ガラスの家 - Maison de verre - | 海豚座紀行

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──幻視海☤星座──

『わが闘争』 のなかでヒトラーは仇敵ユダヤはおろか日本人のことも模倣しかできない二流民族だと指弾するハーケンクロイツ 「いやはや... おはずかしいかぎりであせる」 われわれのことはそういいながら、ゲルマンの威光におそれいるしかないが、たとえばマーラーの音楽などを聴くと、ヒトラーならずともユダヤ人根性゠模倣癖をあげつらいたくなる。おもえばオーストリア併合前夜の危機的状況下に、マーラーの使徒としてユダヤ人ワルターがウィーン・フィルを指揮した1938年のライヴ録音ではじめて交響曲第9番のあの終楽章の冒頭にひびく弦楽合奏を聴いたときには、なんという絶美の音楽かと感動したものだが、ほどなくしてマーラーの先達ブルックナーのやはり第9番からそれと酷似する弦楽がきこえて、はなはだ興ざめがした。そういえば交響曲第2番 “復活” の終盤でもワグナーの禁問の動機が剽窃されていたし、 『白鳥の湖』 でチャイコフスキイもこれを流用したとはいえユダ公が... とはきすてたくなる軽侮を禁じえない。チェリビダッケやアーノンクールといった指揮者がマーラー作品を黙殺したのも、むべなるかなとおもわれる。


海豚座紀行-ウィーン_03



ちなみにマーラーもブルックナーも今回の記事とはかゝわりがない: 『大地の歌』 の終奏をうけつぐかたちで、マーラーの交響曲第9番がはじまるように、ぼくも前回記事の数行をひくことから、この記事をおこそうとおもったが、 「つーかマラ9はまんまパクりだよな」 などという雑念もぼうふらのごとく脳裡からわいて、ワグネリアンにしてブルックナー信奉者たるヒトラーのことから口上をはじめたしだい... したがって本記事はほんらい以下の自問から書かれるものだった。


「物質である脳から、どうのようにして個人的・主観的な意識経験が生まれるのか」 たね〇先生も自問されていたが、にわかにこの難題がぼくのなかで解明されたような気がしたから、ここにそれを披瀝する。とはいえ物理学入門2ヵ月のぼくがあたったのは量子論のおもしろ本数冊で、わずかに専門書はウィーンがうんだ天才シュレェディンガーの1冊につきるし、 「意識」 うんぬんをこの程度でなおかつ分子生物学的にふいちょうするのだから、いきおい無智(恥)をさらけだすだけのことで、あまつさえ恐懼するべきは、これから披瀝するのがその分野のもっとも簡易な見取図としてもう何千回もかたりつくされた手あかにまみれたものではないかということで、ご一読のあとにぜひ謬見をたゞす正論もおよせいたゞきたい。

「われわれには意識があって、なぜ樹木や鉱石にはないのか?」 いうまでもなくそれは脳という肉の有無による。この記事はもとより学術論文たりうるはずもないから、ひとまず意識と思考とを、イコールでむすんでもさしつかえあるまい。われわれのように明確な自己意識をもつのは霊長類だけだといわれる。とはいえグラスにたゝえたシャンパンのような意識゠水面のゆらぎは犬でも猫でも感じているにちがいない。われながらシャンパングラスカクテルグラスという譬喩はナイスなもので、かゝる意識のゆらぎをわれわれは文字どおりに “体感” しているように自覚しながら、じつのところ脳という上層部でとらえているにすぎない。ちなみに本記事における意識の定義はもっとも表面的な意味あいのそれだし、 「おい意識はあるのか?」 と救助隊員が遭難者によびかけるニュアンスとかわりがないものだということをことわっておく。すなわち生きものから脳、筋肉、血、内臓、骨などをとっぱらったあともなお体内にのこっていそうに錯覚させる非物質的な神性のみえない “なにか” をイメージさせるもの...

われわれは細菌゠バクテリアの集合体ともいえる。かといってバクテリアごとの意思をくみとるわけではなく、ただ脳──うごめく下層の衆生゠細菌のおもいなどは忖度せず、ただ脳という君主の意嚮にかしづいて、われわれも王侯貴族──いや文字どおり首脳部に列したつもりで一喜一憂にはげむが、 「絶対君主」 たる脳でさえも原子結合体にかわりはない。あまり著作物からは流用したくないが、くだんのシュレェディンガーの1冊から以下の図解をスキャンする矢印


$海豚座紀行-生命とはなにか?



ほんらい原子1個というものは不規則なうごきをするらしい。わかりやすくそれをパチンコ玉や蚊などといったマクロの物象におきかえてもかまわないが、かってなうごきをする蚊のむれを箱につめこんだら、ほんらい図中にある密集エリアと稀薄なエリアとの左右のみぞはうまることがない。それぞれの蚊が無秩序にうごくばかりだろうが、 「拡散」 という緩慢なうごきがはじまって、じつのところ蚊゠原子は密集する左から密度のうすい右にひろがってゆく。いいかえれば1個の無秩序なうごきは集団化したときに、やおら秩序のうごきをとりはじめて、さらに全体密度が一定になるまで空間をへめぐる...

