1.国際大会黎明期に得点王が居た
日本が初めて世界選手権に出場したのは、1964年リマ大会。1953年に第1回が開催されてから数えて4回目の大会だった。結果は0勝3敗。1試合平均35点差をつけられ、世界の圧倒的な力を見せつけられた。
1975年の世界選手権では、準優勝という快挙を成し遂げる。これは2012年6月現在、世界選手権+オリンピックにおける日本の最高結果。また、162cmの生井けい子が得点王を獲得(当時は1試合平均ではなく総得点で換算)した。
1976年、モントリオール大会で、バスケットボールの女子種目が初めてオリンピックに採用され日本は出場。銀メダルになったアメリカを84-71で破るなど2勝を挙げたが、6チーム中5位。メダル獲得はならなかった。この時も生井が得点王を獲得。アメリカ戦でも35点を挙げている。
2.やっとの想いで掴んだ20年ぶりの切符
それからしばらくオリンピック出場が叶わなかった日本は、96年アトランタオリンピック出場をかけ、95年7月アジア選手権に臨んだ。予選リーグは3強が4勝1敗で並び、1位中国、2位韓国、3位日本となった。宿敵韓国を倒した(ABCでの韓国戦勝利はなんと25年ぶり)が、中国に敗れ、得失点差で4点足りず決勝行きと、ここでの五輪行きの切符を逃した。アジア出場枠は3。3位決定戦で最後の切符を賭けることになった
3位決定戦の相手は、予選4位の中国台北(2勝3敗)。予選で98-75と快勝した相手だったが、そう簡単にいかないのが勝負というもの。そして、プレッシャーというものだろう。ハーフタイムで3点ビハインドになるなど、序盤から中国台北ペース。競りながらなんとか食らいつく展開。
残り35秒に66-65とついに逆転。しかし、勝利が見えたところ残り6.5秒、加藤貴子が5ファウルでファウルアウト。しかもフリースローを2本与えるという大ピンチ。静岡県草薙総合運動場体育館の観客5000人は風船を振って邪魔をしたり、大ブーイングを浴びせたりと、NBAのアリーナのような光景に。
その願いは通じ、中国台北はフリースローをなんと2本ともミス。その後、残り3.5秒にフリースローを得たポイントガードの村上睦子が2本とも沈め68-65。全観客を味方につけた日本が、大一番でのプレッシャーをはねのけ大舞台への切符を手にしたのだった。
これが今も語り継がれる“静岡の奇跡”。原田裕花は膝の靭帯断裂の治療が長引き入院していた。この試合の後半は電話で実況中継してもらっていたという。それも会場の声援がすごくて聞き取りずらかったとか。病室からの祈りもコートに届いた! しかし、この時の日本は満身創痍。原田の他にも、5月のヨーロッパ遠征で萩原美樹子が全治1ヵ月の捻挫、加藤が太ももを痛めリタイア。不安は大きかったに違いない。それでも勝てた。逆境を跳ね返す力が日本にはあった。
余談であるが、アトランタ行きを決めた1ヶ月後の95年8月にはユニバーシアード福岡大会が開かれ、女子は3位、男子は決勝でUSAと対戦し銀メダルという快挙(大学時代のティムダンカン、アレンアイヴァソン、レイアレンらが主力)。NBAブーム、スラムダンクが大人気で、日本もプロへ!と希望に溢れていた時代だった・・・・な。
3.アトランタの熱狂 -予選-
「静岡の奇跡」から1年。期待以上のアトランタの興奮が待っていた。20年ぶりのオリンピック。おれはあの夏の興奮を忘れられない。日本女子バスケットファンとして夢中になる決定打となった2週間だった。
初戦のロシア戦を63-73で落とした日本は、2戦目で中国と対戦。中国は92年バルセロナと94年世界選手権で銀メダルを取っていた“世界の強豪”。その中国相手に75-72。大金星を取ってみせた! アジア女王に、しかも、204cmのジュンハイシャ相手に、日本は勝ったのだ。ローテーションを機能させジュンを徹底ディフェンス。リバウンドも気迫で競った。大山妙子がエース封じのディフェンス。途中11点差を跳ね除けての大勝利だった。最大の勝因はミスの少なさ。チームターンオーバーがわずか5。日本の丁寧なバスケットの真骨頂だった。
3戦目のブラジル戦は身体能力に圧倒され80-100、続くイタリア戦は後半に足と共に得点が止まり52-66と連敗。1勝3敗とあとが無くなった日本は決勝トーナメントをかけ、予選最終戦のカナダ戦に挑むこととなった。
カナダ戦はまさに死闘。この苦戦にけりをつけたのは、日本の伝家の宝刀、スリーポイント。後半終了間際に3本続けて沈め76-76で延長へ。結局95-85で勝利。3FGを12/24と、50%決めたのだった!
