きょうの1枚③ | 海豚座紀行

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──幻視海☤星座──

これをたのしみにしているひとは世界にひとりもいないだろうクラシック名曲名盤シリーズ第Ⅲ弾は、かれこれ15年以上もぼくが愛聴しているシェルヒェン(シェルヘン)指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団によるJ. S. バッハのブランデンブルク協奏曲(米Westminster)バッハ 「うわぁ~イタイものをひっぱりだしてきたな」 あまたのクラオタの苦笑がきこえてきそうな廉価盤2枚組のこのCDをぼくが買ったのはヴァージンメガストアだったが、 「ゲテモノ買いですか?」 と懇意にしていた同ショップ店員ヤマシタY下達郎からも揶揄されたくらいの骨董品で、じつのところオリジナル楽器による小規模での演奏が主流になったバッハやヘンデルを、この往年のディスクのようなモダン楽器による大編成オーケストラのぶあつい音響でならしたものは、あえかにして淡麗なロココ様式のフレスコ画を、のちのクリムトやココシュカのごてごてとした極彩色でぬりこめるような時代錯誤とみなされる。ところが昨今の新感覚(?)バロック演奏はぼくの趣味嗜好にあわず、あわない理由もおよそ鈴木淳史との共著のなかで許光俊がくさしたとおりのもの...

最近の演奏家の多くは、「エッ! マジッ? ウソ! キャッ!」というしゃべり方みたいな音楽の感じ方をしている。あるいは「だからさー、おれはさー、おまえがさー、好きなんだよねー、わかってくれたー?」。日常的にこんなしゃべり方の世界に住んでいたら、美しい歌の感覚が養われるはずがない。


せかせかとした古楽器演奏のフレージングはさながら音によって眼のまえにコンビニやファミレスが濫築されてゆくような貧乏くささがある。バッハのころの音楽を綿密な考証のもとに再現しようという企図とはうらはらに、ワンクリックで回答がもどってこないとブチギレたり、ちょっと反論されただけで過剰にわめいたり、ブログやめます宣言したりする現代のかえって小動物がみせる反応のようにナーヴァスで短絡的でみみっちいネットユーザ精神を反映したもののような気がしないでもない。ちなみにブログやめますといったくせに、たいていのばあい他人のコメントにほだされたかたちで前言をあっさりと撤回して、こんなにやさしい読者にかこまれた自分はしあわせものです、もうすこしブログつづけますしょぼんみたいな虫酸がはしるハッピィエンドにすべりこむ...

ほんらいバロック音楽は貴族のものだったとおもわせる優雅さや、うつくしい庭園を逍遥する空虚なぜいたくにひたらせてくれる古楽器演奏もすくない: 「高校生のおぼえたてのセックス」 のように下品でせっかちなチンポ──いやテンポだとも許光俊はべつの著書でいっていたが、いっぽうで本記事がとりあげるシェルヒェン盤はどうかというと、これはもう音がながれだしたとたん全身が弛緩するほどのスローテンポ──あちらがガキのセックスなら、こちらは老人の──いやセックスもおっくうなほどの弛緩しきった平和ボケ状態で、ひともまばらな休日の──それも現代ではなく、おもいでにゆらめくセピア色のひなびたプラーター界隈をイメージさせるし、 「ねたきりのボケ老人の意識にはたして “時” は存在するのか?」 といった余念にまで聴き手をさらう。まぶたをとじて、ものさびたウィーンをめぐるうちに弛緩した意識はうたた寝のまま時間゠社会のながれからも隔離されて、めざめれば自分がボケ老人になっていたような虚脱感... このディスクが録音された1960年はまだまだウィーンの楽器職人たちも健在で、こんにちのYAMAHAに助力をあおぐような後継者不足の惨状とも無縁だったし、ここにこだましあう楽器はどれも木のにおいがする。


