【走路】R331
【現在地】沖縄県那覇市
【宿泊地】ゲストハウス「リトルアジア」
【走行距離】---
【総走行距離】---
【話しかけてくれた人】2人
【総計】768人
【出費】44000円
【内訳】ひめゆりの塔、てびちそば、1か月分宿泊費(40000円)、日用品
【特記事項】---
【走破地図】---
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行こう行こうと思っていたひめゆりの塔は考えさせられることが多かった。
そして今日から定住生活スタート。

ひめゆりの塔前はおみやげやさんがいくつか林立している。

凄惨な感じがなく拍子抜けしたが、それはおみやげやさんゾーンだけだった。

県南を中心に、●●の塔というのがいくつかある。
それぞれが、防空壕のような洞穴になっており、
そこで亡くなった方の慰霊碑として塔が立てられている。

地図上の黒丸、赤丸がそれぞれの塔をあらわしており、
学校ごとに部隊が組まれていた。

ひめゆりの名前の由来は、沖縄県立第一高等女学校(校友会誌「おとひめ」)と、
沖縄師範学校女子部(校友会誌「白百合」)の併置による。

米軍の沖縄上陸に伴い動員された240名は沖縄陸軍病院に配置されたが、
40近くの横穴壕に二段ベッドがあるだけの粗末な施設だった。

本島中部から侵攻した米軍が南下してくるにつれて南に南にと逃げ、
負傷する兵士の看護や水汲み、炊き上げ、死体埋葬に追われる。

ひめゆり部隊は、ひとつの壕にとどまっているわけにはいかず、
壕と壕との間を移動してそれらの仕事に従事し、
ときには移動中に敵兵の攻撃に遭い死傷することもあったという。

これら簡単な説明は公園内の解説がわかりやすい。
また、併設の平和祈念資料館ではより詳しい展示があるため、
予備知識なしでもしっかりと理解できる。

鎮魂の塔と献花台があり、献花は入口で200円で販売されている。
平和記念資料館を見て、きちんと理解した上で献花するのがいいと思う。

亡くなった方の名が刻まれた石碑と、その前にはぽっかりと口を開けた外科壕。

この穴の中での生活・死傷兵の看護などを行っていた。

穴は深さ15mくらいあるんかな?中空になってはいるが、
とても広いとは言えないようなもので、窮屈さやにおいは大変だったと想像できる。

平和記念資料館は300円。館内撮影禁止だった。

戦場となったこの地域について、ひめゆりたちの戦前の様子について、
動員後の役割について、解散命令後の惨状についてなど、
時期を分けて展示されており、時系列で学ぶことができる。

ひめゆり部隊では、米軍上陸後から解散までの90日間で19人が亡くなった。
しかし、解散命令が出たあと数日間で、なんと100人以上が亡くなったとか。

突然の解散により行き場がなくガスや銃弾、負傷で死んでしまう人が出た他、
「鬼畜米英に捕まったら何をされるかわからない」あるいは
「恥をさらして生き残るよりは死んだほうがマシ」と自決する人が多発した。
部隊によっては指揮官が自決を指示したこともあったという。

沖縄戦は日本では未曾有の地上戦で、軍民混在した戦場では
強奪、追い出し、スパイ容疑での惨殺などが頻発。
最終的に県民の1/4が亡くなる大惨事となった。

考えることも多く、ぜひみんなにも行ってほしい場所。