4.アトランタの熱狂 -U.S.A.への挑戦-
この勝利によりBグループ4位で決勝トーナメントに勝ち上がった日本は、Aグループ1位のアメリカドリームチームと準々決勝で戦うこととなった。この時の全米代表は、エドワーズやマックイーンといった日本リーグで活躍した選手もいた。この時の萩原のコメントが心強い。「たとえジョージアドーム3万5千人がアメリカの応援で日本の応援が50人だったとしても、思い切り適役を演じてきますよ」 サンノー相手にした湘北以上に堂々たるもの。
アメリカからすれば金は間違いなし、準々決勝で日本相手に負けるなどととは微塵も思っていない。確かに108-93でアメリカが勝った。しかしアメリカは今大会最多の93失点。日本は終始堂々と点の取り合いに立ち向かったのだった。少しも怯むことなく走り合いを挑み、早い展開でスリーを放った。この日本の堂々たる戦いぶりは、現地スポーツ誌「Sports Illustrated」に、日本の団体競技で唯一紹介された。5-8位決定戦で、ロシアに敗れたものの、イタリアに雪辱し7位。記憶に残る五輪となった。
この大会での3勝と、U.S.A.戦は、鮮烈な記憶を残した。目標の6位に一歩及ばず7位だったが、近年最も日本のバスケットボールが輝いた瞬間と言っても過言では無いだろう。当時は、シャンソン化粧品とジャパンエナジーの2強時代。中川監督はシャンソンの監督、選手は全員この2チーム所属だった。
5.シドニーのリベンジ、アテネへ
次のシドニーオリンピックでは更なる躍進が期待されたが、予選の99年アジア選手権決勝で韓国に敗れ、出場を逃した。この時のアジア出場枠は1。ライバル韓国相手に65-68のわずか3点差の惜敗。あと一歩・・・あまりに大きい3点の壁だった。わずかに、本当にわずかに大舞台に届かなかった日本・・・主力の一人、永田睦子は後に「あの時は消えてなくなりたいと思った」と悔しさを語った。その翌年(2000年)、シドニー五輪にアジアから唯一出場した韓国はメダルまであと1歩の4位と健闘した。
雪辱を誓った日本にとってアテネオリンピック出場は悲願だった。出場をかけたアジア選手権はSARSの影響で延期され2004年1月に仙台で開催された。アジア出場枠は3に復活。この時も中国、韓国、日本、チャイニーズタイペイの順位が予想された。日本が狙うのは3位。予選を3位の日本は準決勝で2位韓国と対戦することとなった。ただでさえここで無理するより、確実に3位決定戦を制す戦術が考えられたが、ポイントガードの川上香穂里が発熱で欠場。予選で67-99と大敗していたこともあり、ますます照準は3位決定戦に絞られた。・・・かに見えた。圧倒的不利と思われた状況で、日本は序盤から食らいつく。PG薮内夏美の活躍を見せ、また、矢野良子の大爆発し、延長の末81-72の勝利。アテネ行きを決めた。この時の勝利は「仙台の奇跡」と称され讃えられた。「静岡の奇跡」以来の大大大歓喜であった。しかし贅沢を言えば、中国に勝ってアジアを制して欲しかったな(決勝で80-92で中国に敗れ準優勝)。
6.アテネでの苦戦
2004年アテネオリンピック本戦。ブラジル、ナイジェリア、オーストラリア、ロシア、ギリシャと同組に。強豪が3チームも連なった(当時の世界ランキング2位3位4位)が、それ以外のナイジェリアとギリシャには勝って決勝トーナメントに進みたいところ。しかし、初戦のブラジルにいきなり62-128と歴史的大敗を喫してしまった。ナイジェリアには79-73と何とか勝利したが、オーストラリア、ロシアには順当に(?)黒星。4位勝ち抜けをかけたギリシャ戦では地元の大声援を浴びたギリシャに大苦戦。結局91-93で敗れ、決勝トーナメント進出は阻まれた。
その後9位決定戦で中国に敗れ10位という結果に。中国は韓国と日本に勝って9位、韓国は全敗で12位。アジアvsアジア以外の試合はアジアの1勝13敗と、日本がナイジェリアに勝っただけ。アジアの出場枠が増えれば本戦で苦戦、減れば好結果というちぐはぐな事態が続いた。
7.アテネ後の低迷
アトランタとアテネではアジアの出場枠が3だったから日本は出場できたとも言える。同時にシドニーでは1だったから出られなかったとも。これが出場の可否を決める大きな要因の一つであった。ゾーン(大陸)で出場枠がいくつ必要かは、長年論争になっていた。増減には世界各国敏感になる事象。そんな中、北京とロンドンでは「世界最終予選」というシステムを採用。その不満を和らげる良い仕組みだと私は思う。