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ここにはウィーン・フィルのコンサートマスターのウィリィ・ボスコフスキイをはじめアーノンクールの右腕だったオーボエのイュルク・シェフトライン、ホルンのフランツ・コッホ、そしてCD2枚めできかれるリコーダーのパウル・アンゲラーなど名手が顔をそろえている。ちなみにこのディスクを録音したアメリカのレコード会社Westminsterと敗戦いらいウィーンの名手たちとのあいだには興味ぶかいエピソードがつきないが、それらも本記事では割愛することにして、さっそく録音内容にふれる。ねたきり老人の桃源郷ともいうべき極太のスローテンポではじまる演奏は一貫して高弦と低弦とのコントラストによる陰翳がふかく、なかんずくヴァイオリン群のひびきからはロマン派ふうな森のみどりがひろがる。バロックの和声ではない。これはやはりベートーヴェン、シューマン、マーラーなどの体験をへたあとで再現されたバッハといえる。

まず第1番はオーボエのまっかな哀感がたまらなく、オーボエから色彩を濾過゠純化した1挺のヴァイオリンとなげきかわす背景に低弦のふきわたる風と高弦のきらめく空とがみえてくるが、おもいでのなかにある抽象画のように風景は混淆する──なみだにうるんだ視界や車窓から不断にきえさってゆく情景──いや時間がとまった庭園でただ噴水がふきあがっているシーンが銀貨のようにそれこそ水盤でゆらめいているといった風情だが、 「名曲アルバム」 の映像めいたメロドラマと歴史性との混淆からえがきだされる風にせよ空にせよ時間がとまっているがゆえに鉱物化して手でつかめそうな気がする... つづく第2番を支配するアルフレート・シェルバウムのトランペットの強奏はまさにマーラーふうでグロテスクだが、やはり回想のなかでひびくような輪郭のぼやけかたをしている。トランペットがいっさいを黄金色のかみさびた夢の滝にしずめてゆく... おもに弦楽器9部でかなでられる第3番は、あおむけで眼をとじながら聴いていると、たそがれどきのモーヴ色の複雑なニュアンスがいりまじった雲をふりあおいでいるような気分になるし、おまけにそれらの雲は重量をもって聴き手の体内でどよめきつづける...


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ところでヘルマン・シェルヒェンはシェーンベルクの薫陶をうけて新ウィーン楽派の作品を積極的にとりあげた現代音楽志向の指揮者で、おなじWestminsterにふきこんだマーラーの交響曲第7番もぼくの愛聴盤になっている。フーガの技法とともにブランデンブルク協奏曲のこの録音も、おもえば彼のマーラー演奏や兄貴分ウェーベルンのバッハなどと不可分のものかもしれない... さてCD2枚めの第4番はふつう古楽器演奏が6分台でかけぬける第1楽章になんと8分もついやしながら、ふたつのリコーダーとヴァイオリンとのたわむれに文字どおり時間をわすれたありさまで、つづく楽章でリコーダーはとうとう永遠の大宇宙にむかって二羽の小鳥がほろびゆく身のはかなさをさえずるような興趣をふかめる。

ほんらいブランデンブルク協奏曲は超有名曲の第5番でもって終演をむかえるものではないのか? おまけのような第6番は中低音だけの弦楽合奏による黒褐色のしぶい音響で、ヴァイオリン群がくわわっていないために音楽が光度をうばわれたような印象をうける以上に──これは音楽そのものではなく、きえさった音の追憶──いや音の “影” ではないか? そこに街路樹はないのに、アスファルトのいちめんで樹影がゆらめいているような音楽といえるかもしれず、ふしぎなことに鑑賞中はこの第6番がいちばんの傑作だとおもってしまうのも、シェルヘンが全曲をつうじて音の実像ではなく、ほろびゆくクラシック音楽の残影をみつめているからかもしれない。リハーサル中に怒号罵声をあびせかける熱血指揮者だったというシェルヒェンの暴走もここにはみられない。いならぶウィーンの名手たちの顔ではなく、かれらの足もとにのびる人影をながめているような指揮者のうつむきかげんの顔... ともあれ本記事のためにこのCDをひさびさに聴きかえしてみて、いままで意識したこともなかったカミロ・ヴァナウゼクのフルートに魅せられた。ことに第5番の第2楽章でヴァイオリンと悲愁にみちた対話をかさねるさなかに、ふっと音色をよわめる瞬間(4:51)は、ものおもいにしずむ美女がこちらの視線に気がついて顔をむけながら、なにかをいおうとしつつも声をとぎらせるような妖艶さにみちていた。モーツァルトがそうだったように平素ぼくもこの楽器のはなやかというよりもキンキンとした音に嫌悪をおぼえがちだが、さほど情報をもたないヴァナウゼクのことをネットでしらべると、ウィーン・フィル以上とたたえられたウィーン交響楽団の首席フルーティストで、つかっていた楽器は木製だったらしく、さもありなんという幽玄な音色をこのCDでもたんのうすることができる。


