月哭夜 | 海豚座紀行

海豚座紀行

──幻視海☤星座──

はじめは夏かぜだろうとおもっていた。せきがとまらないのも夜ふけまで編輯部のエアコンにあたっていたからだろうし、たゞでさえ大手出版社は多忙で帰宅も不規則なのに、つきあいというやつが週5日間のスケジュールをうめつくす... ぼくは自分のまわりの文藝編輯者をみるにつけても、ひとづきあいをなによりも熱愛する人種ばかりだということに、おどろきあきれてしまう。あるいは映画会社の友人も1年の半分は海外出張でぐったりしているはずなのに、きっちりと家族サーヴィスもこなしながら、やれ有楽町バーデンバーデンだ新宿のマスターのところだと深夜でもぼくたちをよびつけて、カラックスは1作ごとにトーンダウンしていくなと朝までカンヌなどの話題にふけったりする。

ぼくの妻も出版社のオーヴァーワークにひとづきあいや愛想のよさがたゝって、かぜをこじらせたのだろうとふんでいたが、まっかに色づいた白膠木の葉がそゞろ虚空をまう季節になっても、せきはとまらないばかりか悪化して、これという治療法もなく、くわえて女性ばかりがかゝる肺マック症なる診断名にぴんとこないまま妻の心神耗弱に手もつかねて、とりあえず旅行ずきな彼女の両親とともに保養させることにした。つとに花を愛する女性だったから、いなかでの起居はのぞましい。ながらく小原流をおさめて師範代の免状もくだされていたし、わが家は平素ふくいくとした薫香につゝまれていたが、ぼくはあいにくと生来これっぽっちも花には興味がない: 「白膠木」 なる文字を上段にきざんだのも、たんに季節の推移に悽愴の気をくわえるための修辞にすぎない。ひじなどがぶつかって床におちた一輪をぼくは花びんにさしもどすこともしないから、ものを書くのに風流も情緒もない人間だといって彼女はしばしば難詰した。ぼくの母親からもおなじことで非難される: 「ものゝあわれも、ひとの感情もわからない... おまえは冷酷そのもの」

「薔薇」ということばを愛したジャン・ジュネだが、じっさいの花にはみむきもしなかったし、「ここから星がよくみえますよ」とすすめるボーヴォワールにもそれが自分になんの関係があるのかと毒づくしまつ... この星と花の泥棒詩人にとって重要なのは、ことば゠虚像だけで現像はどうでもよかった。


ぼくのtwitterからの引用Twitterたまに顔をあわせるだけの母はともかく妻にはこんな理窟でやりかえしたものだった。ものを書くというのは、ひとしなみの情感とは無縁のうしろめたい所業にほかならない... たまに2人で花火をみにゆくと、いつまでも妻はおなじ地点にたゝずんで、あくことなく火焰のその乱舞をみあげていたものだが、ぼくは草花とおなじく5分でそれにもあきてしまうから、ふらふらと街なかで歩をすゝめていた。おもえば花火でいろどられる冥界になにかをおきざりにしてきたような心理のうしろめたさを、ぼくはこの数年のあいだ感じていたかもしれない。


$海豚座紀行-箱根



「死」 のなげきは彼女とともに都会をはなれていた義母の口吻から、やまびこのようにこだました。そして水たまりでゆらめきながら、さかさまにうかんでみえる静謐な現実世界をのぞきこんだように、やまびこと田園のイメージとが彼女の末期のくるしみも葛藤も、つごうよくセピア色の水底にとかしこんだが、おなじやまびこからすいよせられるように、この晩夏はひとりで富士山をこえると、おきざりにしたものを山河にさがしつゞけた。なくなった妻と彼女の父母とまだ学生だった義妹との5人で何度か逗留したことがある旅館にノートPCをもちこんで、がらにもなく文豪のまねごともしてみたが、ぼくの作品はそんな風流なやりかたでは創出されそうもない... “時” はながれる。いまでは義妹も一児の母になっている。なにかをはきだそうとするかのように悽惨にせきこんでいた妻の晩年は、ひょっとするとボリス・ヴィアンの長篇にでてくる薄倖な少女とおなじ肺のなかに睡蓮がはえる奇病におかされていたのではないか? かりに花が純粋なものなら彼女の体内の血管もグリーンのほそい茎だったのではないか? おなじ血をわけた彼女の父母をながめるたびに、フローラの無垢な一族は現実にいるものだという感慨をあらたにした。

