夢酔毒言 | 海豚座紀行

海豚座紀行

──幻視海☤星座──

「義母」 としるすのがてっとりばやいだろうが、ぼくの妻のご母堂○○さんは清楚可憐なひとで、こちらが悪辣貪婪なぶん逆にプラス/マイナスの電極めいた作用もはたらくせいか? すこぶる気があう。あそびにゆくと彼女はたいてい近所にすむ小学校いらいの親友ミドリちゃん&モモちゃん──はからずもつながりの親友ふたりのために抹茶をたてて、おしゃべりに花をさかせているところで、こちらも3人がすわるテーブルからすこしはなれたソファにもたれると、そろいもそろって下戸だらけな妻のこの実家にもむりやりボトルキープ中ラムのラムをすする。あまりに毒も罪もなく、たあいがないマダム3人のはなしに閉口しながら、かえってそれだけに奇怪で淫猥なイメージが、ひとの皮膚もただれさせる魔境の瘴気のように散士のぼくの妄想からわきたっていったが、おりから山田風太郎を愛読しているせいか? 『人妻忍法帖』 という毛筆書体のタイトルが3人のすがたから煽情的にひらめいたかとおもうと、オープニングの殺陣のシーンも幻視させられるが、 「忍法帖」 と銘うちながらハヴァナクラブ3年をすする夢酔のわが脳漿からうまれたタイトル映像は現代ドラマのもので、わけても日活ロマンポルノじみたといおうかエロティックな昼メロのたぐいらしい...

まずは3人のうちのひとりが漆黒の野袴から砂塵をまきあげて、いくさ場で長刀をふるいながら、おびただしい敵勢の血けむりにまみれてゆく。たすきがけに緋色のはちまきという巖流島の武蔵とおなじ装束のこの人物は、ミドリちゃんではないのか!? 「ぶった斬る!! 『男』 を斬る!! <淫虐の剣豪>荒木烈翠」 かえり血をあびた鬼面にちかいミドリちゃんのアップ静止画にそんな役名紹介のテロップがおどると、カメラはいよいよ戦場のべつのところで妻のご母堂○○さんをひろう。いでたちは陣笠に鎖襦袢で大砲(おおづつ)を右肩にかつぎながら、せめよせる敵勢をこっぱみじんに粉砕: 「しぼりとる!! 『男』 精をしぼりとる!! <火あそび官僚>内倉主膳」 のテロップがきえさると、シーンはたちまち雨音もしげく山里の夜のふしどに一転する。そこでは3人の主役のラストをかざるモモちゃんが篠笛をふくみながら嫋々たるしらべに淫しているが、まぶたをとじているので短檠のゆらめきから背後にうかびあがった獣慾でもえたつ匪賊の100のまなざしはみえていないのではないか!? 「みえる... めしいても殿方のおもいは、みえすぎるほどにみえまする!! <盲目の恋妻>桃知検校」


$海豚座紀行-イータリー代官山



「人妻忍法色地獄!!」 さいごに3人は空中でさしずめ運動会のくみたて体操のように手をつなぎながら、ものにした女性は1, 000人をくだらない敵将゠ラスボスのAV男優ソフトボール鷹山にむかって必殺技をくりだす。ただしオープニング映像がおわって本篇がはじまると、ふつうに都内の住宅街を舞台にした昼メロがはじまるが、くだらない妄想のためのこの余の詳述はさしひかえる... さっそく小説のことに話題をうつす。かびくさい日本文学史とはべつにぼく個人の史観があって、そこでは荷風散人や夏黄眠や稲垣足穂や小栗虫太郎がたからかに熾天使(セラフィム)のらっぱをふきならしているが、もとより山田風太郎はことばの麻薬でわれわれを眩惑して、ことばの妖風でわれわれを狂爛させる文学史上の大幻怪にほかならない。ことに出版不況のおりから気息奄々というか餓死すんぜんな現代作家のていたらくをよそに山風の絢爛たる文章世界はこのさきも千両役者さながらに大量の読者/印税をすいよせてゆくにちがいない。わが手もとにある忍法帖シリーズは、ちなみに金井美恵子や奥泉光といった純文学のそうそうたる顔ぶれが巻末解説をものしている。