$海豚座紀行-ワグナー指環



『白い血』 という作品を刊行した直後のぼくは、キング・クリムゾンをはじめとするプログレやプリンスのハイパーセクシュアルなファンクを聴く一般的な青年だった。ただしロック゠ポップスはこのさき進化も深化もみせず、コンビニ商品のように量産されるばかりだろうという諦念があったから、クラシックに霊感をもとめてタワーやHMVをふらつきはじめたが、 「そんなとこダメダメ」 と法律雑誌を編輯する友人が首をふりながら、いまはなきヴァージンのクラシックコーナーにつれていってくれた。そこには伝説的な店員がいた。デブで長身長髪のどことなく山下達郎Y下達郎をほうふつとさせる容姿から、ぼくと友人とは即物的にヤマシタと名づけた。さらにガリガリのさえないオタクっぽい風貌男性でヤマシタの忠実な部下ともいうべき店員のほうは “右腕” と名づけた。クラシックコーナーのいたるところに、ヤマシタの峻厳な鑑定眼にかなった推奨CDがところせましと陳列されていた。それらのほとんどが海賊盤だということにまず度肝をぬかれたが、これではクラシックを愛好するどころか公然たる破戒゠違法行為ではないか!?

「でもメジャーなレコード会社のスタジオ録音なんて棺桶とおなじで完全に音が死んでるじゃないですかぁぁ~」 ぼくたちにそういいながら、ヤマシタの命令で “右腕” はさらに大量の海賊盤をワゴンにほうりこんでゆく。ぼくたちはそれをクズBOXとよんでいたが、 「クズ」 どころかワゴンにはトスカニーニやフルトヴェングラーをはじめ巨匠のライヴ録音(おもにイタリア製)が500円均一でつめこまれて、それらを買いあさりながら初心者のぼくは “耳” をきたえあげたといってよい。そして正規盤CDもヤマシタの気分ひとつで激安価格になる。ラオウ&ジャギの北斗兄弟をはさみながら上掲画像でゴールドラムとともに鎮座ましますショルティ゠ウィーン・フィルによる記念碑的なワグナーの “指輪” CD全14枚セットBOXもたしか5, 000円でゆずってもらった。ただし本領はなんといっても海賊盤で、コーナーをうずめる推奨CDのかずかずにはヤマシタの筆致でどれもこれも異常なイラストいりレヴューがそえられていた。

「大トロのロストロや漬けのカザルスにくらべると、こっちは中トロ鮪」 いいかげんなこの文章はジャクリーヌ・デュプレが演奏するゲオルク・モンのチェロ協奏曲につけられたもので、たんにロストロポーヴィチの名まえをトロにかけたかっただけなのは火をみるよりもあきらかだし、 「わがままなVPOのメンバーを叱咤しつつ鬼軍曹いざ出撃ティーガーⅡ」 というのはカール・ベーム指揮ウィーン・フィルによるリヒァルト・シュトラウスの “英雄の生涯” のレヴューだが、ここからもとうてい音楽上の造詣のふかさはうかがわれない。 また天才指揮者の名声をほしいままにしながらも、いささかその演奏はスポーティで軽佻とみられたカルロス・クライバーの海賊盤にも、ミスター長嶋茂雄ふうのせりふがそえられていた。 「う~んどうでしょう、ホームランでしょう野球