「無」 ではない。すなわち意識はわれわれがイメージしがちな非゠物質上の神秘ではなく、たんに眼にみえない物質(原子)の集合体のうごきにほかならない。かってにとびまわっていた原子1個1個が脳を化肉させると、あかつきの空をV字の隊列でわたる鳥のように原子はその脳内の秩序゠思考のうごきをみせる。それぞれの楽器のチューニングでステージから無秩序な音をあげていたオーケストラが、いざ開演となると一糸みだれぬハーモニーをきかせることで、はじめて音楽がうまれるようなものだが、まさに意識゠思考とはその原子の音楽のことだし、そこに神秘がはいりこむ余地もないのではないか!? 「無」 意識とはよくいったもので、かりに原子゠蚊がそれぞれ無秩序なうごきをつゞける翅音をことばにすると、こんなぐあいになろうか?

ちんぽすきいないぶらつとう゛るすと きのうあめふるかな おもいきりてつぱんちくだけるのまき でも100ねんごなおつたかな


しだいに脳内の原子は集団化゠秩序化のうごきをとりはじめて、われわれが意識として感じとるレヴェルのものをそこに定着させる。とびまわっていた水素がひとかたまりになると、そこに水面のゆらぎをかたちづくるように... いかれた上掲の翅音もやおら思考から構文化される☟

チンポスキイ(にはたまら)ないブラットヴルスト(※註:ドイツのソーセージ) きのう雨はふるかな? おもいきり鉄にパンチをうちこんで、こぶしがくだけるの巻。でも100年後になおったかな?


ここに時系列上の整合性がないのは、それをもたらすのが原子とはべつのものだからで、かんがえてみたら原子1個の世界には時間もない──いや惑星にしても時間概念とかゝわりなく、はじまりもおわりもない自転と公転とをつゞけているにすぎない──だったらビッグバンというはじまり!? ここで宇宙論に言及する余裕はないが、ひとの意識゠思考のおよばぬところでミクロとマクロとは同一化しているというのが昨今のぼくの所感で、いま手もとにある橋元淳一郎氏の著書にもミクロな系をきわめて短時間かいまみると、そこには宇宙を爆発させてしまうくらいのエネルギイがあふれているといったことが書かれている... ぼくとあなたとの “視線” の摩擦でもたとえばマッチの火花のように宇宙はこの瞬間につぎつぎと無数にうまれて、ビッグバンという情熱の狂瀾打ち上げ花火から収縮のすえに宇宙゠火の粉はやはり無数にきえている...

くだんの橋元氏の著書から引用をつゞけるなら、われわれがもっている時間概念はすくなくとも生命をうみだすにたる1兆個以上の原子が存在するマクロな物質世界にしか通用せず、かゝる時間概念という幻想は遺伝子でうけつがれてきたらしい: 「単細胞バクテリアが動物へと進化し、大きな脳を持ち、人間へと進化する過程の中で、生き抜いていくために(※原文傍点)、われわれのはるかなる祖先たちは、世界に秩序を見出し、因果律や空間や時間といったア・プリオリな概念をしだいに形成していった」 という橋元氏の文章からイメージするに集団化した原子は過去☞未来もしくは生死をつなぐ遺伝子の川面をながれながら、さらなる意識゠思考の基盤をかためるのではないか? たくさんの音符が譜面にならべられて、やはりそこからハーモニーがうまれるように音譜


海豚座紀行-夏_03



ベルトコンベア上の罐詰や行進するナツィハーケンクロイツ親衛隊のように、まとまった原子゠思考が遺伝子のながれをながれてゆく... きっとこの時間概念というライン上をはずれたら、われわれが3次元のなかに定着させる生きもの、樹木、青空、ビルなどの視像はそれこそ爆発的に拡散して、なにひとつ眼に “はいらない” のではないか? われわれの思考にも焦点はかゝせない──いや時系ライン上をはずれた “視線” の摩擦から爆発がおきて、あらたな宇宙──さまざまな表現世界もうまれるのか!? さきほどのシャンパングラスではなく、ビールをみたしたジョッキビールのように存在が意識にみたされて、たとえ肉体がほろんでも意識はそこにのこるような錯覚さえおぼえるのは、うまれるまえから人間がずっと遺伝子のせゝらぎを耳にしてきたせいかもしれない。

