外郎家の歴史
中国から日本に帰化した外郎家(ういろうけ)は、室町時代に朝廷に仕えました。
珍重された「薬のういろう」、接待用の「菓子のういろう」も外郎家の秘伝です。
北条早雲は外郎家を小田原に招き朝廷との外交役としました。
豊臣秀吉によって北条家滅亡された時も外郎家だけは特例で残されました。
こうして、北条早雲の時代から五百年、外郎家は今も小田原でその伝統を守り続けています。
八ツ棟造りの建物と家紋
北条早雲の招きにより、小田原にお城🏯のような八ツ棟造りの建物を建てた時、天皇よりお祝いのお言葉を賜りました。
このため、八ツ棟は壊れると建て直すのが代々の慣わしとなっています。
江戸時代には、八ツ棟造りの建物が東海道の絵地図にも書かれ、東海道のランドマークとなっていたようです。
天皇、朝廷との関わりから
十六の菊の紋、五七の桐の紋、八ツ棟造りの建物は外郎家の象徴です。
さて、次は「薬のういろう」と「菓子のういろう」の話です。
薬のういろう
京にあった外郎家は応仁の乱によって焼失。
このため、薬のういろうは全国で小田原の外郎家だけとなっています。
箱根を超える時には、小田原で名物の梅干し、薬のういろうをもって、おだわら提灯をぶらさげて、盗賊が現れる険しい道に臨んだようです。
菓子のういろう
応仁の乱で京が戦火に包まれる時、職人によって菓子の製法が全国に広がりました。
従って、名古屋、山口、小田原等々の全国の「ういろう」は、室町時代にさかのぼれば同じ外郎家の職人による菓子ということになります。
やっと、歌舞伎十八番「外郎売」まで来ました!
その経緯(いきさつ)を頂いた資料から一部抜粋します。
歌舞伎十八番「外郎売」
享保年間、歌舞伎役者・二代目市川団十郎は持病の咳と痰のため台詞が言えず、舞台に立てずに困っていました。
その時、薬のういろうのことを知り、この薬によって全快しました。
お礼の気持ちで、こういう薬があることを知らせたいからと、舞台で上演することを申し出ました。
外郎家は宣伝になることを恐れて固辞しましたが、再三の申し出に上演を承知しました。
こうして市川団十郎の創作による歌舞伎十八番「外郎売」が誕生しました。
現在でも、市川団十郎・市川海老蔵による歌舞伎十八番の内の「外郎売(ういろううり)」として演じられています。
また、小田原では
小田原ゆかりの歌舞伎演目「外郎売」の口上を披露する「外郎売口上大会」も開かれています。