わたしの情夫(おとこ)になりたけりゃ
金をつめ
わたしはやさぐれ悪たれ面汚し
酔いどれ女はぁぁぁぁ~
○○でござるぅぅぅぅ~


いけない、いけない... またぞろ妄想があたまをもたげてきた。かねてより妻のご母堂○○さんに架空のステージでうたわせているブルースがきこえてきたが、 「くどかれちゃえばいいじゃん、メス猫だもの」 という創作記事にはさんだ歌詞もじつは妻のご母堂○○さんにアコギ1本でうたわせていたものだった。しかし妄想はわすれようとするほど内部からよけいにこみあげてくる──いっそ〇〇さん&ミドリちゃん&モモちゃんのほかにあと2名で “人妻戦隊/インランジャー” をやってはどうか? くだらない妄想を書かせたら、もとよりゴンブロヴィチはぼくよりもはるかに雄勁──まじめに論評しているひともあまり眼にしたことはないが、 『結婚』 という戯曲がとりわけ破格だった。およそ創作では忌避される夢オチも意に介さぬどころか舞台設定は青年のねむりのなかの夢──そこが夢の世界だと青年もうすうす気がついている──はれて除隊して戦場から帰省すると、なんと青年の両親はつれこみ宿&居酒屋をいとなんでいる。そこで青年のフィアンセも酔っぱらい相手の女中&淫売をつとめている。しかも居酒屋をいとなむ青年の両親は国王皇后でもあるという奇矯な設定で、あらくれた酔っぱらいどものまえで卑屈なジョークをとばしながら、ごきげんをとりむすぶ父親のすがたをなげいた青年はもっと国王に敬意をはらえと怒号するが、じつのところ酔っぱらいどもは宮廷にはべる貴族議員でもあって、かれらの陰謀にのった青年はやがて父親から王位をうばったあげく淫売のフィアンセと結婚式をあげるという作品のあらましもまさに破格のきわみではないか? つねにぼくが現実の清楚な〇〇さん&ミドリちゃん&モモちゃんにインランジャーをかさねあわせているように、ゴンブロヴィチも自分をとりまく現実/妄想の<二重情景> Doppelszenen におびやかされるいっぽうで、ほくそえんでいたのかもしれない。

「歌の力」などという標語が生まれる時代というのは、歌が力を失った証拠なのだと思います。


さて本記事をうずめるものは、にわかに夢酔のことばから毒言にかわる。ここからは積極的にいろいろなライターのことばも籍(か)りてゆく。ちなみに上掲文は村上龍BOTからひろったもので、けだし名言なりという常套句でうなずきたくもなる。チャリティというものに虫酸がはしる。ミュージシャンや俳優たちの常套句: 「うたうことや演じることで被災地のみなさんをはげましたいんです」 ばかどもの常套句: 「やっぱ歌ってすごい。みんながひとつになれるから」 かりに自分が被災したとするなら、だいすきなアイドル(EX:80年代初頭の松田聖子)やBOØWYのころの氷室京介が眼のまえで熱唱してくれたからといって勇気づけられるだろうか? 「それとこれとはべつだよ」 なんて愚痴るにきまっているし、あの世からアルフレド・コルトオがジャック・ティボオとともに降臨して、プルーストはおろか落魄のヴェルレーヌも陶酔させたという名演をきかされても廃墟の絶望からたちなおることはあるまい... ちなみにこの両巨匠の演奏を蓄音機で聴いたあとにパリのレジスタンスがひとりずつ市街戦で玉砕していったというのは、いまはなきヴァージンの店員ヤマシタY下達郎(※過去記事参照)が書きそえた名調子のCDレヴューにほかならない。





