のかきむしられる感情が日ましに鶴ちゃんの内部でつのって、あんな迫害におよぶのだろうということも日ましにぼくや本間やねんにはわかってきた。ガイジンに恋する鶴ちゃんは4年生ではやくも不良予備軍のやばい顔つきをしていた。このころ体格差がある上級生もぶちのめした根性はなみたいていのものではなく、およそ10年後に再会した鶴ちゃんはさらに武闘オーラ全開になっていたが、 「まだ学生やってんのか?」 というなり失望のおももちで以下のせりふとともにぼくの視界からきえた。 「はたらいて金をかせぐのが正解だぜ」

さて3年生になったガイジンはぼくの妹とクラスメイトになって、わが家にあそびにくるようになった。ぼくもおしゃべりにまざることはあったが、べつだん恋することもなく小学校を卒業して、ガイジンのことはわすれた。いつだったかは正確におぼえていない。おばちゃんがひとりで店番していた文房具屋があって、ひろびろとしたスペースにゲーム機や駄菓子類もおかれていたから、ぼくたちの小学校時代のたまり場になっていた。コピイ用紙を買いにいったのだとおもう。ひさびさにおとずれた店内はむかしとかわらず、おばちゃんは白髪のおばあさんになって、ひろい店内をひとりで管理するのは骨がおれるし、さびしくもなってきたらしく、レジのむこうでアルバイトの女の子といすをならべながら談笑していた。ガイジンだった。ぼくの体内をつよい逆風がふきぬけた。どうやら美は疾走するものらしく、ぼくの感性はそのころになってようやく彼女のうつくしさにおいつくと、なかば無意識にたちどまったものらしい──たちどまったとたん現在からはるかな過去にながれこんでゆく──もうれつな逆風にさらわれたが、 「あそびにいこうぜ、バイトをきりあげてさ?」 などと動物的な本能でぼくがレジごしに対峙する美にむかって口をひらくと、ふたりぶんの哄笑があがった。

「ご予約ずみなの」 いっしょにわらう相手をゆびさして、おばあさんがジョークめかしたことをいうと、ネタにされたほうは口もとに微笑をのこしたまま顔をうつむきかげんにした。この世ならぬアルカイク゠スマイルにみえた。レジの彼我は1, 000年の時空にへだてられていて、こちらがそれに気がつかないことをほのめかす神秘のおもざし... いまになってその陰翳がふかい表情から、ダ・ヴィンチの手になる女性のデッサンをイメージするし、 『ロリータ』 のなかでナボコフがことさら精妙にえがいたラストシーンをおもいだすことも爾後のつねになっている。ぼくはレジのほうに身をのりだした。おばあさんは彼女のうつむいた顔ではなく、やさしい枇杷のふくらみをおびた腹部をゆびさしていた。もしも鶴ちゃんが未来の伴侶/父親だったとしたら小説よりも奇なりとするべきだが、はたして彼女がだれといかなる家庭をきずいたかはさだかでない... さて被写体ご本人さま、ひょんな偶然から当ブログの本記事をごらんになられて、ご気分を害されましたら、ごめんどうながら一報をください。すみやかに画像の削除にとりかかります。ただし無断掲載してさえ書き手のそれがしには “永遠の夏” をもっとも甘美にせつなく現在におしひろげてくれる1葉のスナップショット☟にございます。


$海豚座紀行-永遠の夏