No.286 水沼君の「潟の渟名井」と丹後の「與佐の真名井」改訂

 
宮原誠一の神社見聞牒(286) .
令和7年(2025年) 08月12日 .
令和7年(2025年) 09月03日追加
 

No.60 水沼君の「潟の渟名井」と丹後の「與佐の真名井」は説明不足があり、
No.286 水沼君の「潟の渟名井」と丹後の「與佐の真名井」改訂
として、新たに改訂版を新規登録します。
 

 

天真名井の霊水は
高千穂の藤岳山の瑠理井、筑紫の蚊田の渟名井、丹後の与佐の真名井
に遷された



赤司八幡宮(止誉比咩神社)の豊姫縁記からみる天孫降臨
天孫降臨の折、天忍石(あめのおしほい)長井の霊水を持降り、筑紫の蚊田の渟名井(ぬない)に遷された方が天牟羅雲命(あめのむらくものみこと、別表記の天村雲命)です。「天忍石長井」は「天眞名井」で、「蚊田の渟名井」は「潟の渟名井」とも表記されます。
蚊田の渟名井は、現在では益影井(ますかげのい)と称し、福岡県北野町の大城小学校の校庭南隅に廃井として千古の歴史を秘めて静かに保存されています。

その益影井の東横に筒井天満宮が鎮座され、境内の観音堂には天村雲命地蔵尊と十一面観音菩薩が祀られています。
観音堂は豊姫神社(止誉比咩神社)の本寺堂であり、豊姫神社の祭神の本地垂迹では、天村雲命地蔵尊は正八幡大幡主、十一面観音菩薩は天照女神の本地仏とされます。
止誉比咩神社は現在の赤司八幡宮に変遷され、天照女神は豊姫(とよひめ=道主貴)、大幡主は高良大神・八幡大神として祀られています。


益影井 大城小学校グラウンド南
福岡県久留米市北野町大城(筒井)

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※止誉比咩神社本跡縁記 (とよひめじんじゃほんじゃくえんぎ)
蚊田は筑紫の中瀛海(なかつうみ)に秀(ひい)でたる潟の地なり。故に、「潟」と「蚊田」は同訓なり。この潟の渟中(ぬな) より湧き出でたる霊水ゆえに、「蚊田の渟名井」と号(なづ)けたり。後人、石畳を敷いて「筒井」と名づく。




赤司八幡宮の「豊比咩縁記」から見る丹後国の「與佐の真名井」
赤司八幡宮の縁記書・水沼盛道著の「止誉比咩神社本跡縁記」の地神三代の部分には、天真名井(あめのまない)、筑後国御井の「蚊田の渟名井」(かだのぬない)、丹後国の「與佐の真名井」(よさのまない)について重要な事が記載されています。
特に、丹後国の「與佐の真名井」と伊勢外宮の「豊受大神」の関係については通説に返す内容となっています。それは與佐の真名井と関連して、伊勢外宮の祭神が入れ替え混乱の状態にあるという。
まずは、「止誉比咩神社本跡縁」の地神三代の「渟名井」の部分から紹介。

(注) 天真名井(あめのまない)、蚊田の渟名井(かだのぬない)、與佐の真名井(よさのまない) はそれぞれ異なる。天真名井(あめのまない)、天渟名井(あめのぬない)も異なり、天渟名井は「蚊田の渟名井」と同義語。天真名井は天孫降臨時の真名井です。

 

止誉比咩神社本跡縁記・益影井(楢原写本)

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※現代語起こし
天津彦々火瓊々杵尊、下界に降臨の時、天忍石(あめのおしほい)長井の霊水を持降り、天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)を使い、
その元(はじめ)の霊水を日向の高千穂藤岳山の神代川瑠理井(たまのい)と筑紫の道中の神代川蚊田の渟名井に遷す。天祖の神の教を言壽鎮曰(ことぶきよざして)、道主貴に進供(そなえまつり)き。これにより、御井の縣の名が起こりけり。
又、丹波の與佐の真名井石井(いわい)に移し鎮め、以て豊食神の饌水(とよけのかみのみけのみず)に献(たてまつ)る。

日本書記に、素戔嗚尊、その頸に所嬰(うなげる)五百筒の御統(みすまる)の瓊を以て、天真名井、またの名、去来の真名井(いざのまない)に濯(ふりそそ)ぎ・・・云々。
これ、蚊田の渟名井と與佐の真名井と誓約(うけい)の中、天真名井と混同に伝え云う。