やまびこや田園の風景とおなじで、ぼくの精神にとって疎遠なものとして感じていた義父と義母とは、かえって妻がなくなってから親近者にかわったような気もする。かれらは理想的な夫婦で、むすめたちがいたころから家族4人がきゅうくつさをおぼることもない広大で瀟洒で清潔感にみちた邸宅にくらしながら、これまで義父は自分の配偶者や2人のむすめたちに1度たりとも経済的および人格的な不安をおよぼしたことがなかったし、 「たぶんパパは1度も浮気したことがないとおもう」 と生前の妻がぼくにいっていたこともほんとうだとおもう──だいいちアルコールもやらず、むすめたちが出身大学も知らないくらい無口なひとだったが、わかいころは経済界の──いや戦後史的にも伝説の人物にかぞえられる巨大メーカー創始者のむすこなどと日夜ドライヴをたのしむ仲で、その縁故から同メーカーにすゝむと退職まで常務をつとめあげた。むかしはどんなに多忙でも週末はかならず家族をつれて行楽地にドライヴしていたという。かわりにその妻゠義母はよくしゃべるが、これまで夫から1度も不安をしいられたことがないから、ゆがんだところもない可憐さはむすめたちから天然とからかわれるくらいのものだった。さらに義妹がむすめを出産すると、かれらがその初孫を最愛のものとみなしたことはいうまでもなく、そのあかんぼうと夫とつれだって義妹が実家にかえるたびに、ぼくのこともかれらはかならず贅をつくしたガーデンパーティによんでくれた。なき妻をやまびこの遠景にさらって、バーベキューセットをかこむかれらを “時” はいつしか聖家族にかえてみせた。



$海豚座紀行-花火



もう10年もまえに書いた旧作2篇をいじっていたら、そとから花火の轟音がとゞろいた。ヴェランダにでると、おどろいたことに都内のはなれた4ヵ所から同時にあがって、それぞれが夜空に極彩色をひろげている。ただし花火を愛してやまなかった妻や義母がこの場にいたら眼の色をかえるにちがいない幻景も、ぼくにとってはやはり5分が興味のリミットだった。ヴェランダから部屋にもどると、ダークラムをすゝる。しばし旧作の改訂の手をやすめて、フランス印象派の魅惑とたわむれるピアニストの気分でブラウザにtweetの140文字をうちこんでいた。

こんや24Fからのぞむ180度のパノラマの4ヵ所で大輪の花火があがりつづけた。カンディンスキイが夜空に色彩をふりまくようにも、ラヴェルがサラウンドでひびくようにも、ビッグバン⇔ビッグクランチをくりかえす多宇宙の生滅をシャンパングラスで愛でるようにもおもわれる眩惑のひとときだった。


こんな文章をつゞりながら、ぼくは花火にこれっぽっちも感じいっていたわけではなく、ろくすっぽ窓のそとに眼もくれなかった。ラムをすゝる: “Standing On The Verge Of Getting It On” をBGMにして、このカッティングをフェンダーからはじきだしただけでもエディ・ヘイゼルという黒人ギタリストは不朽の存在ではないかと毎度おなじみの感慨にひたっていた。ひとしなみに波うつ感情線をこえた高所で文章というものは創出される: 「冷酷そのもの」 だからこそ起草される文章があるのではないか? ただし奇遇というべきか2年まえにはじめてtweetを投稿したときも、おもえば花火があがっていた。