なぜ生きものに意識がめばえるのかという問いは、したがって動物になぜ脳があるのかという問いにむかう。われわれは家具や植物とちがって、うごく──まさに動物なわけで、おそらく眼のまえの障壁をぶちやぶるために筋肉がうまれたように──みえざる運命の壁をうちやぶるために脳という肉もかねそなえたにちがいない。もっと単純な生物だったころは、せまりくる危険をかわしたり、あるいは敵にたちむかったりなどの橋元氏のいわゆる生きぬく諸反応のための脳だったにちがいないが、われわれをとりまく情況や戦局がしだいに複雑化すると、ほんらい筋肉におわせるべき任務も脳がになうことになる。かなり末期的な症例として現在はサイバーセックス依存なるものもあるし、そこでは性行為さえ肉体ではなく脳がおこなうが、けだし世にいう草食系男子はおしなべてこの範疇ではないか? ぼくとしてはせいぜい肉料理の美食をあじわいつくして、エロスと悪徳とのごった煮の藝術をたんのうして、あまたの美女をおいまわしながら、たちはだかる相手をパンチ゠キックでぶちのめす野蛮さをわすれずにいたい。

バクテリアは世界の外から(過去から)なんらかの干渉(攻撃や誘惑)をうけ、それに対して、世界の外へ(未来へ)なんらかの反応をする。この反応のなかに「意志」がある…(中略)…われわれはなぜ、秩序に価値を見出すのであろう? ミクロな素粒子たちにとっては、秩序も無秩序も意味のない言葉である。


ほろびゆくものにしか意識はないと橋元氏はいう。レゴyu-keiでつくったお城がとつぜん地震の衝撃でくずれたとしても、もちろんレゴの1個1個がこわれるわけではない。ただお城が解体されたというだけで、レゴがきえてなくなるわけではないから、べつに生きのころうという意志を1個1個がもつ必要もない。このばあいレゴが原子や素粒子にあたるもので、お城が生きものにあたる。われわれは分解されまいという不断の意志のなかで存在しつゞけているわけで、そんな水面のゆらぎこそが意識にほかならない。

ところで死んだあとも意識はのこるの? そんな疑問をいだくあなたは、まだ意識の神秘性にとらわれているにちがいない。たとえばたね〇先生という人間の意識はさきに詳述した原子の集合──たね〇オンステージにつめかけた観衆のようなもので、せきばらいやおしゃべりなどで散漫だったホールがいざ開演と同時にまとまる一体性が意識にほかならず、たね〇オンステージがやがて土葬なり荼毘なりで終演をむかえると、まだ昂奮さめやらぬ観客゠原子もホールで解散して、それぞれの帰途につく──あるものは雲になるかもしれない。あるものは雲から地面におちた雨として花の根からすいあげられるかもしれない。あるものは呼吸によって生きものの体内にとりこまれるかもしれない... これを生(消)滅とみるか、のこるものとみるか、はたまた循環とみるか、おわりなきカルマの因業とみるかは個々の見解による。ぼくも浅学にして原子の寿命のことはよくわからないが、 「数千年単位のもの」 といった記述がシュレェディンガーの1冊にあったかとおもう。またFBI当局の霊能師が被害者の残留思念とよばれるもので屍骸遺棄現場をさがしあてたり、がんを気功でなおしたりというのも、いたずらにスピリテュエルな神秘をみるのではなく、やはりそこに原子゠意識の物質性をみこんだほうが合点がゆくようにおもわれる。

ともあれ脳髄がものごとを概念的にとらえて、おたがいの対話もなりたゝせるようになった有史以前のある時代に──はじめて文字というものを岩肌にきざみこんだ筆者は戦慄しなかったか? みずからがうみだしたもの──まちがいなくそれは自分の意識゠思考からうみだされたものにもかゝわらず、おのれを超越した存在から発せられたような魔性のことばのありように恐怖をおぼえなかったか? 「無」 意識のくらやみからまきちらされて、ことばが論理の圏外であやしくも神聖かつ不吉な星座の配列をかたどる預言性に、ぼくもときおり有史以前のひとびととおなじ驚異をかくしえない。







「ぼくはね、これからもガラスの家にすみつづけるのさ」 pour moi, je continuerai à habiter ma maison de verre... ここからは余談だが、 『ナジャ』 というアンドレ・ブルトンのドキュマンが古今東西のもっとも感動的な小説のひとつだということはまちがいない: 「ガラスの家」 というのは自分の生活があけすけで、だれの眼にもみえて、かくしだてができない状態をあらわす──じっさいにブルトンはこの小説のなかで登場人物もみんな実在のまま実名をもちいて、かれらの顔写真までアップしている。ぼくが自分で撮ったつたない写真をここにのせるのもそれの影響だろうし、 「ガラスの家」 の精神はまたぼくのものでもある──なにがいいたいかというと、ちかごろAmebaアメーバで個人的なメッセージをおくってくるひとがおおすぎる。ぼくとその送信者だけが眼にする秘匿性のメッセージで、ぼくにはそれらがとても不健康なものにおもわれる。おくってくる相手のそれは知ったことではないが、ぼくの文章のいっさいは白日のもとにさらされていなければならない: 「なうなう」 でも記事コメントでもよい。メッセージは公開性のものにかぎる。みんなに知られたくないこともあるから... という女性もおられるかもしれないが、ぼくは他人のそんなプライヴェイトも知りたいとはおもわないことを附記しておく。