天渟名井は蚊田の渟名井の転語で、去来の真名井は與佐の真名井の転語である。又、蚊田の渟名井の所に「道主貴」が在(あ)り。
與佐の真名井を守る神を「道主」と号し、また、水沼君が所祭(いつきまつる) 道主貴を訛りて、伊勢の大物忌の祖(おおものいみのかみ)を
「氷沼の道主 ひぬまのみちぬし」と言うは「水」「氷」の字を誤れるものなり。

※「氷沼」でなくて「水沼」が正しい表記です

蚊田の渟名井の地に「道主貴」と「伊勢天照御祖神」(いせあまてらすみおやのかみ)がいまして、水沼君等が所祭(いつきまつる)ゆえに、「丹波の豊受宮」と「伊勢の豊受宮」を混同付会せり。

蚊田は筑紫の中瀛海(なかつうみ)に秀(ひい)でたる潟の地なり。故に、「潟」と「蚊田」は同訓なり。古歌に詠めるに「筑紫の潟はこの地に起これる言葉なり」。
この潟の渟中より湧き出でたる霊水ゆえに、「蚊田の渟名井」と号(なづ)けたり。
この筑紫の潟神代川は当国の名所なり。

※古昔、筑後川を神代川(くましろがわ)といった

後人、石畳を敷いて「筒井」と名づく。この霊水を酌みて出産に祝梼るときは、生み子容顔端正異例聡明にして長寿なり。
この潟の地が連なる水沼に秀で、広く遠くして、村里数多く興して、ここに水沼の縣の名が起これり。


※高千穂の瑠理井(たまのい)と筑紫大城の渟名井(ぬない)
天孫降臨の折、天忍石長井(天真名井)の霊水を持降り、天牟羅雲命(大幡主)は、その元水(霊水)を日向の高千穂の藤岳山の神代川の瑠理井(たまのい)と筑紫の道中の神代川の蚊田の渟名井に遷しています。高千穂と筑紫の道中には共通名の神代川があります。
後に、蚊田の渟名井の霊水を丹後国の與佐(よさ)の真名井に遷しています。



丹後国には古代、筑中国(御井郡、山本郡、竹野郡)の人達が大勢移住しています。その時、「道主貴=豊姫=田心姫」神も「蚊田の渟名井」の霊水も遷しています。
筑紫の道中の「蚊田の渟名井」を丹波の與佐に遷した井を「與佐の真名井」という。この霊水を豊食神の饌水(とよけのかみのみけのみず)に献じています。
筑紫の道中の「道主貴」は、丹後では與佐の真名井を守る神で「道主」という。

また、北野大城には、水沼君が所祭(いつきまつる)「道主貴=田心姫」と「伊勢天照御祖神=天照女神」があり、丹後に遷した「伊勢天照御祖神社」ゆえに、伊勢神宮は、「丹波の豊受宮」と「伊勢の豊受宮」を混同しているという。丹後には元伊勢皇大神社や元伊勢豊受大神社があります。

つまり、「丹波の豊受宮」の祭神は「豊姫=天照女神」であり、「伊勢の豊受宮」の祭神は「大幡主」であり、その豊受大神が伊勢外宮様であるという。その外宮様が混乱しているという。 丹後の眞名井神社は籠神社(元伊勢籠大神宮)の奥宮という。



【丹波丹後の関連神社】

眞名井神社
元伊勢籠神社の奥宮で、別名を久志濱宮(くしはまのみや)とも云う。
住所 京都府宮津市中野905
祭神 豊受大神
由緒 奥宮の真名井原に匏宮(ひさごのみや) といい豊受大神が鎮座していたが、崇神天皇39年に大和笠縫邑から天照皇大神が遷座したので豊受大神と共に祭祀していた。垂仁天皇25年に天照皇大神が伊勢に遷座した後、雄略天皇22年に伊勢度会郡の山田原に豊受大神も遷座となった。
元正天皇養老3年に、本宮を奥宮眞名井神社の地から籠神社の現在地へ遷し、海部直愛志(えし)が祖神・彦火明命を主祭神とし、天照・豊受の両大神、及び海神を相殿に祀り、天水分神を合わせて祭るようになった。(神社石碑の社説から)
豊受大神元津宮なり。古名は匏宮(ひさごのみや)。
別に云う、天吉葛宮、比沼眞名井(宮) 、久志浜宮、元伊勢大元宮。

 