「すくわれました」 かんちがいをする無数のばかどももいるにちがいないが、かんたんにAKBなどから救済されて、ピンサロ気分で昇天笑する連中のその無自覚のほうが永遠にすくわれない悲惨さをおびてみえるし、おぼれ死ぬものの鼻口から水面にわきあがる無数のあぶくのようなやつらだともおもってしまう。ステージ上から被災者のために熱唱熱演するミュージシャンや俳優のまなざしが、ぼくの脳裡では選挙活動する立候補者のまなざしとかさなりあう。かれらも街のひとびとと熱い握手をかわしてゆくが、ひとりひとりをみているのではない。あくまでも投票者のマス゠総体をみさだめているにすぎないし、「全体は虚偽である」 というのはアドルノの至言──いっぽうでミュージシャンがみるのも被災者全体──ひとつになったパワーにほかならない。ライヴも政治も全体主義にかわりはない。ぼくは全体主義をきらう。オリンピックやワールドカップ、ファミレス、カーニヴァル、 『愛は地球を救う』 も認識上の仇敵とこころえて、ネトウヨをほふった血刀でうすっぺらなインターナショナルも袈裟がけに斬りさげる。

マーラーには、お祭り交響曲というジャンルがある…(中略)…お祭りとは、個々の問題など一切取り合わないのだ。人間の個々の感情に対応できる懐の深さはない。何もかも犠牲にして、そこに強度しかもたらさない。


ひとつになった大衆をマーラーの交響曲第2番にかこつけて、いじわるに手ぎわよく☝鈴木淳史はおちょくる。ところでファミリーマートの入店テーマも虫酸がはしる。ならんだ商品もそのせいでますます劃一的でやすっぽくみえる。インターネットおよびSNSというものが、だんだんとファミマのその入店テーマのようなものにおもわれてきた。ひとつになるかたわら大衆はそれぞれネットの世界でやすっぽい孤独にすがる。だれもがそこでは口をひらきながら、やすっぽい絶望をつぶやく... やすっぽさを嗤殺してやりたくて、ぼくは上掲の文章がおさめられた新書を鈴木と共著した許光俊の文章もひく。ここで文中のラフマニノフをたとえばSNSユーザにおきかえて、ピアノをPCのキイボードにおきかえたとしても、なんら齟齬はみられない。

ラフマニノフは自身ピアノの名手だった。だが、それゆえに彼のピアノ曲はピアノ好きでない人間には苦痛かもしれない。私ですら、時にばかでかい音の塊のような彼のピアノ曲を聴いていると、この人はピアノの音が鳴っているだけで嬉しくて仕方がなかったのではないかと、音の多さに閉口しないではない。なぜこんな人間が神経衰弱になったのだろうと意地悪に勘ぐりたくなるほどだ。自分の悩みを何でもかんでもあからさまにしゃべったり相談して図々しい印象を与えるくせに、ノイローゼになる人間は、確かにいる。



「小説家」 という職業はおもうに病的であつかましいダメ人間どものなおかつ消去法で選択/志望されるものではないか? もしもギターやベースがひけたらミュージシャンをめざすところだが、ずうずうしくて怠惰だから楽器をマスターする努力もせず、マンガをかいたり演技したりする特技もなく、ひとをひきつけるルックスおよび内面の魅力にもとぼしく、まともな会社勤務もまっぴらごめんで、ひとづきあいもめんどうで、ひっこみじあんで自宅にこもっているのが楽だから、せまい部屋から一歩もでることなく手もとにあるものをひきよせて、ひまつぶしにこしらえる... かくして消極的にあつかましく小説という手段をえらぼうとするケースは、ナスダックの市場予想以上におおいような気がする。ピアノをひくにもスキルがいる。だけどPCならだれでもたたける。さいわい絵画や舞台や映画制作とちがって金もかからない。ひまな時間や生活の欠如を、おもうさま自分のことばでうめてゆく。あんがい熱中する。そうだ書くことはたのしい。