「ザルツブルクの妖精ヴェーグの指揮、ルプーのピアノ、ウィーン・フィル... すべてが美音まみれな至純のモーツァルト雪の結晶」 まぐれあたり的にナイスなこのレヴューがそえられたモーツァルトのふたつのピアノ協奏曲および3大交響曲をおさめた2枚組海賊盤はどんな正規のスタジオ録音よりもすばらしく、ホールの臨場感や空気感もとらえきっている。ぼくはいまだにこれを重宝しているので、いずれはこのシリーズでもとりあげたいが、 「妖精」 どころか指揮者ヴェーグの顔貌はヤマシタのように妖怪じみている。そんなヤマシタは定期的にヨーロッパに出張して、あやしい独自のルートからさらに貴重な海賊盤をみつけてくる。ぼくと友人とはその怪異な風貌もあって文字どおり<死の商人>だなとささやく... ぼくたちはヴァージンでCDを買って、そのころ目白のかくれ家だったハイガイというビストロで何杯かハイネケンの生ビールをひっかけたあとに、シュリンプサラダの大皿、虹鱒のアーモンド焼、パンツェッタのキッシュ=ロレーヌ、ムール貝のバター蒸をつまみながら夜ふけまでハウスワインのデキャンタを何本もたのしんでいた。ぼくの友人はアル中もいいところで、へべれけに酔いながらも編輯部にもどるとさらに夜あけまで缶ビールをあるだけ消費して、ビールとまちがえて携帯電話を冷蔵庫でキンキンにひやすという失敗をくりかえしては、めざめるとゲラのチェックにもどるという豪傑ぶり... いまでは彼も大病をへて1滴のアルコールもうけつけない傷痍兵になってしまった。

ぼくたちはヴァージンのその両店員とも酒杯をくみかわしたことがある。ハイガイではなく、かれらが常用する居酒屋チェーン店で、ぼくが買いすぎたCDをもてあましているというと、それなら中古ショップに売ればよい、たぶん買った金額(500円)よりも高値がつくやつもあるからとヤマシタもはじめは有益な情報をながしてくれたが、したたかに酔いがまわってくると、みずからの発言に “右腕” の声のエコーをきかせながら女を紹介しろしかいわなくなった。ふたりのその執拗さときたら、おもいだすだに感服する。いったいどんな女性がタイプなのかとアル中の友人がたずねると、ふたりはほぼ同時だったとおもうが、 「ヤ・ラ・セ・テ・ク・レ・ル子~」 といいながら右手のひとさしゆびで友人の肩をツンツンとしてから、おなじせりふをくりかえすと、ぼくの肩もやはりツンツンとやった。ともあれ中古ショップのすばらしさに気がついてからは、しだいにヴァージンからも足がとおのいた。なにしろ古本ならガキのこづかいにもならないところを、まとめて数十枚のCDを中古ショップにもちこむと、すぐに1~2万円の値がつく。ヤマシタも数箱の段ボールでおなじ中古ショップにCDをもちこむところを何度かみかけたが、 「おもいきって声楽のために留学することにしました」 というせりふをさいごに消息はとだえた。やがて音楽産業は衰頽の一途をたどって、ヴァージンやHMVの各店舗も都内からきえた。ぼくはお茶の水や神保町の中古ショップでCDを買って中古ショップに売るというサイクルをくりかえす...


$海豚座紀行-あぶり家



追記✍ 『酒場放浪記』 とともにそのまえの5分間の宣伝番組もみるようになってから、むしょうに超炭酸角ハイボールがのみたくなって夏の東京タワーのイヴェントだとか特約の居酒屋だとかに足をのばしてきた。おいしい。しめ鯖のあぶりの適度なあぶらを超炭酸でながすのはこたえられない。まさか自分がよろこんで居酒屋にかようことになろうとは、むかしではかんがえられない... ありし日のハイガイのX' masパーティの情景がうかんでみえる。アル中の友人が音大の女の子をナンパしている。コルトオの話題をもちかける彼にその女の子がわからないといって首をふるのをみていたら、つられてヴァージンで買いあさったフルトヴェングラーのあの地霊のうめきのような海賊盤のひびきも脳裡によみがえってくるし、 「ヤ・ラ・セ・テ・ク・レ・ル子~」 とくりかえす両名Y下達郎男性の声とともに、ツンツンとしてくる右手のひとさしゆびもスローモーションでよみがえる... さらば青春、さらばハイガイ、さらばクラシック中毒の日々とつぶやきつつも本シリーズは第Ⅳ弾につづく...