※匏宮 匏(ひさご)は ”ひょうたん” を半分に割った水汲み器で、柄杓(ひしゃく)に相当し、北斗の神を祀ります。北斗の神は大幡主(豊受大神)で、北辰の神は天照女神(天照皇大神)です。北斗とは北斗七星、北辰とは北極星のことです。北斗の神は妙見神で、妙見菩薩とは七曜の星(北斗七星)のことです。妙理菩薩が北辰の神で天照女神です。

※匏宮(ひさごのみや)の祭神は豊受大神(下宮)の大幡主
※與佐宮(よさのみや)の祭神は天照皇大神(内宮)の天照女神
※吉佐宮(よさのみや)は「與佐の真名井」から来ています



元伊勢 籠(この)神社
別名 匏宮(ひさごのみや)・吉佐宮・与謝宮(よさのみや)
住所 京都府宮津市大垣430
祭神 彦火明命(彦火々出見命)
相殿 豊受大神 天照大神 海神(わたつみ) 天水分神
由緒 古昔より奥宮眞名井原に豊受大神をお祀りしてきましたが、崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑から御移りになり、これを吉佐宮と申し、豊受大神と共に四年間お祀り致しました。その後、天照大神は垂仁天皇の御代に、豊受大神は雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢にお移りになりました。それゆえ、当社は元伊勢と云われております。両大神がお移りの後、養老3年、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を吉佐宮から籠宮と改め、元伊勢の社として崇敬を集めてきました。


元伊勢内宮皇大神社
住所 京都府福知山市大江町内宮217
祭神 天照皇大神
由緒 崇神天皇39年に倭の笠縫邑を出御され、丹波へ御遷幸になり、其の由緒により当社が創建されたと伝える。垂仁天皇26年に伊勢の五十鈴川上(今の伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。引き続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢(内宮)さん」などと呼び、今に至る。


元伊勢豊受大神社
住所 京都府福知山市大江町天田内60
祭神 豊受大神
古くから元伊勢だ、いや間違いだと論議の絶えない神社である。


比沼麻奈為神社 (ひぬままないじんじゃ)
住所 京都府京丹後市峰山町久次宮谷510
祭神 豊受大神
由緒 この神社の創建年代等については不詳であるが、平安時代に制定された延喜式にも記載された式内社で、伊勢神宮の外宮の祭神・豊受大神はこの神社の分霊を祀ったものとされ、「元伊勢」とも称される。

 

※水沼眞名井神社
眞名井神社の由緒では、眞名井神社の別名を比沼眞名井(宮)と言われています。本来は、水沼眞名井神社で天照皇大神(内宮)の天照女神を祀ります。その霊井を「與佐の真名井」といい、與佐宮(よさのみや)の称号の由来になっています。当社では吉佐宮(よさのみや)と表記されています。



大宮売神社
住所 京都府京丹後市大宮町周枳(すき)1020
祭神 大宮賣神、若宮賣神
由緒 創立不詳。織物と酒造を司る大宮売神(おおみやめのかみ)、食物・穀物を司る女神である若宮売神(わかみやめのかみ)、豊受大神の二神を祀る。

 

※大宮と若宮
神社社説では、大宮賣神と若宮賣神の二柱の豊受大神が祀られていることになります。本来ならば、大宮=豊受大神(大幡主)、若宮=天照皇大神(天照女神)となります。神徳として、織物を司る神が天照女神(天照皇大神)で、食物・穀物・酒造を司る神が大幡主(豊受大神)となります。
大宮売神と表記すれば、大宮売神は天照女神となります。それで、祭神表記は「大宮神、若宮売神」ではないでしょうか。



竹野神社
住所 京都府京丹後市丹後町宮249
祭神 天照大神
相殿 竹野媛命 日子坐王命 建豊波豆良和気命(たけとよはずらわけのみこと)
由緒 竹野媛は、丹波大県主由碁理(ゆごり)の娘で、開化天皇の妃となったと古事記・日本書紀は記す。年老いた竹野姫が「天照大神」を祀ったのが竹野神社の始まりと伝える。



籠神社の奥宮・眞名井神社は別称・比沼眞名井神社(ひぬまないじんじゃ)と言われる。
止誉比咩神社本跡縁記(益影井)を参考にすると、「ひぬままないじんじゃ」は「氷沼眞名井神社」と書くことになり、「氷」は「水」の間違いで、「水沼眞名井神社」となり、比沼眞名井神社は水沼の眞名井神社となります。

よって、豊受大神といっている神は「道主貴=豊姫」となります。本来の豊受大神は大幡主ですが、伊勢に遷座前の祭神・豊受大神は豊姫となって、豊受大神が豊姫と大幡主で混同されています。