闇から生まれた鼓笛隊... パピヨンも笑う。光が丘の24F_新宿高層ビルのむこうにクーデタの砲撃のような神宮のばら色の花火が見えます。


「奇遇」 などということばをつかうと、かねて花火と自分たちとのあいだの神秘的なつながりを信じていた義母の無邪気さを嗤(わら)えなくなる。ひとがよい彼女は、ぼくのことも神経質だが、とびきり純粋な人間だとおもいこんでいた。こちらの毒舌にも愛嬌をよみとって、ぼくと生前の妻とをことあるごとに避暑地や温泉地にさそってくれたし、いつでも逗留さきは最上級のホテルや旅館だった。ある夜にぼくらがくつろぐ箱根でとつぜん花火があがりはじめた。すると義母とそのむすめにあたる妻とにつゞいて寡黙な義父までも神がかった表情でじっと夜空の祝祭をながめはじめた。まだ学生だった義妹だけはショッピングがだいすきな現実家で、ときおりソファから極彩色にそまる山あいに眼線をくれるばかり... 「やっぱり縁があるのね、わたしたち花火に」 いまどき花火大会の情報など事前にいくらでもチェックできるネット社会に、そんな義母のつぶやきは旧世紀のおっとりとしすぎたものだったが、 「きれいね、おとうさん」 といって彼女がその左腕にとりすがる義父もだまって法悦のまなざしを窓のそとにむけていた。かれらのその崇拝によって花火にも太古の荒(すさ)ぶる神がやどったのか... ちかくの民家で夜あけまえに全焼の火事がおきた。それから数年後の富士でぼくらはふたゝび花火大会とぶつかって、なおかつ夜ふけの火事のおまけもついてきたときには、ひょっとするとこの聖家族は花火よりも火焰の神性となにかしら奇縁をもつのかもしれないなと... そんなおもいがぼくの脳裡をよぎらなかったといったら、うそになる。

「神」は7日間で天地を創造したらしいが、かたやビッグバンから第3相転移まで千億分の1秒──はじまりの概念もなりたたない速度で宇宙は創生された。ビッグクランチ(終焉)もきっと... そこにあるのはユニ(単)ではなく、うちあげ花火のごとく無数にうまれては消滅するマルティヴァース(多宇宙)


ぼくは自分の宇宙論でふんだんに花火の譬喩をもちいつゝも、さほど愛していない。それでも妻がすきだった東京湾大華火祭の夜はことしも銀座から間歇的にとゞろく轟音をたよりに勝どき橋、築地、汐留をそゞろあるいた。その場所がら夜気にこもる酢めしのにおいと上空の火薬臭とがまざって、ばら色の不安と昂揚との混淆が花火のいやます轟音から文字どおり爆發的にかりたてられてゆく... ここには神性のなおかつ性愛の儀式めいたスリルや快感がみなぎっているぞと頓悟したときには花火もとだえて、くらやみと静寂とがぼくの意識をとざしていた。

「ここが冥界か? ぼくがなにかをおきざりにしてきた花火のあとの?」 むすめが2人とも結婚してからは、ますます義父と義母とは悠々自適の景勝地めぐりを満喫していた。ひしゃげた車内からこの老夫婦の焼死体がひきずりだされた夏の夜もやはり21時ちかくまで花火があがっていたが、 「奇遇」 とよぶわけにはゆかない... かれらは魔焰に魅いられていた。ゆくさきざきで民家に火をつけて、くらやみをなめつくす業火を義父と義母とが車内のフロントグラスごしに恍惚とした表情でみつめていたのも、けっして邪心からではないと断言できそうな気もする。それによって死傷者や生活を破壊された一家がでるにせよ、かれらの火焰を愛する眼はそんな日常の境界からも乖離した神性にふれていた。あらあらしくもエロティックな神性──われわれが “放火” とよぶところの椿事がおこるたびに、この老夫婦のたましいを浄化する焰心──いつから? ひともうらやむ夫婦がどうして!? どれだけの民家を灰燼に!? そんな詮索のかずかずも無益きわまるものではないか? 「きれいね、おとうさん」 ある夜の陶酔のさなか義母の耳に、パトカーのサイレンがせまってきた。みれば1台ではない。はなれた地点から民家の炎上とむきあう自分たちの車を、やおら扇状にとりまいてゆく無数のまっかなサイレン: 「おとうさん」 たまらず義母はギアごしに夫にすがりつこうとするが、さいごの神託をさずかったような堅忍不抜たる男の表情をみつめて、おしゃべりで楽観的な彼女もこのときばかりは無言でさとったのではあるまいか? ゆっくりとアクセルがふみこまれる。まっかなサイレンの洪水をのがれて、この無垢な老夫婦をのせた車は前方のもえさかる聖火にのみこまれてゆく...