北京とロンドンではアジアチャンピオンが出場権を得、2位と3位の2チームが世界最終予選へまわる制度。北京ではアジア2チーム(日本とチャイニーズタイペイ)とも出場権を得られなかった(中国は開催国として出場。アジア優勝は韓国)。
この間日本は、アテネオリンピック後に内海HCが辞任。その後の人事が迷走し、その影響で2006年の世界選手権の出場を逃すと屈辱を味わった。日本が世界選手権出場を逃すのは、1986年以来5大会ぶりという屈辱。この時期は男子のリーグ分裂騒動を始め、日本バスケットボール協会が迷走を極めていた。
今回と同じフォーマットで行われた2008年の北京オリンピック世界最終予選では、予選グループAでセネガルに71-69で辛勝、ラトビアに69-83で敗戦し、1勝1敗の2位で準々決勝に進出した。準々決勝ではB組1位のチェコと対戦。高さで圧倒されリズムをつかめないまま64-76で敗戦。残り1枠を4チームで争うことになった。が、準決勝でキューバに58-66で敗戦。北京への道は途絶えた。
その後2009年に、アトランタの時の監督で、シャンソン10連覇、リーグ戦100連勝という記録を残している中川文一が代表専任監督に就任。北京オリンピック出場への期待は大きく高まった。
2010年の世界選手権では、1次ラウンドで1勝2敗、2次ラウンド(1次と合算)で1勝5敗と、わずか1勝。その唯一の勝利(アルゼンチン戦)は、残り1秒から大神のブザービーターだった。
8.いざ、ロンドンへ
日本はここ4年、世界の舞台(世界選手権と北京五輪世界最終予選)で2勝8敗とほとんど勝てていない。16チームが出場する世界選手権で1勝3敗。12チームが出場する五輪には出場できず。つまり日本の力は15番目位か。出場枠12のオリンピックには、単純に考えて世界でトップ12に入らなければ出場できないことになる。つまり相対的にここ4年と同じ強さなら出場できない。進化したレディハヤブサを魅せて欲しい!
ロンドンオリンピック予選を兼ねた2011年8月のFIBA ASIA大村大会で、日本は予選で韓国と中国に惜敗し、予選3位で決勝トーナメントへ進出した。準決勝で同2位の中国に敗戦。1つしかないアジア枠を制してのロンドンオリンピック行きを逃した。3位決定戦でチャイニーズタイペイに勝利し、なんとか世界最終予選行きの切符を手にした。日本は準決勝で優勝した中国には歯が立たず(62-76)、3位決定戦のチャイニーズタイペイ相手にはゾーンプレスが機能。チャイニーズタイペイは2強(中韓)相手に惜敗していた。その相手から快勝だった(83-56)。
日本の緻密なバスケットができれば、このような美しい試合ができる。チャイニーズタイペイのヘッドコーチに「選手たちは自信を失っている」とまで言わしめた。次は世界の強豪にこのセリフを言わせる番だ。
しかし、この大村大会から3カ月以上も経って、中川HCの解任が決定。内海HCの再任が決まった。チームが動き出せるのはWリーグ終了後になるので、実質3ヵ月弱でチームを作って世界選手権に挑むことになる。これは、チームバスケットを重視する日本には極めて難しい状況を意味する。さらにエース大神も故障明け。渡嘉敷は間に合わなかった。ベンチ入りメンバーの12人のうち、6人を入れ替え、ロンドン行きを目指す。
9.未来へつながるニッポンのバスケット
現在日本のバスケットボール界でトップリーグで現役のオリンピアンは3人しかいない。矢野良子(トヨタ自動車)、立川真紗美(富士通)、大神雄子(JX)。いずれも女子でアテネ経験者。このうち、矢野と大神は現在代表。2度五輪を経験したのは、濱口典子(ジャパンエナジー)、大山妙子(ジャパンエナジー)、永田睦子(シャンソン化粧品)の3人。※所属チームは当時。いずれもアトランタとアテネ。
ここ数年アンダーカテゴリーでは好成績をあげている。2011年U-19が7位(町田がベスト5)、同年3×3ユース世界選手権大会で銅メダル(長岡、宮澤ら)、2010年U-17世界選手権5位。
筆者は、アトランタでの熱狂が忘れられない。あの興奮をもう一度味わいたい。あの興奮をもっと日本人に、バスケットボールをしている人に味わってもらいたい。小さな日本人が、世界の大きな大きなバスケット選手を相手にきりきり舞いさせる場面は、日本人としてほんとにスカッとする。
ロンドンへ行くぞ! 隼ジャパン!!
2012年隼ジャパンロンドンオリンピック世界最終予選応援PV