「比沼麻奈為神社」は「みぬままない神社」と読むことになり、祭神は豊姫=田心姫=天照女神となります。

丹波の豊受宮が伊勢外宮に本当に遷宮であれば、伊勢外宮の祭神・豊受大神は、間違って丹後の豊受大神(天照女神)を伊勢神宮に遷されたことになります。
しかし、眞名井神社の由緒から、
伊勢に遷られた神とは、匏宮の豊受大神が大幡主として外宮に、與佐宮の天照女神が天照皇大神として内宮に遷られたことになります。
社説は、匏宮(ひさごのみや)と與佐宮(よさのみや)を混同されています。

 

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※祭祀線からみる与佐宮
比沼麻奈為神社、大宮賣神社、眞名井神社の祭祀線は直線に乗り、主祭神が
道主貴(みちぬしみむち) = 豊姫(とよひめ) = 田心姫(たごりひめ) = 天照女神
であることを示しています。

 



筒井天満宮境内の観音堂
益影井がある大城小学校の校庭南に筒井天満宮が鎮座です。
境内の
観音堂は豊姫神社の本寺堂であり、「天眞名井」を「潟の渟名井」として、ここにおさめられたという天村雲命地蔵尊が祀られ、その右横に十一面観音菩薩が祀られています。
豊姫縁起では、天孫降臨の時、従った神様に「熊野忍蹈命 くまのおしほみのみこと」がおられ、別名、熊野牟須毘命(むすびのみこと)といい、大幡主です。

十一面観音菩薩は熊野牟須美命(むすみのみこと)で天照女神です。
(熊野夫須毘、熊野夫須美とも表記され、牟須と夫須は同義語てす)

天村雲地蔵尊は愛宕勝軍地蔵尊と呼ばれ、その地蔵尊の制作者は聖徳太子であり、本地蔵尊は大分県日出町の愛宕神社にあり、大分県天瀬の高塚地蔵尊は、この分霊となります。

 

大城村郷土読本
天孫降臨に際し高天原から持伝えた霊泉という由緒を持つ益影井は、神功皇后の皇子出産にも重大な役をにない、御井の県の名の起源と伝え、長く豊比咩神社の神井として、又庶民の産湯の霊水としてほめたたえられました。今は小学校々庭に廃井として千古の歴史を秘めて静かに眠っています。
益影井に近い筒井天満宮境内の観音堂はかつて豊姫神社の本寺堂であり、ありし日には、その盛況をほこった日もあろうに、僅に古老の言に「安産・産後の観音」と伝えて霊験あらたかなりし過去の片鱗をうかがうばかりです。天眞名井を潟の渟名井として、ここにおさめられたという天村雲命も、路傍の地蔵堂と祀られて永遠のほほえみを含んでいます。東筒井・中筒井・西筒井・三井田という字名は益影井と深い関係を持っていますが、史蹟と地名の関連は興味ふかい問題です。


筒井天満神社
福岡県久留米市北野町大城(筒井)126

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観音堂と筒井天満神社

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益影井(中央の後方)と観音堂

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観音堂の天村雲愛宕地蔵尊

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観音堂の十一面観音菩薩(右)

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境内観音堂の西隣に益影井があり、観音堂の後方には大三輪神社が鎮座です。

観音堂と大三輪神社
祭神 大巳貴(若宮の天照女神)、少彦名神(大宮の大幡主)

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参考資料メモ帳
※伊勢神宮のふるさと〜元伊勢について〜『倭姫命世記』伊勢宮行程
真名井神社HPから http://www.motoise.jp/yuisyo/

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※②吉佐宮は「匏宮(ひさごのみや)」となります
厳密には匏宮と与佐宮の併記になります


※日向の高千穂の神代川の天真名井(瑠理井)
筑紫の道中の「道主貴」は、丹後では與佐の真名井を守る神で「道主」という。
天真名井の霊水は
日向高千穂の藤岳山の瑠理井(たまのい)、
筑紫の蚊田の渟名井(ぬない)、
丹後の与佐の真名井(まない)
に遷された。

その守護神が
日向高千穂の瑠理井が湍津姫神(たぎつひめ)
筑紫蚊田の渟名井が田心姫神(たごりひめ)
丹後与佐の真名井が市杵島姫神(いちきしまひめ)
であると独断で想像しています。
三女神も三位一体の同一神で天照女神ですけれど。

 

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井手左大臣・橘諸兄の本拠地、京都府綴喜郡(つづきぐん)井手町井手には、地名として「玉」がつく、玉川、玉水、玉ノ井があります。この名称は天照女神の玉垂命、許黄玉にちなみます。