どのみち文章を書くうえでの成熟もほかの職業とおなじで人間関係や社会のきびしさのなかでもまれることでしか期待できない。いっぽうで書かれた文章および小説の未熟さ幼稚さというのは、かなしいことに書いた本人のまえでは眼かくしをされて、ひとかどの成長をとげないかぎり彼我の優劣もわからないばあいがおおい。そとにとびだして、たくさんのひととつきあいながら、ばりばり仕事もこなすタイプのほうが小説はむいているようにおもわれる。おもうに仕事ができるひとたちは、ほんのつかのまにせよ労働には無私や奉仕の精神がやどることを感性でわきまえているにちがいない。そして文章および小説をしたためるということも、ひっきょう奉仕や功徳のおこないにほかならない。

世の中の柵(しがらみ)を背負って、七転八倒の思いの中で、剣を抜く。それが本物の剣だというんだ。剣理を極めるためだけの剣なんて、金輪際、本物じゃあねえ。


さてもネット上に生きる孤独な書蠹(ほんのむし)たる文学中年諸兄もかく隆慶先師の雄篇にみられる寸言を翫味せば闔(なんぞ)良作のひとつも今生にのこせざることあらんや? 「人間関係をえがいたもの」 と坂口安吾がいみじくも定義した小説とはすなわち人間どうしがすれあう摩擦音のスコアないしはハーモニーといえる... ぼくもけっきょく被災地でライヴするミュージシャンとおなじ錯誤のうえにあるのか? かれらが美化゠ごまかすことで世界をしあわせにするなら、ぼくは虚飾のいっさいをはぎとったことばで世界をすくおうとするわけだし、 「人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、切なさ…(中略)…苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか」 と坂口安吾がみぬいたように世界のすくわれなさは、すくわれなさ自体でしか本質的にすくわれない。あまつさえ虚飾をはぎとるというテロルは文章上でしか意味をなさない。じっさいの生活において毒々しい本音をいうばかりが “真実” ではないことは、さきに引用した隆慶一郎の剣豪小説のべつの至言☟からもうかがいしれる。

正直な告白という言葉ほど、いかがわしいものはない。正直というのは告白する人間の欺瞞であり虚飾である。本音をいえば、それは正しく自分が楽になることなのである。自分だけが楽になって、辛いことはすべて他人にあずけてしまうことなのである。そのために相手がどれだけ苦しみ、どれだけ辛い思いをしようと、そんなことは知ったことではない。自分は正直に告白しただけである...


「がんばれば夢はかなうよ」 およそ文章上では口がさけてもストーンズ書かないことを、ぼくも実生活でよく口にする。もちろん文章がとらえる本質的な世界では、がんばったって夢はかなわないという巨石さながらの儼然とした事実そのもので慰藉──すくわれるほかはないわけだが、とかく浮世はかりそめの演技でなりたつ舞台だから、いつわりでも善意のことばで落胆する相手はなぐさめてやるべきではないか? 「わかったふうな口をきかないでよ!!」 いたいけな少女はやすっぽいドラマめいた本音でかみつこうとするかもしれないが、まさにそれこそ若気のいたり──おかどちがいもよいところで、ただのなぐさめだとわかりつつも相手のいたわりに黙して礼するのが若者のつとめではないか? くれぐれもtwitterTwitterなどで愚にもつかない自分のラメントをかるがるしく喋々してはならない。

苦しいこともあるだろう
言いたいこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
泣きたいこともあるだろう
これらをじっとこらえてゆくのが
男の修行である