かつて何度もバーベキューをたのしんだ邸宅の庭園に、ほこりをかぶったガーデンパラソルつきのテーブルやデッキチェアがおきざりにされている。のびほうだいの芝生であぐらをくみながら、ぼくはバーボンをすゝる... むすめの手をひく義妹と夫とがちかづいてくる。とりのこされたものたちの影がよりあつまる。フローラの一家でたったひとりの現実家だった義妹も、まさか夢幻とのあわいでこんな寂寞とした結末がまちうけているとは夢にもおもわなかったにちがいない... 「みんなでここにすむ?」 わかれぎわに義妹はむすめと夫と自分とをゆびさしてから、ジョークの口調でぼくにたずねた。きっと妻をなくして、ぼくが心底あわれで孤独な男にみえたにちがいない。かれらのすがたがみえなくなってから、みんなでくらすのもわるくないなと本気でかんがえた。そばにいるほうがかえって義妹の夫も、むすめの顔が長じるごとに自分ではなく、ぼくに似てゆくことにも気がつかないかもしれない... たそがれをそゞろあるきながら、きょうはブルームーンだと気がついて、がらにもなく俳句めいたものを口にしていた。

月哭(つきなく)
(あお)きしずくの玲瓏と


ながながと今回もフィクションを書いてしまったが、 「フィクション」 を明記せよというのが学術誌および書籍編輯者たる妻の厳命なので、しつこいくらいにまずは連呼しておく: 『天使派:素描』 全3章中2章までアップが完了したことを告知したくて本記事も更新したわけですが、いっさいはフィクションです。まだ妻も彼女の両親も物故しておりませんし、「放火魔」 などでは断じてありません──いっさいは腐敗しきった筆者の脳髄でにわかに醱酵をとげたフィクション──もちろん義妹との姦通などというドラマティックな展開もあるはずがないが、それはともかく義母はせんだって自家製のフレッシュトマトをふんだんにくれたので、シチリアふうの煮こまないトマトソースをつくったら、スウィーティな逸品にしあがった。ぼくは食事にあわせて昼からバーボンソーダをやりはじめると、ほろ酔いの気分はやはり吉田類ならずとも鼻歌がわりに俳句のひとつをひねりたくもなる...

晝酒(ひるざけ)
雲のアルプス せみしぐれ


$海豚座紀行-トマトパスタ



【追記】 ばかばかしいフィクション記事にかゝずらっていたら、かれこれ5年くらいディスクユニオンなど中古CDショップをめぐって定期的にさがしつゞけていた廃盤のギュルケ指揮ウィーン交響楽団によるシュレーカーのオペラ “狂焰” Irrelohe をはからずも入手することができた。これは耳にするまえからのイメージどおり超ロマン主義の頽廃的な作風で、とちくるった老惨の吟遊詩人が放火魔とともに跳梁するという破壊的なストーリーを、これ以上はないくらいの耽美的な音響でしあげている。やはりシュレーカーやツェムリンスキイの音楽は、かれらをはぐくんだウィーンの演奏家およびオーケストラで聴きたい... さいごに義父義母に感謝満月


Schreker: IrreloheSchreker: Irrelohe
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