玉津岡神社
京都府綴喜郡井手町井手東垣内63(つづきぐん)
祭神 下照比賣命 (したてるひめ)  → 天照女神
配祀 味耜高彦根命 (あじすきたかひこね) → 大幡主
合祀 天児屋根命 (あめのこやね)
 . 少彦名命 (すくなひこな)
 . 素盞嗚男命 (すさのおのみこと)
 . 菅原道真公 (すがわらみちざね)
由緒 飛鳥時代540年、下照比賣命が兎手(いで)玉津岡南峰に降臨し祀ったことに始まるという「玉岡の社」が玉津岡神社の起源。「玉岡の社」は「玉岡春日社」、江戸時代に「八王子社」と称号を変え、現在は玉津岡神社となる。
略歴
540年、欽明天皇元年、兎手玉津岡南峰に下照比賣を祀る
731年(天平3年)、井手左大臣・橘諸兄は、橘一族の氏神として椋本(くらもと)天神社を創建
1260年(文応元年)、現在地に遷座
1878年(明治11年)、八王子社 (下照比賣命 玉津岡)
春日社 (天児屋根命 京都府綴喜郡井手町井手西垣内)
田中社 (少彦名命 .京都府綴喜郡井手町井手宮の前)
八坂社 (素盞嗚男命 京都府綴喜郡井手町井手西前田)
天神社 (下照比賣命・味耜高彦根命 京都府綴喜郡井手町井手玉ノ井)
の5社を八王子社(玉岡社)に合祀
1881年(明治14年)、玉津岡神社と改称
1890年(明治23年)、有王山(京都府綴喜郡井手町井手山吹)に祀られていた有王天満宮(祭神・菅原道真)を合祀。有王山は元弘の変(1333年)に破れた後醍醐天皇が笠置山から落ち延び、捕らえられたと伝わる所
境内社・橘神社 祭神・橘諸兄(たちばなのもろえ)




梅宮大社
京都府京都市右京区梅津フケノ川町30
奈良時代に県犬養三千代(橘三千代、橘諸兄母)によって山城国相楽郡井手庄(現・京都府綴喜郡井手町付近)に祀られたのが創祀といわれ、のち平安時代前期に橘嘉智子(檀林皇后)によって現在地に遷座したとされる。橘嘉智子は、第52代嵯峨天皇の皇后にて、第54代仁明天皇を出産し、外戚としての橘氏の中興に貢献した人物。
現在の祭神は、本殿4柱・相殿4柱の計8柱。相殿4柱は仁寿年間(851-854年)の合祀という。
祭神 本殿
酒解神(さかとけのかみ). - 木花咲耶姫(このはなのさくやひめ) → 天照女神
大若子神(おおわくこのかみ)- 大国魂大幡主
小若子神(こわくこのかみ) - 天照女神
酒解子神(さかとけこのかみ)- 神主玉命(木花咲耶姫の子・橘の祖)
相殿 嵯峨天皇、橘嘉智子(檀林皇后)、仁明天皇、橘清友公(橘嘉智子の父)
※大若子神・小若子神は博多櫛田神社の祭神です



橘 有王
橘系図を見ていると、有王がおられました。有王社とは関係はありませんが、橘 嶋田麻呂の四男です。その曾孫に性空上人がおられます。
性空上人は橘族で、宇奈岐日女神社の由緒に登場されます。
「康保年中(964-968)性空上人が由布岳に六観音の霊場を開いて佛山寺を開基し、宇奈岐日女神社と習合六柱の神々を祀ったことから、六所宮、木綿大明神(ゆうば)と称す。」

 

※性空(しょうくう)Wikipedia
910年-1007年、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。36歳の時、慈恵大師良源に師事して出家。霧島山や肥前国脊振山で修行し、966年 播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺を創建。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。


嶋田麻呂の父は橘 奈良麻呂ですが、その弟に「緒方」がおられます。楠正成のご先祖です。21代目の「盛網」の時、河内守となられて金剛山の麓を所領されたことが系譜に書かれています。そして、館の側に楠の影があり、時の人は楠殿と言った、この由縁で、橘姓から「楠」姓を名乗ったという。さらに、家紋の菊水紋についても語られています。
橘諸兄公が山城の井手に居た時、酴醿(どぶろく)を衣にこぼした時、そのシミを菊水と誤って認識したという趣旨がかかれていますが、家紋との関係は意味不明です

 

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楠正成(橘緒方系図)※春日市の宮原(秀範)家系図から部分切り取り

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