むかし目白のおんぼろアパートの一室に大日本帝国元帥海軍大将山本五十六のかかる訓誡☝をプリントアウトして画鋲でとめて日常坐臥これ拝跪につとめるシーゲル・Kという友だちがいた。この男は性病をむりやりシーブリーズでなおすような超人性をひめているいっぽうで、ほれた女性にきまって電話で告白するという奇癖をもっていた。そもそも恋愛にことばは不要──いよいよ小説をめぐる本記事もことばはいらないという蘊奥にせまってきたが、ことばが書き手の武器なら実生活上の達人はそんな武器もすてさって、なかんずく恋愛という人間どうしがむきあう秘鑰においても柳生新陰流の “無刀どり” の剣境をみせる──ぼくが大学生活でそんな活人剣の境地にめざめたころシーゲル・Kはなお古来の殺人刀(せつにんとう)にはげんだというか街のいかれた女たちからもらう性病になやまされながら、ほれた女性にきまって電話で告白して、きまって相手からふられるという血まみれの歓楽にひたっていた。しかも告白の会話のいちぶしじゅうを留守電テープで録音して、いちぶしじゅうをこれまた電話でぼくやトミー・Tにきかせるという被虐性はほんものだった。

あのころシーゲル・Kは詩人をきどっていた。ランボオやシュルレアリズムのながれをくんでいると豪語していたが、 「だから今夜は/せめて今夜は/MASAKAZU きどらせてくれ」 などと書かれたソネットをまともに味読する気がおきようか!? おりからプレイボーイを演じる田村正和のいくつかのドラマがはやっていて、すっかり感化されたシーゲル・Kはランボオから一転してJ-POP以下の詩作にはげんでいた。おんぼろアパートはドアのかぎもロックできず、まわりは中国人だらけで、シーゲル・Kがナンパで外出しているときはトミー・Tもぼくも無断で部屋にあがりこんで、かってにビールやバーボンをのんだり、さまざまな告白とさまざまな女性の拒絶とをテープ再生でたのしんだりする愉悦にふけっていた。ところでトミー・Tはこんにち国内外の映画界に権勢をほこる怪人物になったが、 「やくざだな」 といって昨年末にあのころの自分たちがうつった1枚の写真をもちだした。おどろいた。ショックだった。ぼくが追想する20代のぼくは典雅なほほえみをたやさない剣聖のたまごなのに、そこでトミー・Tの右にすわった自分☟のすがたはまさに下劣なちんぴらそのものではないか!?


$海豚座紀行-バーなかざき



ゆきつけの歌舞伎町のバーのマスターがフィリピン人女性と結婚したときのもので、お世話になっている編集者やら暴力団まがいやらも同席しているから、はじめの○○さんたちとのお年賀ショットとおなじモザイク処理をほどこした。あのころから現在のこの瞬間まで井戸をとびこえるような文字どおりの須臾のひととき──ふかい井戸の水面をよぎる自分のすがたがこれだというのか!? はなばなしい婚儀をあげたにかかわらずマスターも離婚──いまではバーをたたんで、ロシア人女性と再婚している。ことばはいらない。マスターもまた恋愛の達人かもしれない... なんとなく上掲写真のぼくが現在のぼくをにらみつけているような気がするが、なにかわるいことをしたかね? そっちのほうがわるいことをしつづけてたんじゃないかね? おまえさんはエディ・ヘイゼルがまもなく死ぬこともわかってないだろ? たましいの奥底からことばを発したことがないだろ? こんなふうに出版業界もきらびやかな東京も音もなく瓦解することに気がついてないだろ? おなじ年齢のトミー・Tにもお金をたかっていたけど、いまだにたかりつづけてるとは夢にもおもってないだろ? いまだに前後不覚になるまで泥酔して、ゲロをはきまくってるとは夢にもおもってないだろ? 「天使派」 という概念が電子の世界でことばのデッサンをえがくことになるなんて夢にもおもってないだろ? こっちをにらむな、エディを聴け。たましいの深淵からこみあげるものは、かくも陶酔的でかなしい...